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開港場に見る土木遺産、記憶の遺産


1.横浜公園・日本大通りから山下公園、象の鼻波止場へ

JR関内(かんない)駅南口から港の側をぐるりとひと巡りして関内駅北口へ、開港場のまちづくりを辿りながら歩く。




JR関内駅南口(市庁舎側)を出て、横浜公園へ向かう。




歩き始めてすぐに目の前に現れる、横浜スタジアム。

完成した当時(1978)には日本初であった移動式スタンドを備え、野球とアメリカンフットボールに対応した。両翼90mが標準的だった時代に両翼94m・背の高い外野フェンスを備えた、当時としては広い球場であった。

長引く財政難に苦しんでいた当時の市に代わって市民や企業から株主として建設費を出資してもらうかたちで出来上がったスタジアムは、横浜大洋ホエールズ(1978〜)、横浜ベイスターズ(1993〜)、横浜DeNAベイスターズ(2012〜)の本拠地としてその歴史を刻む。




真夏の夜のナイトゲーム。夜風に吹かれながらのビール片手の観戦は、屋根のない球場ならではの醍醐味。ファンの皆さんそれぞれにいろいろな楽しみ方があろうが、自分としては川崎時代からの伝統「大洋、柏戸、水割り」の路線に引っ掛けて楽しみたい(お前さん、川崎時代からもう飲んでたのか?という訳ではないんですが)。

新聞販売店のチケットだったりすると、開始時間に間に合わないと三塁側しか空いていなかった、ということがあるのが惜しい。それでも対戦カードによってはビジター側がまったりした応援なので、ベイスターズファンとしてもそう悪くはない。
のんびりと観戦しつつ客席の埋まる我がホームの一塁側・ライトスタンドを「おぉ、盛り上がっているな」と眺められる。わざわざ金を払ってまで三塁側に座る、というのはよほどのこと(ン十年ぶりの優勝とか。生きているうちにもういっぺん、経験したいなぁ)がない限りありえないので、これはこれでちょっと新鮮。


そんな思いで見ているうちに時は流れて、球団の親会社・球場の運営会社がDeNAとなった今現在。2002年からの長期にわたる暗黒の低迷期を潜り抜け本拠地移転の危機をも乗り越えて誕生した新生ベイスターズ。夏の夜の一大イベントとなった「YOKOHAMA STARNIGHT」では、暗黒時代にはガラガラだった、あるいは某ビジターに「俺たちのホーム」などと揶揄されてやりたい放題にやられた三塁側スタンドも、ホームのファンで埋め尽くされるまでになった。そして2016年(平成28)のシーズンはついに念願だったクライマックスシリーズ(プレーオフ)の進出も果たした。

もしかしたら、ひょっとすると、次の優勝は「もう1998年のように38年も待たされないんだ!」となるかもしれない(などと調子に乗っている私は当時まだ38年も生きていなかったくせに「この日を38年も待ってたんだー」とほざいていたクチだが)。

また、2016年のシーズンからはホームランなどの後で横浜市歌の一節「されば港の 数多かれど この横浜に まさるあらめや」(作詞 森 林太郎 作曲 南 能衛)が歌われるようになった。明治42年(1909)の開港50年祭にあわせて制定された市歌は、学生野球でいえば第一応援歌に対する校歌のようなもの。個人的には伝統の横浜市歌を応援歌に取り入れてくれたらいいな、と以前から勝手に妄想していたが、まさかコアなファンの中に思いを同じくする人たちがいたとは。これはかなり嬉しい。




何もかもが懐かしい98年優勝パレードの写真を、ここにちょっとだけ貼ってみる。

新しいファンの人たちとも、ぜひともこの興奮を共有したい。はたして、その日はいつ来るか?!




「小魔人」横山道哉投手に「ハマの番長」三浦大輔投手、日本シリーズ最終戦で先発した川村丈夫投手。

三浦大輔という選手はベイスターズ球団の船出から栄光そして転落から再生へ、の25年間の歩みをプレイヤーとして球団とともに歩んできた唯一の選手。だからこそベイスターズの象徴でもあり、その「背番号18」を横浜ナンバーとするにふさわしい選手でもある。そして、そうした球団の歴史は横浜という都市の開港以来歩んできた歴史にどこか重なるところがあるようにも感じられる。

再生の先には何があるだろうか。そこは三浦選手の、そして横浜のスピリットを受け継ぐ次世代に委ねられていく。2016年がDeNA球団として5周年の節目ならば2017年はベイスターズ球団として節目の25周年、そして横浜球団としても40周年。さらに2019年は前身の下関〜川崎と連なる大洋ホエールズ球団の創立(1950)から70周年となる。その時、横浜DeNAベイスターズはどのような歴史を刻んでいるだろうか。

2016年のシーズン限りで、遂に現役引退を発表した番長。tvkで観た引退試合はまさかの展開に涙腺がぶっ壊れた。横浜一筋25年、長い間本当に有り難う。




かつてのベイスターズを支えた谷繁元信捕手。新首脳陣との軋轢もあって名古屋に行ってしまったが、2016シーズンの半ば横浜に帰ってきたようだ。かの地での最後は不本意ではあっただろうけれど、長いことご苦労様。第二(第三?)の故郷でゆっくりと充電して欲しい。




パレードは桜木町駅前の先で、歓喜の紙吹雪舞う尾上町通り(おのえちょうどおり)を横浜公園・横浜スタジアムへと進んでいく。




公園案内図。  案内図拡大版

横浜公園は日本初の洋式公園である山手公園(明治3年・1870開園。外国人専用)に遅れること6年、明治9年(1876)の開園。日本人も利用できる洋式公園としては、日本初。

この公園は居留地のまちづくりにも携わったリチャード・ヘンリー・ブラントンが設計した。
なおブラントンは北仲(きたなか)の灯明台役所を拠点に、主として日本各地における西洋式灯台建設を推進する役割を担っていた。日本におけるごく初期の西洋式灯台(最古の石造灯台)である樫野埼灯台(かしのざきとうだい。和歌山県串本町)や初日の出で有名な犬吠埼灯台(いぬぼうさきとうだい。千葉県銚子市)など、多くの著名な灯台はブラントンの仕事による。

公園は当初、日本人・外国人共用ゆえ俗に「彼我(ひが)公園」と呼ばれた。
一帯は、もとは港崎(みよざき)遊郭があったところ。慶応2年(1866)の大火ののち遊郭を移転し跡地を公園として整備。明治32年(1899)には管轄が市に移り横浜公園と改称される。

彼我公園は芝生球技場(クリケット・野球)を中心とした運動公園であった。明治末にはいったん三分の二ほどが回遊式日本庭園になるも関東大震災(大正12年・1923)を機に大運動場が復活、戦後に平和球場と呼ばれるようになった野球場(昭和4・1929落成)を主体とする施設が完成。横浜スタジアム(昭和53・1978落成)のルーツはそのあたりに求められる。
なお関東大震災では多くの近隣官庁が倒壊・炎上し仮庁舎での業務を余儀なくされた。横浜公園内にも多くの仮庁舎が建てられた。列挙すると市庁、地方裁判所、横浜郵便局、横浜図書館、横浜憲兵隊、加賀町警察署、横浜刑務所など。他方、県庁は岡野町(現横浜駅の西口あたり)に仮庁舎を、税関は新港ふ頭に仮庁舎を建てている。

横浜公園での野球の歴史をひも解いてみると、
明治29年(1896)には横浜の外国人クラブであるYC&AC(ワイシーエーシー。横浜カントリー&アスレチッククラブ。当時は横浜クリケット&アスレチッククラブ)と旧制一高(現東大教養学部)による野球の試合が行われる。
昭和9年(1934)にはベーブ・ルース、ルー・ゲーリックらを含むメジャーリーガーが来日、試合を行う。
昭和23年(1948)には日本のプロ野球初のナイトゲームが行われる。敗戦直後の当時は進駐軍に接収され「ゲーリック・スタジアム」と称されていた。




この噴水は関東大震災(大正12・1923)の復興事業として昭和3年(1928)に完成。明治時代から数えて3代目に当たる。




日本大通り側公園入口に建てられた、R.H.ブラントンの胸像。




胸像の傍らに、公園の詳細な歴史を記した案内板がある。 案内板拡大版




事実上日本初の洋式公園ゆえ、最初は地図上に単に「公園」と記されている。 案内板拡大版




こちらは日本庭園が拡張された時代の地図。 案内板拡大版




大震災を経て広い運動場が復活し、野球場が造られる。 案内板拡大版




敗戦後の接収を経て、新たに横浜スタジアムが建設された。 案内板拡大版




日本庭園の一角にある、岩亀楼(がんきろう)の石灯籠。




岩亀楼とは港崎(みよざき)遊郭(安政六・1859〜慶応二・1867)にあった大楼。

岩亀楼といえば「ふるあめりかに袖はぬらさじ」と詠んで自害した遊女・喜遊(きゆう)がよく知られている。なお戸部(とべ)の岩亀稲荷も参照
また、幕末のフランス人水兵殺傷事件も港崎遊郭で起こった。鳶の小亀・願成寺を参照

なお、慶応の大火ののち遊郭は吉田新田一ツ目沼の一部を埋め立てて関外へ移転。明治5年(1872)には鉄道開通に伴い生まれた高島の埋立地に移転。さらに明治13年(1880)以降は市街化が進んでいなかった旧吉田新田南東部(南区永楽町・真金町のあたり)に移転。遊郭は埋立地の最前線を転々とし、その周囲の市街化に一役買うこととなった。


以下は港崎遊郭、岩亀楼を描いた錦絵。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。画像結合はサイト管理者。



遊郭を囲む堀に架かる、港崎橋。




岩亀楼。




岩亀楼の座敷。中庭に石灯籠が見える。




横浜港崎廓岩亀楼異人遊興之図。
ここでは日本人、外国人問わず遊興に耽っている。どんちゃん騒ぎの異人さんが、すっごく楽しそう。




庭園に設置された、水琴窟(すいきんくつ)。




日本庭園を後に、日本大通りへ。




日本大通り(にほんおおどおり)。横浜公園から、港の方向を望む。




日本大通りは、慶応2年(1866)の大火ののち現在でいう都市計画により明治4年(1871)より整備開始。彼我公園と同じくR.H.ブラントン設計。

防火帯の役割も持つ120フィート(36m)の大通りは車道6m・歩道3m・植樹帯9mで構成された。日本における本格的な西洋式街路の発祥地とされる。




日本大通り沿いに建つ開港資料館・記念ホールの展示に見る、幕末(慶応元年・1865。大火の直前)の横浜。開港(安政六年・1859)から6年後の姿。




現在の街に慶応元年(1865)の街を重ねた概念図。  概念図拡大版

中央の波止場・左側の突堤がやがて現在の象の鼻波止場、大さん橋へと発展する。日本大通りはまだなく、横浜公園の位置に港崎遊郭が見られる。

画面右上、このころは既に東海道から分岐して戸部(とべ)・野毛切り通しを経て開港場に通じる横浜道(よこはまみち)に沿って、野毛町・吉田町の街が形成されている。横浜道についてはこちら。吉田橋の両側、馬車道・伊勢佐木町はまだ形成されていない。

吉田橋を渡っていくと開港場の入口にあたるのが弁天社界隈。横浜停車場(現桜木町駅)・現在の弁天橋が造られるあたりは、まだ海の中。

開港場の向かって右側、本町通り(ほんちょうどおり)沿いに広がる日本人街はともかく、左側の外国人居留地にはまだ雑然とした街路が見られる。本来の地形(砂州の付根の入江奥)に沿って先に埋め立てられた中華街(元の横浜新田)一帯は既に現在の区割りに近い。従来の川に加えて新たな掘割を造り、開港場はぐるりと出島状になった。




開港(安政6年・1859)以前の地形。画像出典 市政100周年開港130周年・図説横浜の歴史 平成元年(1989)横浜市発行。

太田屋新田は関内、一ツ目沼(吉田新田)は関外。太田屋新田を埋め立てた真ん中辺りが港崎遊郭、一足早く埋め立てられた横浜新田のあたりが中華街。砂州の中央が本町通り。


以下四点の画像出典は国立国会図書館デジタルコレクション。四点とも画像結合はサイト管理者。



開港(安政6・1859)直後の横浜。「東海道名所之内横濱風景」(万延元・1860作)。 拡大版

街ができたばかりの頃の横浜。山手側の堀川(中村川)が開削されて居留地と元町が隔離されるのは万延元年(1860)。この絵はそれ以前の風景を描いたものになる。
横浜道の都橋(野毛橋と表記)を渡り、吉田新田沿いから吉田橋へ。まだ木造太鼓橋の吉田橋を渡り関門を通過すると、その先には横浜村の古くからの鎮守である洲干(しゅうかん)弁天社。その辺りから日本人町、そして外国人居留地と続く。山手側の元町(横浜村)と外国人居留地はまだ塀で隔てるのみ。港崎遊郭は開港場の街から堀で隔てられている。

なお、絵師は幕末から明治初頭の横浜絵で知られる、五雲亭貞秀(ごうんてい さだひで。歌川貞秀、橋本玉蘭斎とも号する)。これから大きく変貌するであろう横浜の街の画題としての面白さをこんなにも初期から嗅ぎ付けるとは、その嗅覚には恐れ入る。




開港直後の波止場を描いた錦絵。 拡大版

運上所(後の税関)を中心に東が外国人居留地、西に日本人街。まだフランス波止場(東波止場)がない時代なので、イギリス波止場(西波止場)の突堤がそれぞれ東波止場、西波止場と記されている。

なお、御開港横浜之全図(初版。万延元年・1860頃の図。後述のUBCデジタルコレクションを参照)によると当時の山手は海岸線がこの錦絵と同様に波止場の近くまで断崖になっている。その頃に開削された掘割は現在より西寄り(野毛山寄り)を掘られていたように見える。




「再改横浜風景」(文久元・1861)。 拡大版

吉田橋はこちらでは太田橋と記されている。 外国人居留地の波止場近くに現れたひときわ大きな白い建物は、ジャーディン・マセソン商会(英一番館)。
堀川は掘り直されたようでほぼ現在の形となった。この頃は一年ごとに町の様子、特に居留地側が目まぐるしく変わっている。なお、この文久元年の絵図は早稲田大学所蔵の御開港横浜之全図(初版の改訂版?)にほぼ重なる。

当初、居留地の一般外国人が自由に出歩くことのできた遊歩区域は開港場から十里(約40q)までの範囲(ただし江戸方面は多摩川まで)とされた。西は小田原の酒匂川(さかわがわ)までであり(区域外の箱根は温泉での療養目的なら可)、東丹沢・宮ヶ瀬の辺りは人気の景勝地であった。東海道・生麦の辺りで生麦事件が起きたのもこの頃(文久2年・1862)であり、横浜商人のマーシャルとクラークは神奈川の本覚寺まで、イギリス人女性ボロデールは横浜居留地まで馬を走らせ逃げ込んでいる。




「増補再刻 御開港横浜之全図」 慶応元年(1865)頃の横浜。  拡大版 

元治元年(1864)完成のフランス波止場(東波止場)のほか、文久元年頃までの全図にはなかった野毛から弁天への細長い仮橋も描かれている。山手の山上(現在の「港の見える丘公園・フランス山」あたり)にはフランス国旗が翻り、大展開する兵舎からは生麦事件以降の軍隊の駐屯が進んでいることがうかがえる。
これが開港資料館・記念ホールの展示のベースとなった絵図。この図が描かれた直後の慶応2年(1866)に大火が起こり港崎遊郭などが焼失、復興の過程で街が改造されていった。


なお、前述したように御開港横浜之全図はインターネット上で閲覧できるサイトが幾つもある。
お薦めは「UBC Library Digital Collections(ブリティッシュコロンビア大学図書館。海外サイト)」。ここでは初版(万延元年頃)、増補再刻版(慶応元年頃)ともに掲載されている。
こちらの画像はいずれもかなり拡大できるので図中の文字までくっきりと読み取ることができる。トップページのSearch窓から「yokohama no zenzu」で検索すれば簡単に閲覧できる。
また、早稲田大学のサイトでは初版のもの(文久元年頃)がPDFで見られる。早稲田の初版のものは傷みがあるがUBCのものとは堀川(中村川)沿いの開発の進捗具合が異なっており、興味深い。




神奈川区・高島山公園に設置されている「横浜実測図」(明治11・1878)。文字加工はサイト管理者。 拡大版

馬車道・伊勢佐木町が出現している。洲干弁天社への道筋はまだ残っているが弁天社の池は消えている。野毛の断崖はすっかり削られて現在の紅葉坂あたりが現れている。明治5年(1872)には鉄道が開通、明治9年(1876)には彼我公園が完成した。

なお、東海道神奈川宿寄りの入江(袖ヶ浦・そでがうら)と鉄道の堤で囲まれた水域が、のちに埋め立てられて現在の横浜駅西口となる。




神奈川区・台場公園に設置されている「改正銅板横浜地図」(明治13・1880)。郡区町村制(1878〜)の横浜区の時代。 拡大版

実測図と同時期の地図。古地図に関しては、インターネット上で細部まで閲覧できるサイトとして国際日本文化研究センター(日文研)のデータベースがある。明治の銅板横浜地図以降、大正、昭和初期と時代を追っていくのも興味深い。




同じく台場公園の「最新横浜市全図」(大正2・1913)。市制施行(1889〜)以降の時代。 拡大版 

明治中期完成の大さん橋、明治後期完成の新港ふ頭が出現した。初代横浜駅(現桜木町駅)の海側には横浜船渠(よこはませんきょ。造船所)が造られている。横浜港の機能強化を目指した第一次築港工事(明治20年代)により築かれた港内防波堤(関内・山下町〜神奈川)も見える。
高島の沖や神奈川寄りでも埋立が進み、袖ヶ浦の入江もだいぶ狭くなってきている。

関東大震災が起こるのは、この10年後(大正12・1923)。震災後に山下町の沖が瓦礫で埋め立てられて山下公園が出現する。




大通りから横浜公園側を望む。現在では車道よりも歩道の方が広く、大変ゆったりとした散策を楽しむことができる。
黄葉の日本大通り・山下公園通りはこちら。




由来碑。




日本大通りから開港広場前のスクランブル交差点を経て、山下公園へ。




山下公園通り。




公園案内図。  案内図拡大版 

山下公園は昭和5年(1930)、関東大震災(大正12・1923)からの復興計画の一つとしてがれきを埋め立てて開園。日本初の臨海公園となった。




開園当時の公園図が掲示されている。山下ふ頭のあたりも当時はまだ海。

初めから波止場やふ頭ではなく公園として造られたため、バルコニーのような親水施設が当初からある。逆に赤レンガパーク(新港ふ頭)に見られるような岸壁に船を係留する施設(係船柱。ボラード、ビット)は、見あたらない。
ただ、最初から公園ですんなりまとまったわけではなかったようだ。港湾の管理権を有する立場からは、港湾機能の増強につながるふ頭の建設を推進すべきという意見も根強かったという。時代的には国力増強を優先して推し進めようという時代、港の水際を市民の憩いの場として開放するというのはやや斬新すぎるきらいがあったのかもしれない。




明治初期の開港場・鳥瞰図。  鳥瞰図拡大版

明治4年(1871)の錦絵「横浜弌覧之真景」。吉田橋の関門撤廃(明治4・1871)、鉄道開通(明治5・1872)の頃。絵図には間もなく完成という施設も描き込まれている。

彼我公園はまだ更地のようだが日本大通りの道筋が現れている。象の鼻波止場も出現した。外国人居留地の街路も整備されている。鉄の橋になった吉田橋を挟んで馬車道・伊勢佐木町が形成された。停車場から本町通りを結ぶ道筋・弁天橋はまだ未整備。
開港場を挟んで東には山手・西には野毛山。




半円形のバルコニーから望む、マリンタワーとホテルニューグランド新館。みなとみらいが整備されるまでは、横浜の顔といえばこちらだった。




バルコニーの波打ち際。画面右奥に本牧(ほんもく)ふ頭と大黒(だいこく)ふ頭を結ぶベイブリッジ、画面左奥には小さな赤い灯台が見える。




港内防波堤・赤灯台(明治29年・1896)。すぐそばをシーバスが行く。

防波堤はヘンリー・スペンサー・パーマーによる設計。安政六年(江戸時代末期、1859)の開港後、さらなる港湾機能の増強を目指した第一次築港(明治20年代)の港域(関内〜神奈川)を示す遺構となる。
なおパーマーは日本初の近代水道の整備に携わったことでその名を知られるが(野毛山公園を参照)、この防波堤をはじめ幾つかの港湾施設の設計も行った。
赤灯台は神奈川寄りの北水堤に元の位置のまま現存。白灯台はもと東水堤にあり、現在は氷川丸桟橋に移設されている。

なお港外防波堤は大黒〜本牧(第三次築港。大正末〜昭和初期)。やはりそれぞれに赤白の灯台が設けられた。現在は港外防波堤は大黒・本牧の両ふ頭にほとんど取り込まれたが、赤白灯台はベイブリッジのすぐ外側に現存する。ベイブリッジはちょうど港外防波堤で区切られた港域(本牧〜大黒)の入口に位置する場所に架かっており、まさに横浜港のゲートブリッジとなっている。ベイブリッジが港・ヨコハマのシンボルたるゆえんである。

現在の港湾物流はコンテナ船・トレーラーによるコンテナ輸送が主流。横浜でも本牧・大黒は次第に拡張されて第三次築港港域の外側に大深度バース・巨大なコンテナヤードが造られ、更に南本牧ふ頭が造られる。港湾物流機能はそれらのふ頭が担っている。
新港ふ頭や山下ふ頭といった貨物線による鉄道輸送を想定した内港エリアのふ頭は現在の港湾物流には対応できず先時代のものとなった。現在、廃止された貨物線の跡やふ頭が次々に公園化されて憩いの場となっているのは、時代の流れ。




横浜のシンボル、氷川丸。係留する鎖に、カモメがずらり。
氷川丸の船内見学は、こちら。









こちらが、移設された港内防波堤・白灯台。

氷川丸桟橋の隣りからは(株)ポートサービスが運航する港内遊覧船の「マリーンシャトル」「マリーンルージュ」やシーバス(水上バス)が発着している。




振り向けば、みなとみらい。




氷川丸のそば、水門のように護岸が切れて橋が架かっているところがある。
ここは山下公園の開園時(昭和5年・1930)、ボートベイシン(船溜まり)が設けられていたころの名残り。
船溜まりだったところは、現在は沈床花壇となっている。




橋の上から花壇側を見下ろす。すっかり塞がれているが、埋めてしまわずに橋を架ける形で残された。




沈床花壇。




案内板。 案内板拡大版

開園時にボートベイシンが造られたあたりは、もともと大震災前はフランス波止場(西のイギリス波止場に対する東波止場)だった。
フランス波止場はイギリス波止場よりも小さな造り。案内板にあるようにYRC(ワイアールシー。横浜ローイングクラブ)のボートハウスもつくられ、外国人たちのマリンスポーツの拠点としても利用されていた、という。




アメリカ山公園に掲示されている、明治21年(1889)の横浜地図「YOKOHAMA The Japan Directory」。
拡大版 


このボートベイシンにしても水際のバルコニーにしても、山下公園の開園当初はそれまでのこの地の歩みを反映し現在よりもいっそう親水公園としての色合いが濃かったようだ。今でこそ大岡川河口・日本丸辺りでシーカヤックのクラブが盛んに活動しているが、ボートベイシンは敗戦による接収の一部解除・返還(昭和29年)後、昭和30年(1955)頃に埋め立てられてしまった。この施設は日本人にとっては時代的に少し早かったのだろうか。




来た道を戻り、開港の道・山下臨港線プロムナードへ上がる。

プロムナードはかつての山下臨港線の線路跡を利用して整備されている。臨港線は昭和30年代(1955〜)、山下ふ頭の完成に伴う貨物線として整備された。山下ふ頭は敗戦後接収された瑞穂ふ頭(未返還)の代替施設。間もなくふ頭としての役割を終え、観光施設を念頭に再開発が行われる。




上がったすぐ下の船溜まり。手前にはパイロット(水先人・みずさきにん。水先案内人)が乗り込む水先艇など。

そしてその奥には神奈川県警・横浜水上(すいじょう)署の警備艇が見える。
横浜市中心市街地の西区・中区は、戸部(とべ)署・伊勢佐木署・水上署・加賀町(かがちょう)署・山手署で治安が守られる。タカ&ユージの港署はこの街の記憶の中で、在り続ける。




大さん橋(おおさんばし)。汽笛を響かせ、客船がバックしながら離岸していく。

大さん橋は明治20年代の第一次築港(神奈川〜関内の防波堤で囲まれた水域)の時期に建設。初代は明治27年(1894)完成・鉄の桟橋であった。設計はH.S.パーマー。

なお、大さん橋は終戦後接収され、サウス・ピアと呼ばれた。そういえば80年代の終わり頃だったか、FMヨコハマのスタジオが大さん橋にあって(当時はまだランドマークタワーへの移転前)「サウスピアビート」という番組を放送していたことがあった。
対になるノース・ピアは神奈川(東神奈川)の瑞穂ふ頭(みずほふとう。昭和4年・1929〜、第三次築港工事により北水堤の根元に築造)。こちらは現在も大半が米軍の管理下にある。ノスタルジックなたたずまいのバー・スターダスト、ポーラスターの先、基地のエリアは一般人立入禁止(オフ・リミット)。神奈川方面の歩みはこちらから。




プロムナードの上から見る、大さん橋国際客船ターミナルへまっすぐに延びる道。




臨港線プロムナードから象の鼻地区へ、案内に従って下りる。




下りたところに掲げられた、20世紀初頭(明治末〜大正初期)の横浜港パノラマ。 拡大版
象の鼻(江戸末期〜明治初期)、大さん橋(明治中期)、新港ふ頭赤レンガ倉庫(明治末期)が写っている。




臨港線プロムナードの高架下。

このエリアこそが、横浜開港の原点となる港域。




波止場の解説板。  解説板拡大版

象の鼻・大さん橋の根元は安政6(1859)に開港した横浜で最初の波止場のひとつ。対岸の護岸とともに旧イギリス波止場(西波止場)の港域を示す。
先に山下公園・沈床花壇(旧ボートベイシン)で見た、フランス波止場(東波止場)の築造についても記されている。




コの字型の船溜まり。手前側が大さん橋の付根。




途中から、緩やかな弧を描いて防波堤が延びる。

画面右、遠くにちらっと見える白い風車は「ハマウィング(横浜市風力発電所)」。市民参加の公募債や企業の協賛により運営される。
風車が建つのは、瑞穂ふ頭。ということは関係者以外立入禁止のため、風車に近づくことはできず周囲から眺めるだけ。




象の鼻防波堤の解説板。  解説板拡大版

象の鼻防波堤の原型が形成されたのは慶応3年(1867)。関東大震災(大正12年・1923)後に護岸を貼り換えているが、象の鼻の再整備にあたり創建当時の石積みが発掘された。




こちらは江戸末期〜明治初期を描いた錦絵。

このころの波止場には大型船は直接接岸できない。沖合に停泊した大型船から降ろした積み荷は、艀(はしけ。小舟)で波止場まで運ばれて荷揚げされる。
象の鼻は、艀が波の影響をもろに受けてしまわないように築かれた。象の鼻の先端には、灯明台が見える。まだ港内防波堤赤白灯台に見られるような西洋式灯台が現れる以前の設備となる。

中央に見える建物は税関の前身である、神奈川奉行所・横浜運上所(よこはまうんじょうしょ)。
神奈川奉行所は、関税・外交事務などを取り扱う横浜運上所と内政全般を取り扱う戸部役所(とべやくしょ。現在の紅葉坂の上あたりに所在)とで主たる業務を行っていた。戸部役所についてはこちら。
明治時代に入ると江戸幕府の神奈川奉行所は明治新政府の神奈川裁判所(のちの神奈川府)に組織が引きつがれる。




象の鼻の先端。古そうな石で再現された石垣が見られる。




右側の古そうな石の石垣とあわせるように、新しい石垣も調和の取れたデザインに。




防波堤の足元に埋め込まれた、横浜三塔ビューポイントのプレート。昔、横浜に入港した船乗りたちが誰となくトランプのカードになぞらえて呼び始めた、という。




キング(県庁)、クイーン(税関)はよく見えるも、ジャック(開港記念会館)はもはや頭のてっぺんがかすかに見えるのみ。




こちらはさしずめ新・横浜三塔といった趣き。我流ではあるが、厳ついキング(ランドマークタワー)、なで肩のクイーン(クイーンズタワー)、剣を掲げたジャック(メディアタワー鉄塔)といったところか。インターコンチは絵的には歴博ドームの役回り、赤レンガは新旧融合のスパイス、ということで。




ピア象の鼻(桟橋)からは、京浜フェリーボート(株)が運航する港内クルーズ船や水上バス(「ドラゴンボート・海龍」「ゆめはま」など)が発着している。




臨港線プロムナードの、内陸側へ。




ポールで囲まれたところに、ガラスがはめられている。




ガラスの下に見えるのは、鉄軌道と転車台。時期としては第一次築港期に重なる、明治20年代後半(1890〜)に整備された。  解説板拡大版

開港150周年記念事業として象の鼻パーク整備がなされた際に遺構が発掘され、保存されている。




税関の設備として整備された、転車台。この上を貨車が走り、向きを転換する。

税関の前に広がるこの波止場は「税関波止場」とも呼ばれた。明治30年代(1900〜)から大正にかけての第二次築港工事(新港ふ頭の築造)による税関機能の強化がなされるまで、このエリアは貨物の取り扱いの中枢であった。

開港初期から新港ふ頭の築造に至るまでの時期、横浜港の歴史を知るには税関のあゆみが大いに参考になる。税関(外部サイト)>横浜税関>横浜税関の歴史>横浜港の生い立ちと税関(PDFファイル)、には開港初期の税関周辺の町割りや建造物などの画像資料が多数掲載されている。




仕組みが分かりやすいように、4基の転車台をさまざまな状態で展示している。




象の鼻防波堤を見下ろす。




象の鼻パークの案内図。




象の鼻地区から、人工島の新港ふ頭・赤レンガパークへ向かう。




新港(しんこう)橋梁(大正元年・1912)。英国系トラス橋を改良した、初期の国産トラス橋。この先の道を進んでいくと英国系から国産、米国製へと変遷していった黎明期のトラス橋をたどることができる。


2.象の鼻波止場から新港ふ頭、ドックヤード、横浜停車場跡、吉田橋へ。  まち歩きトップへ戻る。