まちへ、森へ。

廃線跡から名瀑、山城歩き倒し

令和二年(2020)は新型コロナウィルス禍の影響で2月下旬ごろから緩やかな外出自粛要請が続き、まち歩きもしばらくの間中断。4月上旬に出された緊急事態宣言は5月下旬に解除されたものの今度は梅雨がなかなか明けず、まち歩きの再開は延び延びになってしまった。

 

例年になく長かった梅雨がようやく明けた、8月上旬の週末。まち歩き再開の第一弾として、神奈川県足柄上郡山北町(あしがらかみぐん やまきたまち)の明治期鉄道遺構、名瀑、戦国期の城跡を巡り歩く。

 

1.JR御殿場線、複線時代の遺構めぐり

 

 

神奈川県と静岡県の県境に近い、JR東海・御殿場線の谷峨(やが)駅。時刻は午前8時20分ごろ。
通常は各ドアを乗降客がボタンで開閉する御殿場線だが、新型コロナ禍の影響により換気のために停車時間の長短にかかわらず全てのドアを車掌が開閉している。

 

 

 

トンガリ屋根の駅舎。

 

平成31年(2019)3月、御殿場線の下曽我駅から足柄駅までの間に新たにICカード読み取り機(JR東海・TOICAの仕様)が設置された。これにより横浜方面からでも相鉄を経由して小田急・新松田駅で御殿場線・松田駅へと乗り継ぐ場合には、JR東日本のSuica・関東民鉄のPASMOで松田駅、谷峨駅を乗降車できるようになった。

 

ただ国府津(こうづ)駅だけは引き続き御殿場線(JR東海)のICカード扱いに対応していないので、東海道線(JR東日本)を利用して国府津駅から御殿場線に乗り継ぐ場合には予め通しの切符を買っておくか、国府津駅で改札を出て改めて御殿場線区間の切符を買わなければならない。

 

 

ちなみにこちらは御殿場線上大井(かみおおい)駅で見かけた注意喚起の案内。交通系ICカードでは切符と異なり国府津駅乗り換えでJR東日本とJR東海の「エリアまたぎ」をすることはできない。

 

JR東日本エリアからICカード(Suica、PASMO)で東海道線に乗車して熱海(JR東日本・JR東海の境界)を経由しJR東海・三島で下車する場合には三島駅改札口手前のSuica・PASMO用自動精算機で処理できるのだが、国府津駅で乗り換えてその先の御殿場線各駅で下車する場合は下車駅での精算機対応が無い。

 

 

 

今回のまち歩きはまず始めに谷峨駅から山北駅方面へ歩いて戻り、複線時代の橋梁やトンネルの遺構を巡っていく。
奥に見える東名酒匂川橋は修繕中。赤い橋げたは覆いに隠れている。

 

御殿場線は東海道の国府津駅(小田原宿の東)〜沼津駅(三島宿の西)間で箱根の山の北側を大きく迂回する。山北駅の先は鮎沢川(酒匂川・さかわがわ上流部)の渓谷沿いを進み、富士山麓の御殿場駅(標高455m)からは黄瀬川(狩野川水系)沿いを下っていく。

 

現在は単線の御殿場線は、明治22年(1889)の開通当初は東海道本線だった。路線としての最盛期は輸送力増強のために複線化された明治後期から昭和初期の頃。そのころは勾配の急な山越えに備えて山北駅で補助の機関車が連結された(補機の重連)ということもあって、山北は機関区が設けられて多くの鉄道員が配置された、東海道本線の一大拠点だった。
しかし昭和9年(1934)に現在の東海道本線のルート上に箱根の南側(海側)を貫く丹那トンネルが完成すると、御殿場線は本線から外れる。戦時中には機関区も廃止され、資材不足の中で不要不急路線の扱いとなるや他地域の路線に充てるために片方のレール(複線化時に追加された線路)が撤去されて御殿場線は再び単線(開通当初の線)となった。

 

昭和後期に電化されたのち供用される線路が入れ替わり、撤去されていた側の線が復活(現行線)。開通当初から供用され続けた線は廃線となり、現在に至る。

 

 

 

駅前の県道を山北駅方面に戻るように進むと、長距離ドライバー御用達の「一休食堂」。ここはシャワー室も備えている。
この県道は新道(山北バイパス)が谷峨地区、瀬戸地区と順次開通していくまでは国道246号だった。奥の看板あたりには数体の石仏。

 

 

 

道端にポツンとたたずむ、庚申塔(こうしんとう)や馬頭観音(ばとうかんのん)。いにしえの大山街道の時代から行き交う人々を見守ってきた。

 

 

 

廃線跡の鉄橋を見下ろす。

 

 

 

小さな枝沢の畑沢を跨ぐ、赤錆だらけの古びた桁橋(けたばし。プレートガーダー橋)。こちら側は明治22年の開通当初の線。桁自体は架け替えられたものだろう。昭和後期に供用線が入れ替わるまで、あの桁の上に枕木が並んでレールが通っていたことになる。

 

 

 

橋台の石積みも残っている。

 

 

 

旧道を進んでいく。

 

 

 

鞠子橋(まりこばし)を通過。頭上には東名高速の高架。

 

 

 

新鞠子橋の信号。

 

 

 

新鞠子橋から沼津方面のバイパス(谷峨地区)は昭和末期に開通。新鞠子橋から反対方向(瀬戸地区)は平成15(2003)年度末に開通した。

 

 

 

新鞠子橋の先、通過車両はバイパスを進むため旧道は交通量が大幅に減少。路肩がほとんど無い道だが歩いていても恐怖感は全くない。

 

なお西丹沢登山者の足となる「新松田駅」発「西丹沢ビジターセンター」行きの富士急湘南バスはこちらの旧道区間を通る。登山者にとっては山北の街中を過ぎてから谷あいに「二軒屋」「四軒屋」「瀬戸六軒屋」とバス停が続くことでお馴染みのこの区間だが、歩きとおすのは初めて。

 

 

 

バイパスの向こうに御殿場線の第三酒匂川橋梁が見える。見えているのは上流側(沼津側)のトラス橋。垂直の部材を入れたトラスとなっている。
昭和47年(1972)に先代が荒天で流失したため他所から転用され補修・設置されたという年代物(大正元・1912年製)のこの橋は、トラスの上弦が遠目に見ると曲線のアーチ橋のような曲弦トラスとなっている。しかし県道からはバイパスに隠れて見えないのが惜しい。

 

 

 

集落越しに第二酒匂川橋梁を見下ろす眺望ポイント。

 

 

 

ここの橋脚は明治22(1889)年の開通時に築かれ明治34(1901)年の複線化時に増築された石積み(下部)とレンガ積み(上部)がそのまま残っている。関東大震災(大正12・1923年)にもよく耐えた。明治期の技術の粋を集めて、相当しっかりと造ったのだろう。

 

 

 

集落への道を降りた先、私有地への通路に深く入り込みすぎることのないよう配慮しつつ撮影。

 

 

 

石積みは長く切った石の長手(ながて)と小口(こぐち)を交互に並べる「ブラフ積み」。レンガの「フランス積み」に相当する洋式の積み方で、横浜山手の居留地界隈から広がっていった。
県内では横須賀市猿島(さるしま)の旧陸軍砲台跡や走水(はしりみず)の旧海軍水道トンネルにも明治中期のブラフ積み遺構がみられる。この橋脚は増築部分も最初の開通時に築かれた部分の積み方を踏襲している。
下部のアーチにはレンガが埋まっている。

 

 

 

注意を促す看板。

 

 

 

昭和後期に入れ替わり廃線となった側(開通当初からの線)はレンガのイギリス積み(長手を並べた段と小口を並べた段を交互に重ねる)の橋脚上部に天端(てんば)の石積みが確認できる。

 

 

 

県道へと戻る道すがら、防災倉庫の傍らで見かけた双体道祖神(そうたいどうそじん)。このあたりがかつての集落の端となろう。

 

 

 

道端のヤブミョウガ。この年はほんの一週間前まで梅雨が明けず涼しい日々が続いていたのだが、植物たちはその季節が巡ってくるとしっかり花開いていた。

 

 

 

「瀬戸六軒屋」バス停を通過。

 

 

 

第二酒匂川橋梁の橋脚を横から眺める。

 

 

 

上部のレンガ積みの隅には石があしらわれている。明治の土木遺構は機能性もさることながら意匠も凝っており、そのフォルムが美しい。

 

 

 

もう一基の橋脚は石積みの上流側(開通当初の側)が破損したのかコンクリートで補強されている。願わくば、この先いつまでも明治期の美しき姿を保ってほしい。

 

 

 

瀬戸地区をゆったりと大きく蛇行する酒匂川の流れ。

 

 

 

川向うには四軒屋の集落。

 

 

 

四軒屋へ向かう。

 

 

 

県道を降りて永安橋を渡る。

 

 

 

永安橋から見る第一酒匂川橋梁。橋台は改修を繰り返しているようだが、下部には古そうな石積みが残っている。

 

 

 

四角く切った石を斜めに積み上げていく、谷積み(たにづみ)の石積み。こうした石積みは戦前期までの鉄道関連の土木遺構にはよく見られる。
県内では旧神奈川駅付近(横浜市)付近に関東大震災(大正12・1923年)の復興期に築かれた大規模な谷積みの擁壁が見られる。

 

 

 

こちらも下部にアーチが確認できる。

 

 

 

平山踏切。

 

 

 

第一酒匂川橋梁のトラス。こちらのトラスは古いものの流用ではなく、年代的には新しい。

 

 

 

廃線側の石積み橋台を撮りに行くと、ちょうど電車が通りかかった。

 

 

 

廃線側(開通当初の線)の橋台石積みは「ブラフ積み」になっている。電化により復活した現行線側の橋台はコンクリート製。

 

 

 

県道に戻り、「四軒屋」バス停を過ぎて少し進むと眼下に赤い鳥居が見える。これは線守(せんもり)稲荷神社。その下は箱根第二号トンネル(廃線側)の沼津側出口となっている。

 

線守稲荷の建立のきっかけとなったキツネにまつわる伝承は行政の観光ガイドや「御殿場線ものがたり」といった絵本でも紹介されているが、現状では部外者が神社に立ち入ることは残念ながらできないようだ。

 

 

 

道端には数本のウバユリが花開いていた。

 

 

 

「二軒屋」バス停を過ぎて進んでいくと、都橋。都橋のあたりが箱根第二号トンネルの国府津側出口となる。

 

 

 

箱根第二号トンネル(廃線側、開通当初の線)の国府津側出口。ブラフ積みの石積み擁壁が確認できる。

 

 

 

向かって右側の石積みの方が、より当初の石積に近い状態のものだろう。

 

 

 

トンネル内部は長手積み(ながてづみ)のレンガ壁。煤けており、見るからに相当な年季を感じさせる。

 

 

 

都橋の上からトンネルを眺める。右奥には現行線(複線として追加、廃線ののち入れ替わりで復活した線)のトンネル出口。

 

 

 

現行線側のトンネルは擁壁の石積みが谷積み。時代は明治中期から明治後期へと移り、石の積み方が変わっている。

 

 

 

廃線は小さな枝沢の鍛治屋敷沢を赤錆の桁橋(プレートガーダー橋)で跨ぐ。

 

 

 

橋台は隅石(すみいし)をあしらったレンガ積み。

 

 

 

レンガの積み方はイギリス積み(長手を並べた段と小口を並べた段を交互に積む)。
レンガの積み方に関しては陸軍はしばらくの間フランス積みを用いていたが、鉄道局は早くからイギリス積みを用いていたようだ。それぞれの組織が当初はどの国の指導を仰ぎ模範としていたのかが垣間見え、なかなか興味深い。

 

 

 

都橋から見る廃線遺構は比較的近い距離から眺めることができ、いろいろな構造物が揃っているという点でも見ごたえがある。アクセスという点でも山北駅から近く、大野山登山や洒水の滝・河村城址めぐりのついででも立ち寄り易い。

 

廃線遺構巡りはここまで。続いては都橋から樋口橋(とよぐちばし)を経て、洒水の滝(しゃすいのたき)へと向かう。ここまで歩行時間は一時間、撮影時間も含めて二時間ほど。

 

 

 

「新松田駅発(山北駅・谷峨駅・玄倉・中川温泉経由)西丹沢ビジターセンター行」の富士急湘南バスと「大野山入口」バス停ですれ違う。

 

 

 

旧道(元国道、現県道)の旧道へ入っていく。

 

 

 

安戸(やすど)トンネル。旧道のトンネルはかなり小さい。とはいえ隣に口を開けている国道の新安戸トンネルも、さほど大きくはない。
トンネルの上には東電の山北発電所(大正3・1914運用開始)へ発電用水を導く導水路が通っている。

 

 

 

反対側の出口には「川村関所跡」の案内板がある。
この関所跡は江戸時代、東海道・箱根関所の迂回路ともなった脇往還を固めるために設けられた複数の関所の一つ。

 

江戸時代には相模から駿河方面へ抜ける東海道の脇往還として機能したこの道筋は、明治の時代に鉄道が通されることによって、いっときとはいえ東海道の大動脈となった。

 

 

 

こちらは今回のまち歩きの終わりに立ち寄った、山北駅南側の山北鉄道公園に保存されている蒸気機関車・D52(デゴニ)。

 

デゴニは戦中戦後に製造された蒸気機関車。高出力の大型ボイラーを備え「日本最強の蒸気機関車」と謳われた。御殿場線でも電化される以前にその姿が見られた。

 

現在は全国に7両だけが残り、いずれも動かせない状態で保存(静態保存)されていたがここ山北で平成28年(2016)に自力走行復活のための整備が行われ、山北のD52は再び動くようになった。
整備にあたったのは元国鉄機関士の恒松孝仁氏。傷みがひどくボイラーで石炭を焚くことはできないため蒸気に代わってエアーコンプレッサーによる圧縮空気が動力源とされた。
しかし恒松氏はD52自力走行復活の直後、交通事故で亡くなる。他に機関車を動かせる人がいない状況で自走イベントは継続不可能という危機に見舞われたが、恒松氏と交流のあった若桜鉄道(鳥取県)の谷口剛史氏が遺志を引き継ぎ整備を継続。その協力のもと自力走行イベントは再開されている(新型コロナ禍の2020年は休止中)。

 

 

2.洒水の滝

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