まちへ、森へ。

廃線跡から名瀑、山城歩き倒し

3.河村城址

 

2.洒水の滝はこちら。

 

 

洒水の滝(しゃすいのたき)を後にして滝沢橋まで戻ってきた。ここから河村(かわむら)城址歴史公園へと向かう。
河村城は平安末期に河村氏によって築かれたと伝わり、戦国時代に小田原北条氏配下の城となったのち廃城となった。

 

 

 

案内板に従って、正面に城山を見ながら進む。

 

 

 

屋久野橋で右折。

 

 

 

高瀬橋を渡る。

 

 

 

「日向用水の由来」案内板。
江戸時代後期、耕地を潤す用水を確保するために夫婦がたった二人で素掘りの隧道を三年がかりで掘ったという功績を偲んでここに記す、といった内容。

 

 

 

高瀬バス停、公衆トイレを過ぎていくと、奥に城址への分岐。

 

 

 

分岐のカーブミラーに取り付けられた道案内。このすぐそばには日向バス停。
分岐を左折して登っていく。

 

 

 

登っていくと、再び道案内。

 

 

 

分岐を左折して登り、振り返り見ると箱根の山々(明神ヶ岳あたり)が霞んで見える。

 

 

 

青々とした水田が広がる、足柄の夏。

 

 

 

 

 

 

 

林道終点。

 

 

 

折り返すように山道を登っていく。

 

 

 

ヤブランが咲いている。

 

 

 

 

 

 

 

進んでいった先に現れた分岐。
ここまで来た道は「洒水の滝コース」。左へ(道標の右方向へ)行くと「富士山眺望」とある。これは「森林セラピー・セラピーロード」の道標。
「富士山眺望」のコースは河村城址の「西郭(にしくるわ)」「北郭」へと続くが、分岐にはその旨の案内はない。
城址公園の中心部となる「本城郭(ほんじょうくるわ)」へは右手の道。

 

 

 

お昼休憩をとるため、先に本城郭へ登っていく。

 

 

 

本城郭の手前は「馬出郭(うまだしくるわ)」と称されている。ただ城の区画としての明確な復元はなされていない。

 

 

 

本城郭に到着。

 

 

 

こちらは蔵郭に設置されている河村城の縄張(なわばり。城の区画となる郭(くるわ。曲輪)の配置)図。

 

河村城は本城郭に設置されている由来碑にみる「新編相模国風土記稿巻之十六足柄上郡之五大井庄 川村山北 河村城跡」によると、平安末期の有力な坂東武士団であった波多野党の一族である河村秀高によって築城されたと伝わる。鎌倉期の「吾妻鏡」、南北朝期の「太平記」といった文献にも河村氏の名とともにその名は登場する。

 

室町期には関東管領上杉氏あるいは小田原城を拠点とした大森氏の持城に、戦国時代には小田原北条氏配下の城となった。元亀二年(1571)に北条氏の西の重要拠点だった駿河の深沢城(御殿場市)が武田氏の手に落ちて以降、河村城は重要な支城として北条流の城郭に大改修されたものと考えられている。天正18年(1590)の小田原合戦(豊臣秀吉vs北条)では明確な合戦の記録がなく、箱根西坂の山中城落城の報を受けて自焼し放棄されたのではないか、と推察されている。
参考「神奈川中世城郭図鑑」

 

 

 

河村城址碑。

 

 

 

城址碑の隣に建つ社。新編相模にあたってみたが、その由来はわからなかった。

 

 

 

社の裏手から空堀を見下ろす。草が伸びていて若干分かりにくいが、空堀を仕切る堀障子(畝)が確認できる。奥の三角の平場は小郭。

 

 

 

小郭の脇を通る園路は本城郭から茶臼郭の下を経て山北駅へと下っていく道。

 

 

 

石に刻まれた案内に「畝堀(うねぼり。障子堀)」と刻まれている。畝堀(障子堀)は河村城址では木橋を渡った先の蔵郭と近藤郭を隔てる空堀が最もよく整備されているが、こちらは一見してそれとは分かりにくいかもしれない。刻まれた案内文を見ると本城郭から小郭、茶臼郭にかけての二本の堀切が河村城址の調査で最初に発掘された障子堀のようだ。

 

本城郭のあとは先ほど後回しにした西郭、北郭を回る。いったん本城郭に戻ってからは東側の蔵郭、近藤郭、大庭郭、出張へ。再び本城郭に戻り山北駅方面の園路をたどって茶臼郭から山北駅へと下っていく。

 

 

 

馬出郭付近から見下ろす、西郭への園路(富士山眺望コースの園路)。

 

 

 

西郭。馬出郭と同様に郭としての明確な復元はなされていない。

 

 

 

西郭の谷側。谷の源頭で流れの始まるあたりが「水郭」ということになろうか。

 

 

 

西郭から北郭へ。浅くなり草も生い茂っているが、この辺りは堀切の空堀だったのだろう。

 

 

 

北郭。

 

 

 

標柱が立っており、それとわかる。

 

 

 

少しばかり先へ進むと、北郭と本城郭を隔てる谷。この源頭部が馬洗場、水郭となる。

 

ここで本城郭に戻り、城址公園として最もよく整備されているエリアを見て回っていく。

 

 

 

本城郭と蔵郭を隔てる堀切(ほりきり。尾根を分断するように掘った空堀)には木橋が架けられている。

 

 

 

解説板。
ここは実際に木橋の橋脚跡が発掘されている。

 

 

 

木橋の向こうは蔵郭。

 

 

 

大きな堀切。パンフレットの縄張図には薬研堀(やげんぼり)とある。

 

 

 

蔵郭に立つ案内板。

 

 

 

蔵郭では建物跡や炭化した米・麦、陶磁器、(武器としての)礫などが発掘された。他の郭を含めこれらの出土品状況の調査研究成果を踏まえたうえで、戦禍ではなく自焼と推論されているのだろう。

 

 

 

県指定史跡・河村城跡案内図。

 

 

 

蔵郭から近藤郭へ。コンクリートで土橋状に整備された園路からは河村城址で最大の堀切(空堀)を見下ろせる。

 

 

 

蔵郭の側から見下ろす、障子堀が復元された堀切。堀の底近くまで延びている園路が見える。
表面は草が生い茂り堀も浅くなっているが、北条流に改修された当時はローム層のツルツルの赤土の堀切が深い堀障子で仕切られていた。北条流築城術の最大の特徴である障子堀の復元は箱根西坂・山中城址(静岡県三島市)のそれが城歩き愛好家によく知られているが、神奈川県内では河村城址が随一。

 

 

 

発掘調査時の様子。

 

 

 

近藤郭の側から見下ろす。

 

 

 

近藤郭。縁石ベンチが設置されている。

 

 

 

案内板。縁石ベンチは発掘調査で見つかった竪堀、空堀の跡を示している、とある。

 

 

 

展望あずまやが設置された、大庭郭(おおばくるわ)。その手前で園路を左折すると、障子堀の底付近に降りられるようになっている。

 

 

 

障子堀の底へ。

 

 

 

堀の底。

 

 

 

休憩スペースと展望台が設けられた、展望あずまや。

 

 

 

あずまやには近ごろ城歩きマニアの間でブームとなっている「御城印(ごじょういん)」の案内がある。紋は河村氏の家紋である「直違紋(すじかいもん)」。

 

 

 

あずまやからの近藤郭、障子堀。

 

 

 

あずまやからの大庭郭。大庭郭は河村城址で最大の広さを持つ郭。学説上は郭の構造の違いから大庭郭が古来の主郭で後の世に本城郭・蔵郭が構築されたのであろう、といわれる。

 

 

 

あずまやの左手が多地屋敷と呼ばれる平場の区画だが、判然としない。

 

 

 

大庭郭から出張(でばり)へ。電波塔の立つ山は浅間山(せんげんやま。248m)。大庭郭のあたりには三角点(225.0m)があるようだが暑さで次第に頭がボーっとしてきており、探しきれなかった。

 

 

 

大庭郭に設置されている展望図。城の南を流れる酒匂川は天然の堀の役目を果たした。

 

 

 

出張の向こうは馬違戸。両区画は堀切で隔てられている。馬違戸と称する区画は「新編相模」にはその記載がない。「神奈川中世城郭図鑑」では明確な遺構がみられないとして城外の扱いとなっている。現状では一部が駐車場になっている。

 

神奈川県立公文書館デジタルアーカイブに収録されている「土地宝典」の「神奈川県足柄上郡川村地番反別入地図」(昭和五年二月刊行)には「城山」の南東麓に「馬違戸」という地名が見られる。その東、浅間山の南東麓には城主の居館跡である「土佐屋敷」の地名が確認できる。河村城の大手(正面入口)は大庭郭の南東あたりと考えられており、発掘調査を踏まえた結果「この辺りまで騎馬が乗り入れた」ということなのだろう。現在はここまでクルマで乗り入れることができる。

 

 

 

出張は大庭郭より一段低い。

 

 

 

堀切を土橋状に横断する舗装路の脇に歩行者用の橋が設けられている。

 

 

 

橋から見下ろす堀。

 

 

 

右手に公衆トイレ、奥には浅間山。当初の予定では浅間山にも立ち寄ろうかと思っていたが、やはり夏のまち歩きは暑さがキツい。気力が萎えてしまったので、やめた。

 

 

 

馬違戸から見る堀切、出張。

 

ここで本城郭に引き返し、最後に茶臼郭から山北駅へと下っていく。

 

 

 

本城郭の冠木門(かぶきもん)風の柵。ここから茶臼郭を経て山北駅へ。

 

 

 

途中で右手に降りる階段(山北駅方面近道)があるが、まっすぐ進む。

 

 

 

梅雨明けから一週間近く経つのに、園路がぬかるんでいる。

 

 

 

お姫井戸の碑。
畝(堀障子)の間に出水があり「新編相模」の絵図には井戸の記載があるが発掘調査時には井戸の遺構は確認できなかった、河村城落城の際に姫が投身したという伝承がある、といった内容が刻まれている。

 

 

 

小郭と茶臼郭を隔てる障子堀。

 

 

 

茶臼郭への分岐。

 

 

 

道標。

 

 

 

階段の上が茶臼郭。

 

 

 

茶臼郭の平場。

 

 

 

園路に戻り、駅近道の階段を右手から合わせて下っていく。

 

 

 

山道が終わり、舗装路へ。

 

 

 

森林セラピーロードの案内板。

 

 

 

河村城址歴史公園案内図。

 

 

 

舗装路を下り、途中で振り返り見る盛翁寺の参道。

 

 

 

さらに下っていく。

 

 

 

国道246号のガード下をくぐる。

 

 

 

くぐった先で正面の狭い路地へ。

 

 

 

路地を抜けると山北駅南側に整備されている鉄道公園。

 

 

 

階段を下りていく。

 

 

 

鉄道公園には自力走行復活で話題となった蒸気機関車D52(デゴニ)が保存されている。

 

 

 

 

 

 

 

デゴニの案内文。
デゴニは戦中戦後に製造された蒸気機関車。高出力の大型ボイラーを備え「日本最強の蒸気機関車」と謳われた。御殿場線でも電化される以前にその姿が見られた。

 

現在は全国に7両だけが残り、いずれも動かせない状態で保存(静態保存)されていたがここ山北で平成28年(2016)に自力走行復活のための整備が行われ、山北のD52は再び動くようになった。
整備にあたったのは元国鉄機関士の恒松孝仁氏。傷みがひどくボイラーで石炭を焚くことはできないため蒸気に代わってエアーコンプレッサーによる圧縮空気が動力源とされた。
しかし恒松氏はD52自力走行復活の直後、交通事故で亡くなる。他に機関車を動かせる人がいない状況で自走イベントは継続不可能という危機に見舞われたが、恒松氏と交流のあった若桜鉄道(鳥取県)の谷口剛史氏が遺志を引き継ぎ整備を継続。その協力のもと自力走行イベントは再開されている(新型コロナ禍の2020年は休止中)。

 

 

 

鉄道公園の隣り、山北町健康福祉センター(さくらの湯)1Fの売店でハイカーにもちょっと名の知られた石田為吉商店のあんパンを購入。もっちりした生地にあっさりした餡は、結構好み。

 

 

 

跨線橋を渡り駅北側の観光案内所へ。2Fの鉄道資料館(土日祝日の開室)に立ち寄り、御殿場線の華やかなりし時代の展示資料を見学。
スタッフの方々との「どこそこへは行きましたか?」「あれやこれやを見てきましたよ」といったしばしの御殿場線遺構談議は話が世附(よづく)森林軌道にまで広がり、気が付けば早や一時間余り。時間に余裕のあるまち歩きはこんなひと時がまた、いい。

 

今回のまち歩きはこれにて終了。

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