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大山周遊〜伊勢原日向から大山見晴台、大山表参道へ


3.雨降山大山寺

2.日向から大山中腹・見晴台、大山阿夫利神社下社はこちら。




大山阿夫利神社下社からは女坂の途中に建つ大山寺へ向かう。

下社のすぐ下、男坂(おとこざか。おざか)と女坂(おんなざか。めざか)の分岐。男坂は段差の大きい石段が延々と続くので、子どもや小柄な人が山下りに使うには歩幅がきつくて少々危ない。




一方、女坂も男坂よりは石段の段差が小さいとはいえ、古色蒼然とした不整形な石段は決して歩き易いとは言えない。




山慣れない人、脚力が衰えた人の下山時の転倒事故も多発している。この手の登山道は、とにかく下りに事故が多い。下りに自信がない人はぜひケーブルカーを使ってほしい。




ケーブルの「ガラガラガラ」と響く音とともに、参道の脇をケーブルカーが上下していく。




女坂の見どころとして、随所に「大山女坂七不思議」が見られる。

まずは「眼形石(めかたいし)」。手を触れて拝むと目の病に効くといわれた。




続いて「潮音洞(ちょうおんどう)」。洞(ほこら)に耳を澄まして心を鎮めると潮騒が聴こえたという。




「無明橋(むみょうばし)」。話をしながら通ると災いが起きた、という。




無明橋からは大山寺(おおやまでら)の本堂がすぐそこに見える。




真言宗・雨降山大山寺(あぶりさん おおやまでら)、通称大山不動。

創建は奈良時代の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)七年(755)。開山は良弁(ろうべん)。本尊は不動明王。開山の良弁は聖武天皇の信任が厚く大山寺は勅願寺(天皇の命により開かれる寺)となっている。
第三世の空海(弘法大師)、第五世の安然が入山して伽藍を整えることにより大山寺は平安初期には華厳・真言・天台の三宗兼学となった。

中世から近世にかけては源頼朝、足利尊氏、鎌倉公方足利氏、小田原北条氏、徳川家康らが寺領を寄進するなどの庇護を与えることで寺勢が保たれる。この辺りは江戸時代後期の地誌「新編相模国風土記稿」巻之五十一大住郡巻之十糟屋庄不動堂(雨降山大山寺)に詳しい。


江戸時代には江戸庶民による「大山詣り」の大流行で隆盛を極めた。町人たちは「講」を組織して資金を出し合い、メンバーが交代で寺社詣での旅をした。大山の場合、その祭神(大山祇命)が富士山の祭神(木花咲耶姫)と父娘の関係にあることから江戸時代後期には何れか一方の「片参り」ではなく富士と大山を「掛け越し」で巡ることも盛んに行われていた。高尾山薬王院を参照

明治初頭の神仏分離により廃仏毀釈が吹き荒れた世の中、打ち毀しにあった大山寺の本堂は再建にあたり阿夫利神社下社の位置から現在地に移転。現在の本堂は明治18年(1885)築。




本堂の彫刻は見応えがある。

向拝(こうはい。せり出した屋根)の軒唐破風(のきからはふ)の下、蟇股(かえるまた)の彫刻は大山寺にふさわしい彫刻。




滝に打たれる修行僧。開山・良弁僧正による滝行の故事にちなむのであろう。




海老虹梁(えびこうりょう。湾曲した梁)の上、束(つか)に彫られた彫刻。




これも滝行だろうか。




木鼻(きばな)には龍。近世以降の社寺によく見られる獅子鼻(ししばな)や象鼻(ぞうばな)・獏鼻(ばくばな)ではなく、不動明王の化身である龍(倶利伽羅龍王)が彫られている。




向拝の柱に巻き付くように彫られた龍。




屋根の側面、妻壁(つまかべ)あたりの彫刻。




青銅の宝篋印塔(ほうきょういんとう)。

大山寺公式サイトによると、寛政七年(1795)の造立。もともとは旧不動(現在は下社が建つ)に建っていたが明治初頭の廃仏毀釈で破壊され、のちに再建(修復復元)された。




かわらけ投げ。

かわらけとは素焼きの土器。関東では中世以降、武家の儀式に用いられた。たとえば室町中期の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の一拠点である茅ヶ崎城址(横浜市都筑区)からは「渦巻きかわらけ」が、戦国後期の北条氏照(四代氏政の弟)が城主を務めた八王子城址(東京都八王子市)からは「金箔かわらけ」が出土している。




谷を覗き込むと的が見える。

ここはひとつ大技「獅子の洞入り」で、そりゃっ。あぁっ・・・(詳しくは桂米朝師匠や桂吉弥師匠(徒然亭一門では草原兄さん)の「愛宕山」をどうぞ)。




鐘楼奥の、倶利伽羅の滝。時は寒中の真っ只中、凍て付いてつららになっている。




境内から望む、江の島と三浦半島。




枯紅葉の石段を下りていく。大山不動の紅葉シーズンはこちら。




前不動の傍らに建つ「倶利伽羅堂(龍神堂、八大堂)」。雨乞の御本尊である大山龍神(八大龍王)を祀る。

大山寺公式サイトによると、元々は二重滝そばの二重社あたりに建っていたが明治の初めここに移されたという。安政の大火、明治初頭の廃仏毀釈による打ち毀しを免れた、大山最古の堂となる。




前不動。大山寺公式サイトによると、安政の大火後現在の大山ケーブル駅(旧称追分駅)付近すなわち江戸時代の前不動の位置に建てられていた建物が、今の位置に移築されたとある。大山で二番目に古い堂というが傷みも目立ち、現在は本尊は安置されていない。

屋根の奥には本堂への石段が見える。




再び女坂七不思議。
こちらは「逆さ菩提樹」。上が太く下が細く逆さに生えたように見えたというが、現在の樹は二代目。




「爪切地蔵」。大山寺に第三世住職として入山した弘法大師が道具を使わずに爪だけで一夜のうちに彫ったという伝説がある。




この辺りまで下りてくると石段も歩きやすい。




「子育地蔵」。初め普通のお地蔵さんとして安置されていたのがいつの間にか顔が童(わらべ)に変わっていたという。




「弘法水(弘法の加持霊水)」。弘法大師が杖を突いたところから水が湧き出たという。この有名な弘法大師伝説は全国各地に見られる。




まもなくケーブル駅。




登り口の「男坂」と「女坂」の追分(おいわけ。分岐)。「新編相模国風土記稿」によると江戸時代まではこの辺りに前不動が建っていた。現在は男坂登り口に追分社(八意思兼神社・やごころ おもいかね じんじゃ)が建つ。

風土記稿によると「山麓(坂本村小字新町に銅鳥居あり。当山の入口なり)より坂本村(注・現在の伊勢原市大山)の地二十二町を登り前不動に至る。ここより左右に登る山路二条あり。右を男坂と云い左を女坂と呼ぶ。男坂を登ること十八町にして不動堂(注・現在の下社)あり。堂前楼門の下を右に折るる山路を日向越と云う。また堂の左方の路を蓑毛越と称す。頂上に登る路は堂の背後左方にあり。およそ二十八町を攀じて石尊社に至る」とある。一町はおよそ109m。




新編相模国風土記稿・大山図(赤文字加工はサイト管理者)。 拡大版。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション




「大山ケーブル駅」。かつては「追分駅」と呼ばれていた。ちなみに「大山寺駅」は「不動前駅」、「阿夫利神社駅」は「下社駅」だった。




「こま参道」のこま柄タイル。参道の踊場の段数を下から順番に大小のこまの絵で表している。ちなみにここは最上段の二十七段目の踊場。




大山登山道の案内板。

大山の登山道はきつい岩場や不安感を煽る鎖場(くさりば)がある訳ではなく、いざとなればケーブルカーも利用できるので山岳界や英語圏でいうところのハイキングということになるのだろうが、世間一般の人たちがハイキングという言葉からイメージするような「今日はチビちゃんと楽しいハイキング♪」というレベルの山ではない。どこまで登るかにもよるが軽いノリで行くと「えっ?」となるだろうから、しっかりした山登りに行くという心づもりで登るのがいいと思う。




こま参道からケーブルカーのりばを見上げる。


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