まちへ、森へ。

早渕川流域〜太古から現代へ、開発のあゆみ

2.大塚歳勝土遺跡公園・都筑民家園へ

 

1.センター南駅から茅ヶ崎城址へはこちら。

 

 

茅ヶ崎城址公園から遺跡公園へ向かい、早渕川を渡る。

 

 

 

上流方向はセンター地区。

 

 

 

 

 

 

 

車道を渡り、緩やかな上り坂が続く。

 

 

 

 

 

 

 

折り返すように登っていく。

 

 

 

振り返れば、こんもりとした緑の茅ヶ崎城址。右手には資源循環局都筑工場の青白煙突。

 

 

 

竹林を登っていく。

 

 

 

大塚・歳勝土(おおつか・さいかちど)遺跡公園。

 

早渕川を含めた鶴見川の流域では縄文〜古墳時代の遺跡が多数発掘されている。早渕川流域は原始の時代から人々の定住に適した土地であった。遺跡のほとんどはニュータウン建設に伴って発掘調査・記録の保存がなされたうえで、消滅した。

 

 

旧港北区域における弥生時代の遺跡分布図 画像出典・港北区史

 

先土器時代から古墳時代まで時代を広げると、発掘された遺跡は膨大な数にのぼる。

ここ大塚・歳勝土遺跡でも昭和47年(1972)から港北ニュータウン建設に伴う発掘調査がおこなわれた。その結果、大塚・歳勝土遺跡は弥生時代中期(一世紀)の環濠集落と方形周溝墓の両者がセットとなってしかも全面的に発掘されるという、全国的に見ても珍しいケースとなった。
昭和61年(1986)の国の史跡指定を経て、平成8年(1996)に遺跡公園として開園。

 

 

 

公園内に設けられた、都筑民家園。

 

 

 

旧長沢家住宅。ニュータウン建設に伴い牛久保(うしくぼ。牛窪)地区から主屋と馬屋が現在地に移築された。

港北ニュータウンの中心地区である中川地区は、昭和14年(1939)の横浜市への合併前は都筑郡中川村であった。中川村は明治22年(1889)、それまでの郷村であった牛久保村、大棚(おおだな)村、山田(やまた。矢股)村、勝田(かちだ。鍛冶田)村、茅ヶ崎(ちがさき)村が合併して成立した。
昭和40年代まで中川地区には街道沿い、谷戸みち沿いに百二十軒余りの草葺古民家が存在していたという。

 

 

昔の中川地区 画像出典・港北区史

 

近世の農村集落は山すその谷戸みち沿いに形成された。先に見た中世の城・茅ヶ崎城の居館も山すその根小屋(ねごや)地区に建てられていた。

 

もしも谷戸みち沿いのこの風景がほんの一か所でも谷戸の地形ともども現在にそのまま伝わっていれば、伝統的建造物群保存地区とまではいかなくとも谷戸の原風景としてかなりまとまった遺産となったであろう。

現在でも屋敷の建物が背後の屋敷林と併せて往時のままに残っている屋敷地は、港北ニュータウン周辺では当主が現在も居住している名主・代官屋敷の関家住宅(国指定重文。都筑区勝田町)がある。市域に広く目を向けると鶴見区獅子ケ谷の横溝屋敷が名主の屋敷として保存・活用されている。

 

 

 

大きな茅葺屋根の主屋に、並んで建つ馬屋。
建築年代は棟札が確認されなかったものの建築様式の調査から江戸時代の中〜後期と推定されている。

 

 

 

 

 

 

 

軒下。

 

 

 

土間(どま)には竈(かまど)。

 

 

 

土間の屋根裏。

 

 

 

ヒロマには囲炉裏。利用が入っていてちょうど入れ替わりのようだったので手早く見学を済ませる。

 

 

 

オクの床(とこ)。床脇は引き戸の付いた押入れになっている。
奥の間は身分の高い来客を応接する。身分の上下に厳しかった江戸時代の農家の古民家としては、立派な床。

 

 

 

奥の間には竿縁天井(さおぶちてんじょう)が張られている。欄間(らんま)ははめられておらず土壁になっている。

 

 

 

主屋と馬屋はロウカ(通路)で直線的に結ばれている。これは南武蔵の住居の特徴を示すとされる。

 

参考・市民グラフヨコハマNo.102楽しい横浜の建築探訪

 

 

 

馬屋。

 

 

 

馬屋には竹の簀子(すのこ)で天井が張られている。

 

 

 

馬屋の屋根裏が見える。

 

 

 

馬屋に保管されている古い農機具。

 

 

 

主屋の奥には新たに茶室が建てられた(平成22・2010年竣工)。

 

 

 

広間(ひろま)は「輪亭(りんてい)」、小間(こま)は「鶴雲菴(かくうんあん)」と名づけられている。古民家の主屋と並んで建っていて、違和感がない。

 

 

 

平面図。

 

広間は八畳、小間は三畳台目(さんじょうだいめ。三畳と四分の三くらい)。露地(ろじ。茶室の庭)は利用が入っていたので見学は控えた。
この茶室は時間貸しはしておらず民家園の主催事業の一環として利用できる。

 

 

 

鶴雲菴の床(とこ)。

 

 

鶴雲菴の台目畳(だいめたたみ。およそ四分の三畳)側。台目畳は亭主(茶会の主催者)が茶を点てる空間(点前座・てまえざ)。

 

これほどの小間を私設ならいざ知らず、公共の茶室に備えるとはかなりの力の入れよう。

 

 

露地。

 

画像は都筑民家園茶室のパンフレットより転載。

 

 

 

案内図。

 

民家園を後に、歳勝土遺跡へ。

 

 

 

歳勝土(さいかちど)遺跡は弥生中期の方形周溝墓群。

 

 

 

弥生時代の集落と墓がセットで造られたことが明らかとなった遺跡。四方に溝を巡らせた区画が整然と並んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

復原された盛土。

 

 

 

遺跡の保存整備の概要。

 

 

 

盛土の断面が分かるような復元もある。

 

 

 

 

中央には家長の木棺が、周囲には家族の壺棺が配されている。集落の住居跡よりは墓の数が少ないことから、集落全ての人々ではなく首長級の家族の墓と考えられている。
その墓にしても副葬品がないことから家同士の格差はなかったと考えられている。

 

参考・「かながわ遺跡めぐり」(神奈川県考古学会編 多摩川新聞社) 「港北区史」

 

 

 

大塚・歳勝土遺跡の地形模型。中央に歳勝土遺跡(墓地)、その奥に大塚遺跡(集落)。

 

 

 

反対側からの大塚遺跡。

 

 

 

谷戸は水田推定地。

 

 

 

谷戸の尾根(台地)の部分が集中的に開発されている。そして谷戸の水田(谷戸田)で稲の耕作がおこなわれたと推定されている。まさしく昭和中期まで市域郊外各地で見られた風景の原点がここにある。

 

中世や近世と違って氾濫する川の治水もままならない原始では、たとえ水田と住居の往復が面倒でも谷戸の山すそに居を構えるという発想は採れなかったのだろう。

 

 

大塚遺跡へ。

 

 

 

大塚遺跡は弥生中期の環濠集落。大きな環濠のおよそ三分の一が保存されている。月曜は休園。

 

 

 

集落全体に空堀を巡らせて土塁を築く。早渕川流域の広々とした台地に広がる居住地域を守るため、集落全体を囲む環濠が造られた。大塚遺跡は日本で初めて環濠の全掘調査がおこなわれた。現在残されているのはその一部。

 

 

 

 

 

 

 

再現された木橋。

 

 

 

発掘された住居跡がそのまま保存されている。ガラス繊維強化樹脂セメントを用いて遺構を再生した、とある。ちなみに磯子区岡村の三殿台(さんとのだい)遺跡では住居跡が保護棟で覆われて保存されているが、保護棟には空調がないため定期的にカビなどを除去している。

 

この住居跡がちょっと変わっているのは、尻尾のような溝が延びているところ。これは出入のための通路と考えられている。通常であれば梯子を掛けて降りるようになっているので、この溝に特別な意味があったのではないかとされる。
また、床面は同心円状に拡張されており、この住居が段階的に広げられたことを示す。

 

参考・かながわ遺跡めぐり 神奈川県考古学会編

 

 

 

復原された弥生時代中期の住居。

 

 

 

内部は柱跡があり、テント型から発展した入母屋造(いりもやづくり)の原型ともいうべき造り。

 

 

 

高床式倉庫。

 

 

 

 

 

 

 

市域におけるもう一つの国指定遺跡(縄文〜古墳時代)である三殿台遺跡(磯子区岡村)では環濠は確認されていない。そちらは古代の海に囲まれた岬状の狭くて小高い地形に集落が形成されており、外敵の侵入からの防備と言う意味では堀を巡らせるまでもなかったのであろう。

 

弥生時代には農業の成立とムラ社会の発展にともない村同士の抗争も繰り広げられた。住居跡からは火災の痕跡も発掘されている。規模は比較にならないものの、環濠には戦国時代の城に見られる土塁と空堀のルーツを見る思いがする。 

 

 

 

発掘当時の環濠。画像出典・港北区史

 

くびれの手前側は開発により失われた。向こう側が遺跡公園として保存されている。

 

 

 

大塚歳勝土遺跡公園を後にし、徳生公園へ向かう。

 

 

 

公園出口から直進し、緑道へ。

 

 

3.「ふじやとのみち」徳生公園から「くさぶえのみち」牛久保公園・山崎公園へ

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