まちへ、森へ。

廃線跡から名瀑、山城歩き倒し

2.洒水の滝

 

1.JR御殿場線、複線時代の遺構めぐりはこちら。

 

 

神奈川県山北町(やまきたまち)・国道246号樋口橋(とよぐちばし)交差点から洒水の滝(しゃすいのたき)へと向かう。

 

 

 

左手にはこの後訪れる河村城址の城山。

 

 

 

右手には東電の山北水力発電所。運用開始は大正三年(1914)というから、結構古い。

 

ここの発電用水は今回の歩き始めに下車したJR御殿場線・谷峨(やが)駅の近く、嵐(あらし)発電所のやや下流寄りの取水口から取り込まれている。取り込まれた水は標高をほぼ保ちながら山腹を貫く導水路を流れ、先ほど通った安戸トンネルの上を通る水路でここまで運ばれて落差およそ40mの水圧管で落とされる。

 

 

 

「平山」バス停の先、滝沢橋まで来ると「洒水の滝」入口の案内板。

 

 

 

滝沢川沿いの「みっちゃん食堂」。

 

 

 

川沿いにつけられた歩行者専用散策路へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橋と交差するところで専用散策路は終わる。

 

 

 

車道の終わるところに立つ、遊歩道のゲート。

 

 

 

旅館「文覚荘」「洒水園」。

 

 

 

案内板。

 

 

 

滝が姿を現した。

 

 

 

谷をぐっと狭めて迫り来る岩壁にも、一筋の流れ。

 

 

 

「名水百選」の碑。
傍らには水汲み場が整備されている。消毒はされていないが山中なので全く問題なし。美味そうな水を手に掬い、ゴクリと一口。

 

 

 

南関東屈指の名瀑「洒水の滝」。「日本の滝百選」「かながわの景勝50選」にも選定されている。

 

江戸後期の地誌「新編相模国風土記稿巻之二十一足柄上郡之十 苅野庄 平山村」には「蛇水ノ滝」「その形状銀河の中天より落つる如く、当国(相模国)随一の瀑布と云うべし」と記されている。

 

滝は三段の段瀑になっており、目の当たりにしているのは一の滝(落差69m)。二の滝(16m)、三の滝(30m)は下から目にすることはできない。

以前に訪れたときは奥の観瀑台まで入れたが、平成16(2004)年に崩落が発生したため現在行くことができるのは赤橋の手前まで。報道によると2020年度中に新遊歩道の整備に着手する計画があるとのこと。本当に、そうしなくては勿体ない。
これだけ里に近いながら大きく立派な滝は、山岳リゾート地ならまだしも都市部近郊ではそうそうあるものではない。延々と林道を歩いていくか、あるいは登山道を登っていくか。はたまた沢登りの装備で谷を詰めていくか。

 

 

 

園路のやや下流、堰堤の脇にも観瀑台が設けられている。

 

 

 

鬱蒼とした木立の隙間から姿をのぞかせる、端正な滝。

 

 

 

平山洒水の滝不動尊常実坊へ。

 

 

 

ちょっとした広場となっている境内。この奥は最勝寺。

 

 

 

常実坊(天台寺門宗)。

 

案内板およびその出典と思われる「新編相模〜平山村 不動堂」によると古くは龍王山誓源寺と号し滝堂とも呼ばれた天台宗の寺院。平安末期〜鎌倉初期の真言宗の僧・文覚上人(もんがく しょうにん)の制作によると伝わる不動明王像を安置する。
明治21年(1888)頃に平山原四八〇より現在の地に移転。滋賀県大津の園城寺(おんじょうじ。三井寺・みいでら。天台寺門宗総本山)より常実坊を遷座奉ったことにより現在の名称となった。

 

洒水の滝は文覚上人が百日の荒行を修めた地と伝承される。また相州の霊峰・大山(伊勢原市など)の中腹に建つ大山寺本堂(明治初期の再建)軒下の彫刻は文覚上人の滝行を表現したもの、との著述もみられる。

 

文覚は俗世に在ったころは遠藤盛遠と称する北面の武士であった。盛遠は宮中の警護中に美女に恋慕。袈裟御前と呼ばれるその人はかつて自分が求婚した人で現在は同僚の妻となっていることを知り、自らの妻となるよう迫る。しかし貞操を守ろうとした袈裟御前の身を賭した企てにより、盛遠は誤って御前の寝首を掻き殺めてしまった。これを恥じた盛遠は出家、那智の滝を始めとして各地で荒行を重ねていく。京に戻った文覚は空海ゆかりの神護寺の再興を志すが資金が集まらず、後白河法皇に掛け合おうとして門前で暴れたことで囚われの身となった。後に伊豆に流された文覚はそこで源頼朝に出会う。文覚は頼朝の挙兵を助力したことで頼朝の信任を得るようになった。しかし頼朝の死後は疎まれて佐渡、対馬に流され失意のうちにその生涯を閉じた。
参考「かながわの滝」

 

 

 

遊歩道沿いに見られる石棺。

 

案内板およびその出典「新編相模〜平山村 蛇水ノ滝」によると「昔入定(にゅうじょう。死して無我の境地に入ること)せし行者の棺なりと伝ふ」とある。また「傍らに秀圓上座と刻せし碑あり。年代事実共に伝らず」とある。

 

 

 

「新編相模」に見る「蛇水滝図」。手前に石棺及び碑が見える。この地はまさに密教高僧の修行道場だった。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

 

参道階段から丹沢山別院最勝寺へ。

 

 

 

丹沢山別院最勝寺。最勝寺は東光院(東寺真言宗。山北町岸)の別院。

 

最勝寺は「新編相模〜平山村」には記述がみられないが、東光院については「新編相模〜苅野庄 川村岸 東光院」に「福聚山醫王寺と号す。・・・天文十六年(1547)の草創なり。開山開基伝はらず。不動を本尊とす」とある。

 

ところで最勝寺は「丹沢山」の山号を号するが、近世以前の生活感覚になぞらえるとするならば地理的には「足柄山」あるいは「箱根山」と称するほうがしっくりくる。山号は本院たる東光院の山号であるが、東光院にしても山北駅の南、城山の隣の浅間山の麓なので同様の感がある。
そこで調べてみると、丹沢山東光院は表丹沢の雄峰・塔ノ岳(とうのだけ。1491m)と深いかかわりがあった。

 

丹沢を登る登山者には、塔ノ岳は尊仏山の別称があり山頂の山小屋は尊仏山荘と名付けられている、ということはよく知られている。そして尊仏とはかつて山頂にあった尊仏岩(拘留孫仏・くるそんぶつ)のことであり、関東大震災(大正12・1923)あるいはその余震で山頂から大金沢に転げ落ちてしまった、ということも少なからぬ丹沢愛好家に知られている。では尊仏岩はいつの頃から祀られていたのか。

 

江戸後期の新編相模国風土記稿巻之十六足柄上郡之五大井庄 玄倉村(くろくらむら)塔ノ嶽」には「黒尊仏と唱ふる大石あり。・・・此の山を他郷にては尊仏山と唱ふ」とある。続けて塔ノ岳が雨乞いの山であったことが詳述されている。さらには江戸前期の元禄期の話として、玄倉村の住職が横暴を極めたために村民が住職を村から追い出して後継を河村郷岸の東光院に依頼。こうして塔ノ岳と東光院のかかわりが始まり、江戸時代には東講が組織され関東一円から信徒が山北から神縄(かんなわ)、玄倉、山神峠(さんじんとうげ)という古来からの山道を経て塔ノ岳へと登るようになった、という話がある。

 

他方で「新編相模国風土記稿巻之十七足柄上郡之六大井庄 三廻部(みくるべ)村」に「観音院 尊仏山(寺伝に村の北三里余、山境に至りて塔ノ嶽といふ 石仏あり。石尊仏と号す。当寺この石仏に因りて山号とすと云ふ。その縁故詳ならず。石仏のことは玄倉村の条に出せり)福聚寺と号す。天台宗東叡山末。古は比叡山の末にて慈眼寺と称せり。起立の年代詳ならず」とある。三廻部村は現在の秦野市三廻部。鉄道でいえば最寄りは小田急線渋沢駅となる。塔ノ岳とは大倉尾根で繋がりがあったのか、あるいは寄(やどりき)へ抜けて鍋割山(なべわりやま)経由で登ったのか。明治初期には東光院と観音院との間で尊仏さんの守護を巡り訴訟が繰り返されていた、という。

 

昭和30年(1955)には当時の東光寺住職が資金を募って塔ノ岳山頂に「丹沢山尊仏別当」と掲げられた尊仏堂を建立。しかしこの堂は二年後の大嵐で吹き飛ばされてしまったという。
なお最勝寺に関しては「塔ノ岳山頂の石仏は大震災で谷底に消えたが最勝寺開山を期に拘留孫仏石像を建立した」という著述があり、大震災以降の開山ということであった。

 

参考「丹沢夜話」「丹沢今昔」「西さがみハイク」「丹沢尊仏山荘物語」

 

 

 

水子供養地蔵。供えられた数々の風車が、どこかうら寂しい。

 

 

 

帰路は車道へ。車道を下っていった先の左手、玉石垣の上に大日堂が建つ。

 

 

 

大日堂。
「新編相模〜平山村 大日堂」によると、こちらも本尊は文覚の作と伝わる。

 

 

 

滝沢橋まで戻り次の目的地、河村城址へと向かう。

 

 

3.河村城址

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