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異文化との邂逅、浦賀・久里浜


2.西浦賀

1.浦賀駅から東浦賀へはこちら。




東西渡船場を忙しく往復する渡船「愛宕丸」。




西浦賀の船着き場から浦賀ドック方面へ、整備されたばかりの遊歩道を歩く。海とともに歩んできた浦賀の歴史に思いを馳せながら歩く、心地のいい散歩道。




細長く延びる、浦賀湾。




旧浦賀船渠(うらがせんきょ。のちの浦賀重工業、住友重機追浜造船所浦賀工場)跡。造船所は平成15年(2003)に操業を終えた。




錆びついたクレーンの跡。




敷地は塀で遮られている。




浦賀コミュニティ広場。普段はゲートが施錠されており中に入ることはできない。




フェンス越しの浦賀ドック。
浦賀の地は近代造船の先駆けとなった地。

嘉永六年(1853)のペリー来航より以前、相次ぐ異国船の来航に老中阿部正弘(あべまさひろ)は洋式軍艦の導入を構想していた。これに消極的な意見も幕府内にはあったものの、浦賀奉行も大砲の搭載可能な大型船の建造を再三にわたり上申していた。

こうしたなかペリー艦隊が来航するに至り、ついに幕府は大船建造を解禁。同年中に浦賀に造船所(修復場)が設けられた。幕府にとって初めての洋式軍艦となる鳳凰丸は与力中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)らの指揮の元、浦賀奉行所付船大工によって建造された。その大きさは長さ20間(けん。およそ36m)、幅5間(およそ9m)、深さ3間1尺5寸(およそ6m)、大砲10挺据え。
鳳凰丸は阿部ら幕閣による見分のため品川沖に回航。見分の結果は「遠洋航海は疑問だが浦賀や江戸内海(江戸湾)の警護には役立つ」という評価だった。
なおペリー艦隊の蒸気船サスケハナ号は長さ255尺(42間3尺、およそ77m)、幅45尺(7間3尺、およそ14m)、深さ37尺6寸(6間1尺6寸、およそ11m)、2500t。帆船サラトガ号は長さ151尺(25間1尺、およそ45m)、幅35尺(5間5尺、およそ10m)、深さ25尺(4間1尺、およそ8m)、900t。
鳳凰丸のサイズは遠洋航海が命懸けだった時代の按針の船とは比較にならないとはいえ、ペリー艦隊の船と比べるとやはり小さい。
ともあれ、浦賀奉行所の役人たちはこうした経験を買われてオランダ人教官による長崎海軍伝習に参加。これが後の軍艦操練所(江戸築地)の運営に役立っていく。

安政6年(1859)には浦賀の修復場でアメリカへの渡航を控えたオランダ製蒸気船「咸臨丸」の修理が行われた。その中心となったのは、やはり中島三郎助であった。咸臨丸は長さ27間半(およそ50m)、幅4間(およそ7m)、大砲12門搭載可能の蒸気船。
軍艦操練所の置かれた築地沖や造船所の置かれた石川島は水深が浅かったため20間(およそ36m)以上の船の進水は困難だった。そのため浦賀が江戸湾内における大型船の建造・修復の拠点となっていた。その施設は動力ポンプや扉船はなく潮の干満と人力に依存する簡単な船渠であった。
やがて時代は幕末から明治へと移り、修復場は明治9(1876)に閉鎖される。その頃には横須賀本港に幕府から明治政府へと引き継がれた大規模な横須賀造船所が完成していた。

参考「新横須賀市史 通史編 近世」

時は流れて明治29年(1896)になると民間資本による浦賀船渠(うらが せんきょ)が設立された。以降、浦賀は造船業の街として活況を呈していくこととなる。
そのきっかけとされるのは明治24年(1891)、西浦賀(愛宕山公園)に建つ中島三郎助招魂碑の建立式典。榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕臣と浦賀の有力者が会して浦賀における三郎助の偉業を再興するような事業を構想した、とされる。その招魂碑は後で見に行く。




ズームアップするとドックに下りていく階段とレンガ壁が何とか確認できる。

明治34年(1901)には第一号ドックが竣工。そのドックが今に残っている。明治期のドライドックは耐水性に優れた石造ドックが主流であり、レンガ造ドックは珍しい。
国内では浦賀船渠(浦賀ドック)、石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)の計二基のみであり、いずれも浦賀にある。川間ドックは後で見に行く。

なお、明治期にドライドックが築造されたのは関東では神奈川県下のみ。浦賀に二基(民営)、横須賀に四基(官営)横浜に三基(民営)。そのうち「みなとみらい」再開発で消えた横浜船渠3号ドック以外はすべて現存する(解体復元を含む)。これらのドックは関西、広島県下、長崎県下など日本各地に建造されたドライドック(その多くは現存しない)とともに近代海洋国家日本の礎となった。




門わきの煉瓦塀。フランス積(づみ)になっている。フランス積はレンガの長辺と短辺を交互に並べる積み方。




海沿いを離れ、旧道(浦賀道・うらがみち)を歩いて戻る。




浦賀道の案内板。江戸中期に浦賀奉行所が設けられて以降、多くの人々の往来で賑わった。




「浦賀道見取絵図」。

江戸時代後期(天保年間の頃)の浦賀は東浦賀でおよそ2,000人の人口があった。西浦賀ははっきりした人口データがないが同じ頃の家数で比較すると東浦賀のおよそ450軒に対し西浦賀はおよそ550軒なので、東西浦賀ではおよそ4〜5,000人の人口があったのだろう。

浦賀には東日本、西日本の各地から菱垣(ひがき)廻船や樽廻船、諸国廻船などの千石船(せんごくぶね)が入港してきた。大型船である千石船の入港は認可された湊に限られる。神奈川湊や品川湊といった湊はこうした特権を得ることが出来ず千石船の積荷の陸揚げはできなかった。浦賀で陸揚げされた積荷は浦賀商人による取引を経て湾内各地の湊へと送られていったため、浦賀は商品流通の中継地として江戸湾で最も重要な湊となった。

こうして浦賀の商人は諸国の廻船の物資を独占して扱うようになる。やがて江戸時代後期になると、菱垣廻船の物資を独占して扱っていた江戸十組問屋(とくみどんや)に廻る物資が減少したため、江戸の商人が奉行所に浦賀での廻船積荷の陸揚げを停止させるよう訴え出るなど利害関係が対立することになった。
参考「新横須賀市史 通史編 近世」




往時の雰囲気をそれとなく残す、旧道。




叶神社(かのうじんじゃ。西叶神社)。その起こりは古く、源頼朝による源氏再興に助力した文覚(もんがく)により養和元年(1181)に山城国(現京都府)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が勧請された。




現在の社殿は江戸時代後期の天保13年(1842)築。大いに繁盛した浦賀商人の多額の寄進により建てられたであろう社殿は、見事な彫り物で飾られている。彫師は安房(あわ。現千葉県)の後藤利兵衛(ごとう りへえ)。

頼朝が安房で再起を果たしたとか、小田原北条と安房の里見が合戦を繰り広げたとか、そのほかにも神奈川の洲崎明神とか都筑の杉山神社など相模・武蔵と安房との関わりはいろいろと興味深い。




拝殿(はいでん)の向拝(こうはい。せり出した屋根)の下、蟇股(かえるまた)には見事な龍の彫り物。




格天井(ごうてんじょう。格子状の天井)にも龍の彫り物。




本殿。




本殿の妻壁(つまかべ)あたりには、梁を支える格好の力士の彫刻。




本殿の下部、獅子の木鼻(きばな)が並ぶ中で一つ見つけた、浪形の彫刻。




浦賀奉行所与力・香山栄左衛門永孝の顕彰碑。

ペリー来航の際、最初に黒船に乗り込んだ役人は異国船対応当番であった与力の中島三郎助とオランダ通詞の堀達之助。アメリカ側は「高官以外とは会わない」といって追い返そうとしたが、堀が「この方は浦賀の副奉行(the second governor)である」と咄嗟にハッタリをかまして交渉にこぎつけた。番船が出動して4隻の黒船を囲む中で中島らが他の船には目もくれずにペリーの乗艦する旗艦サスケハナ号にまっすぐ向かったのは、掲げられた旗が旗艦を示す標章であるという国際法を知っていたからである。

奉行所に戻った中島らは浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(とだ いずのかみ うじひで)に報告。戸田はみずからは交渉の席につかずに与力の香山を「浦賀の奉行にして最高の役人(governor of Uraga)」と名乗らせてその後の交渉にあたらせた。
こうして、浦賀奉行側(香山)とペリー側(副官のコンティ大尉)との交渉は腹の探り合いで始まった。香山は奉行所の浦賀役所と江戸役所そして湾内を動き回る黒船に親書受け取りの場となった久里浜まで休む間もなく何度も往復、疲労困憊の中で大任を果たした。
参考「新横須賀市史 通史編 近代」




続いて曹洞宗延命山東福寺(とうふくじ)。




本堂。東福寺は浦賀奉行が就任した際に必ず仏参した禅宗寺院。




案内板に見る江戸琳派の絵師にして俳人であった酒井抱一(さかいほういつ)による亀の絵馬。ちなみに酒井抱一は横浜・杉田梅林を訪れた際にそのあまりの素晴らしさに杉田を桜の吉野になぞらえた俳句を残している。

絵馬の実物も気になっていたところだが、急ぎ足でじっくりお話をいただく時間がない以上声掛けは遠慮する。 




観音堂の相輪(そうりん)が映える、美しき浦賀の眺め。墓地からの眺めとなるので、そっとお邪魔。




東福寺を後にする。




西浦賀の街並み。漆喰の蔵が見える。




こちらは石造の蔵。




蔵に関する案内板。浦賀は江戸時代から幕末・明治の蔵が今に残る、蔵の街。




奥に見える石段を登り、常福寺へ。




浄土宗放光山常福寺(じょうふくじ)の本堂。




案内板。創建は室町中期の文明年間(1469〜1486)。江戸時代には浦賀奉行が着任・離任する際の本陣(御用寺院)の役割を果たした。




訪れたのは、ちょうど33年に一度の「三浦薬師如来霊場大開帳」と12年に一度の「三浦不動尊霊場大開帳」が重なる霊場の同年大開帳となった時期。132年に一度のことだから生きているうちは二度とない機会、本堂にて参拝していく。

常福寺を後にし、愛宕山公園へ向かう。




見事な、波の鏝絵(こてえ)。浦賀にも所縁のある「波の伊八」こと安房(あわ。現千葉県)の彫師・武志伊八郎(たけし いはちろう)の浪形を題材にしているようだ。
なお、行元寺(ぎょうがんじ。千葉県いすみ市)にある伊八郎の欄間彫刻「波に宝珠」は、かの葛飾北斎が「神奈川沖浪裏」の着想を得たといわれる。

伊八の作品はこのあと訪れる眞福寺(吉井)に残っている。




公園への近道は閉鎖されていた。




昔からの街並みが随所に残る西浦賀。




愛宕山公園入口。明治24年(1891)の開園となるこの公園は現在の横須賀市域では最古の公園となる(開園当時は三浦郡浦賀町)。




当初は「浦賀園」と称した。




案内板。




階段を上っていく。









咸臨丸出航の碑。なお記念碑は入港地のサンフランシスコにも建っている。




嘉永六年(1853)、浦賀沖に蒸気船サスケハナ号を旗艦としたペリー艦隊が現れた。このときは国書の受け渡しが上陸地の久里浜で行われた。

翌年の嘉永七年(1854)にはポーハタン号を旗艦として更なる大編成の艦隊で現れたペリー艦隊。今度は神奈川(横浜)に上陸し、日米和親条約が締結された。これにより下田、函館がアメリカ船の寄港地として開港。なお、横浜開港記念会館にはポーハタン号のステンドグラスが飾られている。

その後、日米和親条約に基づきアメリカ初代総領事ハリスが下田に着任。老中堀田正睦(ほった まさよし)は下田奉行井上清直と目付の岩瀬忠震(いわせ ただなり)を全権として、アメリカ側の全権ハリスと通商条約締結に向けて交渉した。
孝明天皇の勅許を巡る混乱の中、安政五年(1858)に江戸湾内に停泊していたポーハタン号の艦上で条約調印がなされた。これにより神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎、新潟、函館が貿易港として開港することが決まった。

そして安政七年(万延元年・1860)、条約の批准書交換のため正使新見正興、副使村垣範正そして目付の小栗忠順(おぐりただまさ)がポーハタン号に乗艦してアメリカに派遣された。その際、軍艦操練所教授方頭取の勝海舟を艦長とする咸臨丸がアメリカ西海岸まで随行した。




愛宕山公園山頂の広場。




浦賀港の眺め。生い茂る木々が視界を遮りがちなのが惜しい。




与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑。夫妻は晩年の昭和10年(1935)に吟行で浦賀を訪れた。

「黒船を怖れし世などなきごとし浦賀に見るはすべて黒船」(鉄幹)
「春寒し造船所こそ悲しけれ浦賀の町に黒き鞘懸く」(晶子)




浦賀の港を見下ろすこの地に建つ、中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)の招魂碑。愛宕山公園はこの碑の建立の際に整備された。篆額(てんがく。題字)は旧幕臣であった榎本武揚(えのもと たけあき。建立当時は外相)の筆による。

中島三郎助は幕末期における浦賀奉行所の与力(よりき)。黒船来航の際「副奉行」と称していちばん最初にペリーの船に乗り込んだ。その直後には幕府最初の洋式軍艦「鳳凰丸」建造の中心的役割を果たす。長崎海軍伝習に参加後は築地の軍艦操練所の教授方出役(しゅつやく。兼務)となった。
幕末から明治へと移りゆく激動の時代のなか、三郎助は新政府に対して徹底抗戦、函館戦争(五稜郭の戦い)で戦死した。




山頂から少し進んだ先、浦賀沖の海を見下ろす。




「日本龍馬会」による坂本龍馬像建立計画の案内看板がある。

もしも龍馬がたまたま剣術修行で江戸に出て来ていなければ、そして浦賀の地でペリー艦隊の衝撃を目の当たりにしていなければ、龍馬の人生もまた全く違ったものになっていたのかもしれない。




来た道を戻り、愛宕山公園入口へ。




愛宕山公園から浦賀番所跡へ。




船番所跡。




番所は浦賀奉行所の一部署であり、「廻船改め」が行われた役所。享保五年(1720)伊豆の下田番所が廃止され浦賀に移転した。

江戸湾を出入りする船は大名の船であれ商人の船であれ地廻りの船であれ、必ず浦賀で検査を受けることになる。箱根が陸路の関所であるなら、ここは「海の関所」であった。




陸軍桟橋。第二次大戦の終戦後、外地からの引揚船を降りた引揚者がこの地で故郷への第一歩を踏んだ。




よこすか浦賀病院の側に立つ番所跡の案内板。




番所跡から奉行所跡(浦賀役所跡)へ向かう。




浜町町内会館。源氏の家紋でもある「笹竜胆(ささりんどう)」の紋が玄関上の妻壁(つまかべ)にあしらわれている。




浜町町内会館そばの、為朝神社。




為朝神社は江戸後期の文政年間(1818〜1830)創建。源為朝(みなもとのためとも)を祀る。祀られている木像は海から漂着した。

為朝は平安末期の武将。源義朝(みなもとのよしとも)の弟で頼朝(よりとも)の叔父にあたる。この時代の大男は六尺(180cm)と形容される例が多いが為朝はそれを上回る七尺(210cm)近い巨体をもち強弓で鳴らした。
粗暴ゆえに持て余されて都から九州に追放となったが、そこで鎮西武者を束ねてしまい「鎮西八郎」と呼ばれた。一方で兄の義朝は東国で坂東武者を束ねていた。
保元の乱(1156)では上皇方に参戦し、天皇方に付いた兄の義朝や平清盛らと大いくさを繰り広げる。その強弓で武者を二人まとめて射抜くなど縦横無尽に暴れまわり清盛を震え上がらせたが、戦には破れてしまい伊豆大島に流された。その伊豆七島でも荒武者ぶりを発揮してまたしても大男達を束ねたが、ついに討伐の院宣が下り大軍に攻められて最後は自害した。

数々の強弓伝説を残した為朝。その一つに伊豆大島から放った矢が「六角の井」(鎌倉飯島、逗子小坪)まで届いた、などというものもある。
保元の乱での活躍から琉球に渡る伝説までを描いた曲亭(滝沢)馬琴の作品「椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき・鎮西八郎為朝外伝)」は江戸期の庶民にも人気を博し、芝居の演目にも登場した。江戸時代後期にもなって、為朝がここ浦賀でも祀られたのはそうした時代背景もあってのことだろうか。




「椿説弓張月(文化5・1808年刊)」より「為朝舩を射て忠重を溺らせ」
画は葛飾北斎。波頭の描写がまさに北斎。

画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション




棟にあしらわれた「笹竜胆」の紋。




向拝(こうはい。せり出した屋根)の下、蟇股(かえるまた)の彫り物。これは「黄石公(こうせきこう)」の沓を「張良(ちょうりょう)」が拾い上げる故事の場面だろうか。その故事を題材とした彫刻はこの後で訪れる眞福寺(吉井)にもある。




「浦賀の虎踊」の解説板。




川間町内会館の前を過ぎていく。




浦賀奉行所(浦賀役所)跡。




浦賀奉行は遠国奉行(おんごくぶぎょう)の一つ。享保五年(1720)の下田から浦賀への番所の移転に伴い下田奉行が廃止され浦賀奉行が創設された(下田奉行は幕末に再設置される)。
これは幕政を不安定化させる軍事的要素が時代とともに後退し、東回りの廻船による経済活動も活発化したことに伴う措置であった。番所が下田のままでは東北からの廻船が番所を通らずに江戸湾に入ることができるため、積荷を検査することが出来ない。

浦賀奉行所では地域における政務一切のほか、海防(江戸の防衛)や廻船改め(積荷の検査、掌握)といった事務を取り仕切った。浦賀奉行所はここ浦賀役所を中心に、浦賀番所、三崎役宅、下田用所、江戸役所といった部署によって構成された。三崎や下田はそれぞれの地区の内政の他に浦賀に寄港できなかった難破船の処理を行い、江戸は幕府との連絡を担った。

嘉永六年(1853)のペリー来航時はペリー一行を応接する大役を担い、浦賀奉行はそれ以前にも増して要職となっていく。




現在では遺構として奉行所を囲む堀の石垣が見られる。

この地に建っていた住友重機川間(かわま)社宅は取り壊されることになっている。復元成った箱根の関所のように浦賀奉行所は復元されるだろうか。今後の展開が待たれる。




奉行所跡を後にして川間ドックへ。




シティマリーナヴェラシスのあたり。




フェニックス(カナリーヤシ)並木の向こう側にドックがある。




「川間(かわま)ドック」。旧石川島造船所浦賀分工場船渠(せんきょ)。




レンガ壁、ドック底へ下りる階段がはっきりと見える。




このドックは明治33年(1900)の竣工。先に見てきた浦賀駅近くの「浦賀ドック」とともに日本に二例しかないレンガ造ドックとして、その姿を今に残す。

当初は石川島造船所(現IHI)の施設であったが、受注競争で疲弊した石川島が浦賀から撤退することになり浦賀船渠に譲渡された。浦賀船渠は浦賀重工業となり、のちに住友重機と合併。昭和58年(1983)に造船所は閉鎖され、平成元年(1989)よりヨットハーバーとして住友重機の関連会社であるSHIリゾート開発がドックを管理していた。現在はユニマットプレシャスが所有。




燈明堂へ。




開発予定地に沿って進んでいく。




このあたりは開発計画があり、「お知らせ板」の平面図を見るとドックの壁ぎりぎりに重なるように建物が計画されている。そうなると、ドックはこのまま保存されるのではなくいったん解体されるのかもしれない。もしそうだとしたら開発の過程で復元されるということだろうか。




まもなく燈明崎。




燈明崎に到着。









燈明崎の案内板。




燈明堂は江戸時代初期の慶安元年(1648)、浦賀湊の入口にあたるこの地に設置された。
明治2年(1869)横須賀造船所の建設責任者であったヴェルニーにより観音崎に西洋式灯台(観音埼灯台)が設置されたのに伴い、明治5年(1872)に廃止された。




燈明堂へ。




平成元年(1989)に復元された燈明堂。




対岸は房総半島。




燈明崎の海岸。









観音崎。




浦賀城址(東叶神社の明神山)が見える。




小田原北条氏の水軍拠点、浦賀城址。




風光明媚な燈明崎の海岸は、東京湾南部の原風景。


3.西浦賀から吉井、久里浜へ。  まち歩きトップに戻る。