まちへ、森へ。

横浜開港場からみなとみらい、新旧水際線あるき

令和3年(2021)10月中旬の週末、横浜市街地中心部の水際を歩く。

 

この年の9月から10月にかけては週末の天候不順が続き、加えてコロナ禍での緊急事態宣言が9月末にようやく解除されたばかり。この日も好天に恵まれたとは言えず、今にも降り出しそうな曇天のなかでのまち歩き再開となった。
スタートは明治5年(1872)開業のJR桜木町駅(旧横濱停車場)。つづいて明治初期の大岡川河口周辺、明治末期の新港埠頭、平成初期のみなとみらいからポートサイド地区と巡り、JR横浜駅きた東口へと歩く。

 

1.桜木町・旧横ギャラリー(旧横濱鉄道歴史展示)

 

 

JR桜木町駅ホーム南端の新南口(市庁舎口)。新市庁舎の竣工に合わせて令和二年(2020)6月27日に開設された。

 

 

 

新南口の改札は交通系ICカード(Suica、PASMOなど)専用。切符では通過できない。

 

 

 

「新」とはいうものの、旧横濱停車場時代から二代目桜木町駅舎があった昭和末期までの改札はこちら向きに設けられていたので、この改札口は原点への復古ともいえる。

 

 

 

改札を出ると旧横濱停車場時代の駅前。
左手に進むと弁天橋の先に開港場のメインストリート「本町通り(ほんちょうどおり)」が延びてゆく。令和の新時代には新市庁舎への歩道橋「さくらみらい橋」が架けられた。

 

 

 

正面右手奥に建つ「鉄道創業の地 記念碑」。左手の赤い自転車は「横浜コミュニティサイクル ベイバイク」のポートにとめられているシェアサイクル。横浜中心部に設けられた複数のポートのどこからでもレンタル・返却が出来る。

 

 

 

案内文。我が国の鉄道路線は明治5年(1872)の新橋〜横浜から始まった。

 

 

 

地下鉄連絡口のレンガ腰壁に御影石の小さなプレートがはめ込まれている。

 

 

 

「開業当時の横浜駅長室跡」と刻まれたプレート。

 

 

 

高架のすぐ隣に新築された「JR桜木町ビル」。「JR東日本ホテルメッツ 横浜桜木町」と商業施設の「CIAL(シァル)桜木町ANNEX」、保育園が入居している。

 

 

 

ビル1Fの展示施設「旧横ギャラリー」へ。

 

 

 

「旧横ギャラリー(旧横濱鉄道歴史展示)」。手前には横濱停車場のジオラマ、そして奥には展示の目玉となる蒸気機関車。
もう一方の鉄道開業の地・旧新橋停車場跡には開業時の駅舎が復元されている。そして、旧横濱停車場にもいよいよ鉄道開業時の様子を彷彿させる本格的な展示が実現した。

 

 

 

横濱停車場を描いた錦絵「横浜ステーション蒸気入車之図並海岸洋船燈明台を眺望す」(歌川国鶴画)。

 

 

 

錦絵に合わせた向きでジオラマを撮ってみる。

 

 

 

大江橋・尾上町通り(おのえちょうどおり)側から見る駅舎正面。

 

 

 

弁天橋・本町通り側から見る停車場。

 

 

 

横濱停車場構内案内図・明治初期の施設配置。当時の停車場にこのジオラマの置かれている位置を重ねると、星マークの辺りとなる。

 

 

 

展示の目玉、110形蒸気機関車(1871年、ヨークシャーエンジン社製造)。
この機関車は1872(明治5)年、日本初の鉄道となる官設鉄道(工部省鉄道寮)の機関車としてイギリスから最初に輸入された10両(陸揚げ順に1号機〜10号機)のうちの10号機。

 

最初の10両のうち現存するのは日本国内では1号機と10号機のみ。1号機は国の重要文化財に指定され鉄道博物館(さいたま市大宮区)に展示されている。

 

 

 

1875(明治8)年、関東に次いで関西で鉄道整備がすすむと最初の改番が行われる。
東部(京浜)に配属された12両には奇数番号(1〜23)が当てられ、西部(京阪神)に配属された20両には偶数番号(2〜40)が当てられた。横浜に荷揚げされた最初の10両は全て東部の配属とされ機関車の能力に応じて改番(番号が大きくなるにつれて性能が上がる)、10号機は3号機と改められた。

 

 

 

10号機は東部配属の3号機とされた後、明治27年(1894)逓信省鉄道局の時代に東西を統一するかたちで機関車の性能によるクラス分けに従い「クラスA」となる。鉄道作業局が新設された明治31年(1898)には区分がより細分化され、A2形となった。
その後、明治22年(1889)に成立していた鉄道国有法に基づいて全国17社の私設鉄道の買収・国有化が順次行われ、買収された機関車を含めた大改番が行われる。その結果、明治42年(1909)に110形となった。

 

参考「図説国鉄蒸気機関車全史」(いのうえ・こーいち著、JTBパブリッシング)

 

 

 

解説板。
大正12年(1923)に廃車となった後は車体の一部を切開ののち大宮工場「鉄道参考品陳列所」で技術者育成の教材として展示。昭和37年(1962)〜令和元年(2019)までは青梅鉄道公園(東京都青梅市)で保存展示された。
JR東日本による旧横ギャラリーへの移設展示にあたり、大宮工場にて溶接を使用しない工法で切開箇所を閉腹。錆の除去や破損個所の修復を行い、晩年の姿が再現された。

 

 

 

パネル展示に見る、鉄道創業時の機関車。日本に現存する1号機、10号機のほかには後に台湾に移された7号機が台湾の地に現存する。
なお増備機として追加で輸入された23号機(2〜5号機改め13・15・17・19号機の同型機。1874年製)が明治村(愛知県犬山市)に保存されている。そちらは再整備により動態に復帰、現在も明治村の園内を走っている。

 

 

 

運転台。上がることはできないのでカメラを突っ込んで撮影。

 

 

 

再現された中等客車。

 

 

 

客車の内部。最初の客車はボックスではなくロングシート。

 

 

 

解説板。

 

 

 

連結器と緩衝器。
連結器はフックに輪をひっかける手動式。自動式連結器が登場する前の時代、連結作業には危険が伴い係員の事故も絶えなかった。
緩衝器は本来は金属製であるが客車側の緩衝器は案内板によると木地をろくろ挽きで製作した、とある。骨董品ともいえる車両のレプリカ製作には苦労が絶えない。

 

 

 

道床の砂利、枕木。

 

 

 

解説板。
開業当所は枕木も砂利で埋まっていたそうだ。レールを固定する金具(チェア)は明治期の実物を3Dスキャンして再現した、とある。

 

 

 

双頭レール。

 

 

 

解説板。
当初は天地をひっくり返して再利用することを想定していたようだが結局再利用はできなかった。

 

 

 

再現された信号機。

 

 

 

各種のパネル展示。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄道敷設と発展に貢献した人々。
エドモンド・モレルはお雇い外国人として鉄道建設に携わった技師長。明治5年の開業を目前にして結核でこの世を去った。亡骸は山手の外国人墓地に葬られている。
高島嘉右衛門(たかしま かえもん)は幕末〜明治初期の横浜発展に大きく貢献した実業家。鉄道関連では神奈川駅〜横浜駅の海上築堤の工事を請け負い、彼の名は高島町として残る。

 

 

 

2Fから機関車、客車を見下ろす。

 

 

 

大正後期の廃車後に教材として開腹された機関車の横っ腹は、閉腹手術によって見事に傷がふさがれている。

 

 

 

 

 

 

 

外から見る旧横ギャラリー。

 

 

 

外向けのパネル展示。3号機時代の古写真が見られる。

 

 

 

こちらは最初の客車。

 

なお桜木町駅ホーム中寄りの南改札から外に出た場合、「旧横ギャラリー」への行き方は西口から大通り(国道16号線)沿いを歩いて来るのが分かりやすい。

 

 

 

こちらは桜木町駅のメイン改札である南改札の正面コンコース(改札外の自由通路)。
こちらには鉄道開通に伴う駅周辺の変遷などを紹介した「歴史展示ギャラリー」のパネル(2014年設置)が引き続き柱面に展示されている。

 

 

 

南改札正面コンコース(自由通路)の柱に掲示されている案内図。

 

「シァル」本館(2014年開業)は高架下。1Fに旧横ギャラリーが入るシァル「アネックス」は新南口改札の隣りに新築された細長いビル。

 

 

 

「旧横ギャラリー」を観たあとで水際線歩きに向かう前に「コテイベーカリー」のシベリアを買いに行く。
新南口の地下鉄連絡口(旧駅長室跡のプレートが脇に貼ってある連絡口)を下りていくと商業ビル「ぴおシティ」の地下2階につながる。

 

 

 

ぴおシティ地下2階。開店前の昭和レトロな飲み屋街を抜けていき、奥をちょこっと上がると「野毛(のげ)ちかみち」。

 

 

 

「野毛ちかみち」画面左奥の南1出口へ。

 

 

 

南1出口から地上に上がって少し進むと「動物園通り」(野毛坂から野毛山動物園方面)のアーチ。その手前を右折。

 

 

 

右折した通りは「音楽通り」(紅葉坂から県立音楽堂方面)と名付けられている。そのすぐ先に見える「コテイベーカリー」。

 

 

 

コテイベーカリーのシベリア。ふんわりしたカステラで固めの水ようかんのような分厚い羊羹を挟んでいる。羊羹の厚みは山崎製パンのシベリアよりかなり厚い。

 

公式サイトによると同店は大正5年(1916)の創業以来、「シベリア」を作り続けてきた。同店より以前から既に出回っていたというハイカラな和洋折衷のお菓子だったシベリアは菓子の多様化とともに次第にその姿を減らしていった。それがジブリ映画「風立ちぬ」をきっかけに再びスポットライトを浴びたことは比較的記憶に新しい。

 

「風立ちぬ」といえばその時代の風景として大正中期〜昭和前期の様々な鉄道車両が出てくる。主人公・堀越二郎(零戦の設計者だがこの映画では作家の堀辰雄ともオーバーラップする半分架空の人物)が東京帝大工学部の学生だった時代に帰省先の群馬県藤岡から東京上野に戻る際に利用している東北本線・高崎線では、走行中に関東大震災(大正12・1923)に遭遇し急ブレーキをかける機関車に「5611」の番号が見える。調べてみるとこれは「5600形」という形式で高崎線の前身となる私設鉄道の「日本鉄道」が保有していた機関車(1899年ベイヤー・ピーコック社製造)が日本鉄道の国有化により改番されて付与された番号。
ただ作中の機関車は5600形とは細部が若干異なっており、作品で描かれた機関車は「風立ちぬビジュアルガイド」で「6700型」と紹介されている。これは本格的な機関車メーカーとしては日本で最初となる「汽車製造会社(1896年創立)」が手掛けた「6700形」(1911年製造)。旧横ギャラリーの110形はその頃は輸入から50年余り経過、すでに役割を終えていた。
参考「図説国鉄蒸気機関車全史」

 

二郎と菜穂子の最初の出会いのシーンに描かれている一連の風景は、高崎線が走るだだっ広い関東平野や利根川・荒川水系の大河を渡る長い鉄橋とは様子が違う。その山岳風景はむしろ東海道本線、とりわけ現在は御殿場線となっている区間を参考にしているように感じられる。初めて「風立ちぬ」を観たときは「これは関東大震災か」ということで東海道線(現御殿場線)駿河小山〜谷峨〜山北の谷間あたりで風に飛ばされた帽子のキャッチのやり取りがあって、足柄平野、相模平野と走り抜けていった汽車が旧宿場町の戸塚あたりで被災したのかと思ったのだが、汽車を下りてから先で「え?上野あたりを歩いている?いくら何でもさすがにそこまでは歩けない」となり、二回目以降の視聴で話の本筋は上野にあって汽車の道中のシーンは高崎線・東北本線への東海道本線のイメージのはめ込み、ということで納得した次第。
実際のところ相模湾沖を震源とした関東大震災では甚大な被害を被ったのは東海道本線や国府津(こうづ)駅からの支線であった熱海線であり、東北本線・高崎線は震源から遠いこともあって被害は荒川を渡る鉄橋の崩落などが主だったようだ。映画のワンシーンのような凄まじい大地のうねりの跡(波打ったレールの跡)は、東海道本線(現在の御殿場線)国府津駅〜下曽我(しもそが)駅間の記録写真に見ることができる。
参考「関東大震災鉄道被害写真集 惨状と復旧 一九二三−ニ四」

 

話の脱線ついでにもう一つ。「風立ちぬ」では作品のヤマ場である二郎と菜穂子の最初の出会い(汽車に乗っていて震災に遭遇)そして運命の再会(軽井沢のホテル近くの森の泉)のシーンで同じ雑草(雑草という名の植物は無いのだが)が描かれている。

 

 

 

この点に触れている映画評は自分の見た限りでは無い様なので、「森歩き山歩き愛好家」としてここはひとつ触れておきたい。
この植物は「オオバコ」。踏まれても踏まれても路傍にしぶとく生えてくる典型的な雑草なのだが、実は「足跡を残す」という花言葉がある。
作品における非常に重要な幾つものシーンの中で、なぜ他のどの草でもないオオバコを敢えてエリートの主人公に重ねるように象徴的に描き込んできたのか。想像し得る一つの答えとして、オオバコを描き込むことで伝わるメッセージへの非常に強いこだわりを垣間見た思いがした。

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2.大岡川河口護岸、北仲通水際線プロムナード

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