平成31年(2019)4月下旬、天皇陛下即位の日が祝日となり暦の上で十連休となった大型連休の前半。好天に恵まれた散策日和の一日、横須賀市内に残る土木遺産なかでも旧陸軍の軍事要塞遺跡を主として巡り歩く。最初に横須賀港沖の無人島、猿島(さるしま)へ。猿島から戻った後は路線バスを利用して走水(はしりみず)水源地、観音崎を巡っていく。
4.県立観音崎公園・観音崎砲台跡(その1・明治後期)
横須賀観音崎、県立観音崎公園の砲台跡へ。前半は明治の後期、比較的新しい時期に造られた砲台跡を巡る。この頃に用いられたレンガの積み方は「イギリス積」。
JR横須賀駅〜京急横須賀中央駅からの路線バス終点、観音崎バス停。時刻は13時10分ごろ。
まずは県立観音崎公園パークセンター(公園管理事務所)へ。
パークセンター壁面のレンガ積。積み方はレンガの長手(ながて)を並べた段と小口(こぐち)を並べた段を交互に積み重ねる「イギリス積」。窓の周辺は新しくなっているが、そのほかは当初の状態が残されているようだ。基礎部分にはアーチが見られる。
案内板にあるようにこの建物は明治31年(1898)、旧陸軍により東京湾要塞・観音崎砲台の火薬庫として建てられた。観音崎には複数の砲台が各所に配置されており、ここは各砲台の砲側弾薬庫に弾薬を供給する弾薬本庫だった。
平成23年(2011)までは壁にモルタルが塗られて「青少年の村」として利用されていたが、パークセンターへの改修に際して可能な限り往時の姿に戻された。
公園の案内図(赤文字、緑線加工はサイト管理者)。 案内図拡大版。
広さおよそ70ヘクタール(100四方×70)の、広大な県立観音崎公園。このマップには砲台跡などの位置も記載されている。
観音崎地区は「東京湾要塞」で、ひいては日本で最初に陸軍による近代の砲台が建設された。手掛けたのは陸軍の工兵方面(明治30・1907年に築城部と改称)。
最初の着工は明治13年(1880)の第二砲台。以降、次々と砲台が建設されて明治期における要塞の一大拠点となった。しかし、猿島砲台で見てきたように軍事技術の変遷という時代の流れの中でこれらの砲台群は第四砲台を除いた全ての砲台が昭和初期までに廃止・除籍となった。
観音崎めぐりでは明治後期の砲台群としてパークセンター(旧弾薬本庫)から三軒家砲台跡、腰越堡塁跡、大浦堡塁跡を巡る。続いて明治前期の砲台群として第三砲台跡、第一砲台跡、観音埼灯台を経て第二砲台跡へ。最後に海辺に下りて明治後期の南門砲台跡へとめぐっていく。所要時間は砲台跡をじっくり見ながら歩くとして、およそ3時間も見ておけば充分。
観音崎公園の先は駆逐艦「村雨」の碑を訪ね、鴨居バス停から京急浦賀駅へ戻る。
駐車場脇の園路からまずは三軒家(さんげんや)砲台跡へ。
坂を上っていく。パークセンター(旧弾薬本庫)から各砲台跡を結ぶ園路は要塞構築当時からの道。物資の搬入路として兵士達が行き交った。
コンクリート製の門柱らしき跡。
古そうな石積みの擁壁が残っている。
城の石垣に例えるならば、まるで野面積(のづらづみ)のようだ。
こちらはブラフ積と称される積み方を用いた擁壁。ブラフ積は明治初期ごろに横浜の山手(ブラフ)界隈で多く用いられ始めた、西洋式の石積。長く切った石の並べ方はレンガのフランス積に相当する。
三軒家砲台跡への分岐を右へ下りていく。
こちらにも門柱が建っている。
掩蔽部(えんぺいぶ。砲座後方の待避所)の出入口。
三軒家砲台跡に到着。
右翼には27pカノン砲(加農砲。cannon)計四門の砲座が残っている。左翼には12pカノン砲が二門配置された。
胸墻(きょうしょう。砲座を囲む壁)。
横墻(おうしょう。砲座裏の待避所)。
下は弾薬庫。アーチの入口は塞がれている。
レンガの積み方は弾薬本庫(現パークセンター)と同じくイギリス積。
掩蔽部への切通し状の通路。
観測所付属室。こちらもイギリス積。
三軒家砲台は明治27年(1894)起工、明治29年(1896)竣工。旧陸軍に関して言えば、レンガ構造物は明治20年ごろより以降はフランス積に代わってイギリス積が用いられるようになっていた。
三軒家砲台は後で触れる旧第三砲台の廃止を受けて急きょ建設された砲台。日露戦争(明治37・1904)では戦備につき、関東大震災(大正12・1923)で被災するも復旧。昭和9年(1934)に走水砲台とともに除籍された。
三軒家砲台跡の平面図(赤文字による掩蔽部、横墻、弾薬庫、観測所の加筆はサイト管理者)。
来た道を折り返して戻り、腰越堡塁跡へ。
分岐まで戻って、登っていく。
「花の広場」前を左へ進む。
広々とした、花の広場。
岩盤を削って通された道はレンガ舗装になっている。
「うみの子とりで」に到着。この奥が腰越堡塁跡。
奥へ。
腰越堡塁(こしごえ ほうるい)跡。イギリス積の横墻(おうしょう。待避所)が残っている。埋まっているアーチの下部はかつての弾薬庫か。
腰越堡塁はこの後に見る大浦堡塁とともに諸砲台の背後を守備するために建造された堡塁。明治28年(1895)に起工し29年に竣工。対軍艦用ではなく上陸部隊に対応する9pカノン砲が二門据え付けられた。
日露戦争時には背面に上陸される恐れが無かったので戦備にはつかなかった。大正14年(1925)に除籍。
左翼側の横墻。
軍事要塞の砦は永い時を経て、子どもたちのあそぶ「とりで」となった。
園路に戻り、振り返り見る。
続いて大浦塁補跡へ。橋を渡る。
現代では代替わりしたこの橋も、初代は砲台間の物資輸送路の一部だった。
橋の上から海を望む。
園路を進む。
このあたりの岩盤は三浦丘陵の全般に渡って基盤を形成する凝灰岩の層で「池子層」とよばれる。凝灰岩は加工しやすいので軟らかいといえば軟らかいが、岩なので硬いといえば硬い。
擁壁には補修の手が加わりつつも、ブラフ積も残っている。
「戦没船員の碑」に到着。この奥が大浦堡塁跡。
トイレの背後辺りに横墻らしきレンガ積が残っている。
大浦堡塁は腰越塁補と同時期に竣工し同様の装備が据え付けられた。
大浦堡塁の横墻は腰越堡塁以上に埋もれており、ぱっと見でそれとは気づきにくい。
神戸高等商船学校練習船「進徳丸」の錨。
慰霊の地にて悠久の海を望む。
奥にトイレ、その左手に錨。
続いて、第三砲台へ。ここから先は主に明治前期の砲台跡を巡っていく。
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