まちへ、森へ。

猿島から走水、観音崎めぐり

3.走水水源地、観音崎ボードウォーク

 

2.猿島要塞・海軍「防空砲台」の時代はこちら。

 

 

京急横須賀中央駅バス停7番のりばから「須24系統 観音崎」行きに乗車。京急本線(浦賀行)馬堀海岸駅の二つ先となる「馬堀(まぼり)中学」バス停で下車。時刻は午前11時50分ごろ。

 

ここは走水(はしりみず)水源地の最寄となる「伊勢町」バス停の一つ手前となるが、旧水道トンネルの遺構から歩き始めるためにここで下車する。

 

 

 

信号を渡り、その先の一方通行の道へ。

 

 

 

走水第一隧道(旧水道トンネル)の入口。

 

 

 

案内板。

 

現在のトンネルの規模となったのは明治29(1896)年とある。それに先駆け明治16年(1883)にはすでに拡張がなされている。拡張されたのは道路としても利用するため。そのきっかけは走水、観音崎地区における陸軍の要塞の構築(明治13・1880〜)であり、それにあわせて交通路を確保する必要に迫られた。

 

一方で最初のトンネルが開通したのは明治9年(1876)。幕末から明治にかけてフランス人技師レオンス・ヴェルニーの総指揮の元で横須賀製鉄所(造船所)が造られた際に、造船所で用いる用水を確保するために水道が引かれた。その当時、横須賀製鉄所(造船所)の所管は既に工部省から海軍省に移っている。このように横須賀水道・走水水源の始まりは官営造船所の工業用水としてであった。

 

 

 

最初のトンネルは案内板によると高さ1.5m、幅1mであったというから、現在に残っている石積、煉瓦積は明治16年あるいは29年以降のものとなろう。
石積は長く切った石の長手(ながて。長辺)と小口(こぐち。短辺)を交互に並べて積んでいく「ブラフ積(ブラフづみ)」と称される積み方。レンガでいえばフランス積に相当する。
この積み方は明治初頭から横浜の山手居留地(外国人たちは山手をブラフと呼んだ)で多用され、明治前期の陸軍による「東京湾要塞」の構築にあたっても多く用いられている。

 

 

 

第一隧道の出口。案内板にあったように、最初のトンネルは一つにつながっていてカーブした途中に明かり取りの窓が開けられていた。

 

 

 

走水第二隧道の入口。

 

 

 

レンガ積のアーチが見える。

 

 

 

トンネル内部。

 

 

 

第二隧道の出口。こちらの石積も第一隧道と同様。

 

 

 

こちらの案内板では現在の規模となったのは明治16年とされている。

 

 

 

トンネルを出ると海沿いを走る国道16号が合流。

 

 

 

16号沿いに走水水源地へ。この先、こちら側は路肩が狭くなるので歩きやすくはない。

 

 

 

走水水源地に到着。

 

 

 

煉瓦造貯水池。明治35年(1902)、走水水源地の第一期拡張工事で造られた。

 

レンガの積み方は長手を並べた段と小口を並べた段を交互に積み重ねていくイギリス積。入口には要石(かなめいし。キーストーン)をあしらったアーチが設けられている。
案内板によると内部は扁平ヴォールト(つぶれたカマボコ型の天井)となっているという。

 

 

 

道の海側には横須賀市水道局・走水水源地管理センター。

 

 

 

最初は官営横須賀造船所の工業用水の水源として開発された走水水源地は、明治41年(1908)に施設の拡張に伴って不要となった水道管の払い下げを受けた市によって水道が敷設されたことにより、横須賀市民の飲み水としても利用されるようになった。

 

 

 

管理センター側から見る煉瓦造貯水池。

 

 

 

側面にアーチ型の入口や丸窓が設けられているが、現状ではレンガで塞がれている。

 

 

 

案内板。

 

 

 

「ヴェルニーの水」の案内。

 

 

 

水場は駐車場に下りる土手沿いに一つ。

 

 

 

そして駐車場内に三つ。
水場には水道局で水質管理された湧水(水道水)が供給されている。

 

 

 

管理センターの海側にはコンクリート造浄水池。こちらは明治41年(1908)水源地の第二期拡張工事で造られた。白い外壁の腰の高さあたりには石で縁取った丸窓が配列されている。案内板によるとこちらの内部は五連馬蹄型ヴォールト(五連のカマボコ型の天井)。

 

明治の後期になると各種構造物に鉄筋コンクリートが用いられるようになり、この浄水池の上屋は鉄筋コンクリート建造物としては我が国で最初期のものとされる。同時期の鉄筋コンクリート建造物としては県内では明治44年(1911)、横浜・日本大通に旧三井物産横浜ビルが竣工した(我が国で最初の全鉄筋コンクリート造ビル)。

 

 

 

12時半ごろ、伊勢町バス停からバスに乗車。南谷戸(みなみやと)バス停まで移動する。
なお今回は観音崎公園の要塞跡をぐるぐると巡り歩くプランのため割愛したが、伊勢町から南谷戸までの間にも見どころは多い。

 

「破崎緑地」の展望デッキは走水海岸と富士山の眺めがすばらしい、写真映えのするビューポイント。

 

旗山崎公園は東京湾要塞の一つとなる「走水低砲台(御所ヶ崎砲台)跡」があり砲台跡は良い状態で保存されているが、通常非公開でガイドツアーに拠らないと見学できない。

 

 

猿島・管理棟展示パネルに見る、走水低砲台跡。

 

「走水神社」はヤマトタケル東征伝説で知られており日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が祀られている。走水の地は古代の東海道が通る地であり、官道は海を渡って安房・上総へと続いていった。
走水神社に弟橘媛命が合祀されたのは明治後期になってから。それまでは御所ヶ崎に祀られていた。また、このあと訪れる観音崎崖下の権現洞窟(海食洞)には奈良時代に行基が海上安全のために「弟橘媛命を十一面観音(船守観音)として刻まれ(鵜羽山権現の)側に安置され・・・」といった由緒がある。

 

 

 

南谷戸で下車、走水信号を過ぎて少し進むと観音崎ボードウォークの入口。

 

 

 

 

 

 

 

フェニックスに囲まれた観音崎京急ホテル。

 

 

 

タイワンリス。

 

 

 

波打ち際の遊歩道。

 

 

 

 

 

 

 

ズームでとらえる第一海堡(かいほ、かいほう)。海堡とは洋上要塞のこと。人工島を築いて砲台などを設置した。

 

東京湾の入口となる浦賀水道は千葉県富津(ふっつ)岬と神奈川県観音崎に挟まれている。幕末期の異国船に対する防衛施設であった台場(砲台)の時代を経て、明治期以降は陸軍により「東京湾要塞」と総称される砲台が神奈川・千葉の各所に建設された。そして富津岬側から観音崎までの間に人工島の第一、第二、第三海堡が弧を描くように築造され、東京湾に侵入しようとする軍艦に対して砲火を浴びせる防衛ラインが構築された。これらの人工島はその機能面からみて、リアルに「軍艦島」だった。

 

第一海堡は明治14年(1881)に着工、明治23年(1890)に竣工。浦賀水道は富津から横須賀にかけて次第に深くなっていく地形のため、人工島の築造は遠浅の富津側から着工していった。最大の難工事であった第三海堡が竣工したのは大正10年(1921)。着工から実に29年の歳月を要した。
長い年月の末にようやく完成した防衛ラインであったが、そのわずか2年後の大正12年(1923)に関東大震災が発生。海底までが最も深い位置に築かれた第三海堡は地盤が崩れて壊滅的な被害を受け、使用不能になってしまった。陸軍は無残な姿となった第三海堡の修理を諦め、完成後わずか二年で第三海堡は除籍処分となった。

 

戦後になると構造物が海中に没して暗礁と化した第三海堡は航行の安全を著しく阻害。海難事故も頻発したため平成13年(2001)から平成19年(2007)にかけて撤去工事が実施され、第三海堡はその姿を消している。

 

 

猿島・管理棟展示パネルに見る、第三海堡の地下構造物(兵舎)。
第三海堡の構造物は撤去に際して幾つかが保存された。このパネルの兵舎は横須賀市平成町の「うみかぜ公園」に保存。そのほか横須賀市追浜の「夏島都市緑地」にも三基の構造物が保存されている。
参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

一方で第一海堡、第二海堡はその姿を留めている。第二海堡については平成30年(2018)より「第二海堡上陸ツーリズム」が実施され、国の許可を得た事業者のツアーに参加するかたちで上陸が可能になった。

 

 

 

波打ち際をボードウォークが延びていく。

 

 

 

広がる岩畳(海食台)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ズームでとらえる横浜みなとみらい。

 

 

 

海辺に佇みながら過ぎゆく、まばゆくも気怠い午后。

 

 

 

観音崎にそびえ建つ、旧東京湾海上交通センターのレーダー塔。

 

 

 

沖をゆくタンカー。対岸の富津。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遊歩道案内図。

 

 

 

ボードウォークを後にして、県立観音崎公園へ。

 

 

 

 

 

 

 

観音崎バス停に到着。時刻は13時10分ごろ。

 

 

4.県立観音崎公園・観音崎砲台跡(その1.明治後期)へ

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