まちへ、森へ。

大山裏参道から南尾根、鶴巻温泉へ

年の暮れも押し迫った令和元年(2019)12月最後の週末、大山詣りの裏参道参詣口となる蓑毛(みのげ)から蓑毛越(みのげごえ)を経て大山阿夫利神社下社(おおやまあふりじんじゃ しもしゃ)へ。下社からは蓑毛越に戻り、大山南尾根(おおやまみなみおね)を歩いて鶴巻(つるまき)温泉へと下る。

 

1.小蓑毛から大日堂へ

 

 

小田急線秦野(はだの)駅から神奈中(かなちゅう)バス「蓑毛(みのげ)」行に乗車、手前の小蓑毛(こみのげ)バス停で下車。標高およそ210m、時刻は午前8時10分ごろ。

 

今回は終点の蓑毛まで乗らずに小蓑毛から歩き始める。見上げた大山南尾根には尾根上のピークに建つ二本の電波塔が見える。その右手にも二本の電波塔。左へ目をやると浅間山(せんげんやま。680m)に建つ電波塔も小さく見える。このように大山南尾根はいくつもの電波塔が林立する電波塔銀座となっている。
浅間山のすぐ左が尾根を乗っ越して下社へ向かう峠となる蓑毛越(みのげごえ。670m)。蓑毛越から南尾根を登っていくと大山山頂(1252m)に至る。

 

 

 

先へと進んでいくと、鳥居が現れる。

 

 

 

大山詣り・蓑毛裏参道からの参拝者を迎える鳥居。大山をまたぐようにそびえる姿は絵になる。その昔、常夜灯は山頂に祀られた石尊大権現への表参道の登拝門が開扉される夏山の時期に点灯された。

裏参道は主に駿豆(すんず。駿河・伊豆)など西の方面からやって来る大山講の人々に歩かれた道。あるいは江戸から甲州道を歩き富士山を詣でたのち御殿場から足柄峠を越えて大山へと両参りするロングコースを歩く人々も、この道を通った。

 

 

 

緑水庵(りょくすいあん)。入口には平成元年(1989)に復元された水車小屋が建つ。

 

 

 

案内板によると、緑水庵は元々は秦野市今泉にあった農家を平成二年(1990)に移築したもの。内部は田の字型の整形四間(よつま)取りで、近代(明治以降)に建てられた。移築にあたって内部は一部分を除き建築当初の姿に復原されている。

 

 

 

「御師(おし)の里」案内板。蓑毛の御師たちは駿豆といった西方面に活動の場を広げ、各地に講を組織していった。

ただ現在では蓑毛の御師(明治以降は先導師)は表参道(伊勢原市大山)の御師以上に影が薄くなってしまった。蓑毛の参詣口が衰退した決定的な要因としては昭和二年(1927)の小田急線開通が挙げられる。もともと蓑毛の御師は表参道側(大山町)と比べてその数にして十分の一程度だったということもある。

 

それでも先導師の家の出身であった柏木幹太氏(1889〜1942)が地域の発展を願い私財を投じて、昭和七年(1932)に柏木林道が開かれる。その完成により大山への登山は蓑毛越を経由するルートに加え柏木林道を利用したヤビツ峠経由のルートが加わった。

 

参考「丹沢 山のものがたり」「神奈川の東海道(下)」

 

 

 

常夜灯の建つ二股の道を旧道へ。

 

 

 

手作りの道標も立つ。

 

 

 

蓑毛バス停(ロータリー)に到着。標高310m。ここから大日堂はすぐそば。

 

 

 

ロータリー前の車道を左へ少しばかり進むと、仁王門が建つ。

 

 

 

朱塗の八脚門は虹梁(こうりょう。正面頭上に渡された横木の部分)の渦巻き模様などの様式から19世紀前半頃の建築と推定される。
門には阿吽(あうん)の仁王像。その作風から、こちらは平安後期ごろの像と推定されている。

 

 

 

 

 

 

 

案内板に見る宝蓮寺境内図。諸堂は臨済宗建長寺派・宝蓮寺が別当寺院(事務を管理する寺)となって管理されてきた。

 

ここ金目川(春岳沢)を始め、大山に源を発する谷はそれぞれが修験者たちの聖域であった。蓑毛の大日堂を始めとした諸堂もまた山岳修験信仰の密教寺院として整備されたという。ただ古代の資料は極めて少なく、謎も多い。

参考「丹沢の行者道を歩く」

 

 

 

大日堂(だいにちどう)。朱塗の板壁が廻らされた宝形造(ほうぎょうづくり)のお堂は扁額に享保十一年(1726)の文字が確認されており、建築様式からいってもその頃(18世紀前半)の築でほぼ間違いないとされる。
縁起によると大日堂は天平14年(742)に聖武天皇の勅願所として造営されたという。古くは覚王山安明院と号し、真言密教の寺院だった。
参考「神奈川県近世社寺建築調査報告書」

 

本尊は平安後期の作と推定される金剛界五智如来像(こんごうかい ごち にょらいぞう。大日、阿シュク、宝生、阿弥陀、不空成就。ここでは不空成就に代わり釈迦)。

 

仁王門・大日堂ともに傷みが激しい。大日堂の前には「拝観の際は安全に配慮するように」といった注意書きが立てられている。

 

 

 

 

 

 

 

軒下の蟇股(かえるまた)には十二支の彫刻が施されている。こういったちょっとした遊び心で宮大工が腕を揮うあたりは、いかにも近世の建築らしい。
正面に向かって右側面の奥から時計回りに子・丑・寅・卯、正面に辰、左側面に巳・午・未・申、背面に酉・戌・亥。

 

迎える令和二年(2020)は子(ねずみ)年。

 

 

 

卯(うさぎ)は浪頭を駆けている。大国様の神話が題材か。

 

 

 

こちらは申(さる)。皆さんも自分の干支を探してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

奥へと続く石段は左が御嶽神社、右が不動堂。

 

 

 

御嶽神社(みたけじんじゃ)。

 

県神社庁のサイトには「御嶽神社(蔵王社)」とある。江戸後期の地誌である「新編相模国風土記稿 巻之五十二 大住郡之十一 蓑毛村 大日堂蔵王社」の項には「熊野神明を相殿(あいどの)に置く。波多野庄総鎮守なり」と書かれている。

 

現在は御嶽神社と呼ばれるこの社は修験者の信仰を集めた蔵王権現と熊野権現が合祀された、神仏混交の時代における村の鎮守様だった。県神社庁のサイトには祭神が倭建命(やまとたけるのみこと。日本武尊)とあるので、明治期の神仏分離により御嶽神社と改称されたのであろう。

 

 

 

不動堂。随分と時代が下った建物のように見えるが、18世紀前半の建築という。残せる部材を残しつつ、かなり大掛かりな補修の手を入れたということになる。

 

縁起によると七世紀ごろに渡来人の秦氏が守り本尊の不動明王(ふどう みょうおう)を祀ったのが起こりとされる。のちに五大明王(不動、降三世・こうざんせ、軍荼利・ぐんだり、大威徳、金剛夜叉。順に中央・東・南・西・北を守護する)が祀られたが、現在は江戸期作と推定される不動明王のみ。

 

 

 

茶湯殿へ。

 

 

 

茶湯殿(ちゃとうでん。十王堂、閻魔堂。地蔵堂)。こちらは18世紀後半の築と推定される。
縁起によると茶湯殿は鎌倉前期の正長元年(1248)に建立された。

 

 

 

本尊の地蔵菩薩像のほか、十王像(閻魔像)が祀られている。これらは江戸中期の作。

 

 

 

木食上人(もくじきしょうにん)・光西(こうさい)入寂の地。

 

案内板によると光西は江戸中期の享保年間(1716〜1735)における宝蓮寺地蔵堂の庵主。宝蓮寺住職であった大蟲(だいちゅう)の協力を得て武相甲駿豆などを行脚して浄財を集め、御堂の修理・造営を行った。
事業の仕上げとして光西は地下に掘った石室に入り座って経を唱えながら入寂する(死して涅槃の境地に入った)。上人の「二百年後に掘るように」との遺言により昭和10年(1935)に村人により発掘が行われ、遺骨は埋め戻されている。

 

木食上人とは草根、樹皮、木の実などを食して修行する僧。大山では蓑毛のほか、日向(ひなた)でも安土桃山時代の木食上人・弾誓(たんせい)により浄発願寺(じょうほつがんじ)が開山されている。

 

大山エリアは古代から近世まで、修験者や禅僧、木食僧といったストイックな修行を重ねる聖者の聖域だった。そこには庶民による物見遊山の大山詣りとはまた違った側面がみられる。

 

 

 

大日堂まで戻り、堂に向かって左手にある金剛水。

 

案内板によると大山詣りの西の玄関口である蓑毛からの参詣者は、ここ金剛水で身を祓い清めたのちに大山詣りをした。そして金剛水もまた、雨乞いの聖水として霊験あらたかであったと伝わっている。底なし井戸といわれた金剛水であったが、震災のために井戸は枯れ現在はその痕跡を残すのみ。
参考「丹沢 山のものがたり」

 

 

 

道路を挟んで仁王門の向かい側には、臨済宗建長寺派・蓑毛山宝蓮寺の山門。

 

 

 

参道の六地蔵。地蔵菩薩は六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻し苦しむ大衆を救う仏。

 

 

 

宝蓮寺本堂。

 

秦野市観光協会のサイトによると、当初は寺号を薬音寺と号しており江戸前期の寛文九年(1669)に宝蓮寺と改められた。江戸後期の地誌である「新編相模国風土記稿 巻之五十二 大住郡之十一 蓑毛村 大日堂別当宝蓮寺」の項には山号を「金剛山と号す」「本尊薬師(如来)」とある。

 

案内板の宝蓮寺縁起によると、宝蓮寺の創建は鎌倉後期の正応元年(1288)。春嶽山にて座禅修行を行った仏国(高峰顕日)により開山される。

仏国は京より鎌倉に下ったのち、兀庵普寧(ごったん ふねい)に師事。兀庵普寧とは鎌倉中期に南宋より来朝、聖福寺(博多。源頼朝が開基となった日本最初の禅宗寺院)、東福寺(鎌倉時代前期の創建、開基は九条道家。室町期には京都五山第四位)に住し、五代執権北条時頼の招きにより建長寺(日本最初の禅専門道場。室町期には鎌倉五山第一位)の第二世となった高僧。その弟子により没後には浄智寺(室町期には鎌倉五山第四位)の開山祖にたてられている。

 

 

 

宝蓮寺は茶湯寺(ちゃとうでら)と通称される。これは大山周辺の寺院に伝わる「茶湯供養」によるものであろう。大山の茶湯供養については大山表参道のページへ

 

 

 

バス停そばの蓑毛橋まで戻り、金目川(春岳沢)に沿って蓑毛越・ヤビツ峠方面の登山道(柏木林道)へ。

 

 

 

常夜灯の建つ分岐は左がヤビツ峠方面、右が蓑毛越方面。

 

 

2.蓑毛から蓑毛越、大山阿夫利神社下社へ

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