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横浜開港場からみなとみらい、新旧水際線あるき


5.みなとみらい・高島水際線公園からポートサイド地区

4.新港パークから臨港パーク〜高島水際線公園はこちら。



帷子川(かたびらがわ)の河口「高島水際線(たかしま すいさいせん)公園」から「水際線プロムナード」を「ヨコハマポートサイド地区」へ向かう。




「みなとみらい大橋」の下をくぐり。




人道橋の「はまみらいウォーク」。横浜駅東口(そごう・スカイビル)とみなとみらい(日産グローバル本社)を結ぶ。




「はまみらいウォーク」に上がって。




日産ギャラリー。




帷子川(かたびらがわ)を渡る。




横浜新都市ビル(そごう)2Fペデストリアンデッキ。




「そごう」の奥に「BAY QUARTER(ベイクォーター)」
そごう1Fは横浜駅東口バスターミナル。建物の外は市営バスの待機所。デッキを挟んで手前のスカイビル1Fは横浜シティ・エア・ターミナル(YCAT。ワイキャット)のバスのりば。羽田・成田ほか長距離のバスが発着する。ピンクの屋根の高速バス「WILLER EXPRESS(ウィラーエクスプレス)」が見える。




2Fペデストリアンデッキから「かもめ歩道橋」で帷子川分水路(かたびらがわ ぶんすいろ)の帷子川合流点付近を渡っていくと、ベイクォーター3F。




ベイクォーター3Fから2Fに下りる。




ベイクォーター2F・シーバス横浜駅東口のりば。




みなとみらい大通り(栄本町線)・みなとみらい大橋のアンダーパスをくぐると「ポートサイド公園」。




ポートサイド公園に到着。
ここで「みなとみらい大橋」に上がって橋を渡ると先ほどの「高島水際線公園」に戻るので、両公園の行き来は「みなとみらい大橋」を渡ったほうが近道。




帷子川河口付近の汽水域(海水と淡水の混じる領域)に整備された、ポートサイド公園。開園は平成10(1998)年3月。




畝(うね)のような芝生が水際に沿って延びていく。




円筒形のベンチ。




水辺の至る所に設けられた、三角形のウッドデッキ。




護岸のヨシ原は人の手によって作られた「ビオトープ」。平成3年(1991)に実施された横浜市による(仮)水際公園の設計コンペで171の応募作品の中から一等賞を獲得したプランが、東京の環境プランナー長谷川浩己氏による「水際にヨシ原を創生」というものだった。

ただ、汽水域でのビオトープづくりは当時学ぶべき前例が少なく、潮の干満やシーバスなどの船舶のもたらす波がヨシの土壌をさらってしまうという課題があった。これをクリアするため市民、企業、行政などのメンバーから成る研究会が設けられ、「エコロジカルウォール」「マルチブロック」などの工法を開発。こうして創生されたヨシ原が定着し公園に潤いをもたらしている。

参考「市民グラフヨコハマNo.113 ミレニアム記念特集 新しい横浜 ベイサイド3地区魅力ガイド」「横浜国際港都建設ヨコハマポートサイド地区第二種市街地再開発事業」(横浜市都市計画局発行)




対岸は先ほど歩いてきた、みなとみらいの「高島水際線公園」。その奥の街区では二万席規模の音楽アリーナの建設が進む。









「ホライズン ジャパン インターナショナルスクール」。




こちらは晴天に恵まれた秋の一日。




石油タンクを連ねた貨物列車がゆく。




JR貨物・高島線。




昭和45年(1970)製の鉄橋。架け替えられて半世紀が経過した。




公園の東端から古そうな石積の橋脚、橋台を眺める。




平面の部分は長く切った石の長手(ながて)を並べた段と小口(こぐち)を並べた段を交互に積んでいる。レンガで云う所の「イギリス積み」のような積み方。これは大正6年(1917)の高島線開通時の橋脚か、それとも関東大震災(大正12・1923)を経た後の復興事業による橋脚だろうか。




橋台もレンガの「イギリス積み」のような石積になっている。すぐ左隣は四角い石を斜めに積む「谷積(たにづみ」。こちらはおそらく京急・神奈川駅辺りの石積擁壁と同様、震災からの復興事業によるものだろう。




線路の向こうは横浜市中央卸売市場本場。




ポートサイド公園の中央、芝生のうねる広場。曇天下のまち歩きから半月が経った頃で、木々が色づき始めている。




ポートサイド公園中央の広場から「ギャラリーロード」と名付けられた通りへ。
正面の中層棟は「ロア参番館」。平成6(1994)年竣工、設計は(株)建築計画工房・長谷川逸子氏。バルコニーにパンチングメタルを用いて波の揺らぎを表現し、最上階の屋根は風をはらんだヨットの帆をイメージ。総じてポストモダンを意識させるデザイン。
左の高層棟は「パークタワー横濱ポートサイド」。竣工は平成20(2008)年、こちらの設計は大成建設(株)一級建築士事務所。こちらも単調な外壁ではなく変化を持たせたグリッドデザイン(格子状のデザイン)となっている。

「ヨコハマポートサイド地区」は元々は埠頭や貨物駅の広がる高島地区の対岸という土地柄、倉庫や工場が建ち並ぶ地域だった。
「みなとみらい21」再開発計画によりポートサイド地区の隣りにある神奈川公園の角・第一京浜(国道15号)栄町から「みなとみらい」を横断し旧第一銀行横浜支店(旧横浜銀行本店別館)角の本町五丁目まで「栄本町線(さかえほんちょうせん。みなとみらい大通り)」が計画されると、この地区は「アート&デザインの街」をコンセプトとした「ヨコハマポートサイド地区」として再開発されることとなる。ポートサイド公園がデザイン性を強く意識した公園となっているのもその一環。




地区再開発の初期に建てられた「ロア参番館」はギャラリーロードの顔、といってもいい建物。




ギャラリーロード沿いでひときわ目立つポストモダン建築は高層住宅「アルテ横浜」。ポートサイド地区で最初に竣工(平成4・1992)した高層建築となる。基本設計はアメリカの建築家、マイケル・グレイブス(1934〜2015)。ポストモダンの大家が手掛けたこのタワーがこの街の「アート&デザイン」コンセプトの先導的な役割を果たした、といっていい。




再開発前のポートサイド地区。画面中央右側に建設中の「アルテ横浜」が見える。

「日本最大の売場面積(当時)」「日本初の『博物館法』に準拠した百貨店内美術館を併設」を謳い文句に鳴り物入りで登場した「横浜そごう(現そごう横浜店)」の隣り、ベイクォーターあたりはそごうの駐車場だった。駐車場を含めた広大な敷地にはバブルの末期、伊勢丹が「横浜伊勢丹」の商号を仮登記して横浜進出を目論んでいた時期もあった。

そごう駐車場の端にはシーバス横浜駅東口のりばが見える。アルテ横浜の左方向、ホライズンジャパンインターナショナルスクールの位置には旧YCAT(横浜シティエアターミナル)が見える。

そごうの手前に広がるのは高島埠頭の「国鉄横浜貨車区」。埠頭の岸壁には無数の艀(はしけ。船荷を積み替えて運ぶ小舟)が見える。

画像出典「横浜国際港都建設ヨコハマポートサイド地区第二種市街地再開発事業」(横浜市都市計画局発行)




ロア参番館1Fの「宮川香山眞葛ミュージアム(みやがわこうざん まくずミュージアム)」へ。




入場券の半券。初代宮川香山の「遺作」の一つが券面にあしらわれている。眞葛ミュージアムは週末(土日)の開館。




眞葛ミュージアムのリーフレット裏面。
初代宮川香山(1842〜1916)は幕末〜明治期の陶芸家。京都東山・眞葛原(まくずがはら)の陶工であった宮川長蔵のもとに生まれる。明治初期に薩摩の御用商人に請われて横浜に移住。「眞葛香山」と号し、輸出向けの陶磁器「眞葛焼」を生み出した。

当時の横浜は外貨獲得のための陶磁器の海外輸出が盛んだった。開港以前も東海道の宿場町(神奈川・保土ヶ谷)とともに栄えた横浜市域であったが、分厚い関東ローム層に覆われた市域では陶芸に適した土は産出しなかった。それでも多くの絵付け職人や貿易商が海外の嗜好をいち早く取り入れることのできる横浜に続々と集まり、窯業の盛んな各地から土や素焼きの器が取り寄せられて欧米人好みの作品が次々と作られていった。

初代香山は「横浜では窯は無理だから京都に帰った方がいい」という声をよそに周辺地域をこつこつと探索、神奈川県秦野(はだの。丹沢の南麓)や伊豆天城に陶芸に適した土を発見する。そして現在の京急南太田駅北側にあたる南区庚台(かのえだい。旧久良岐郡太田村不二山下)に窯を開いた。
その作風は国内向けから海外向けまで多岐にわたる。明治29年(1896)には陶芸界では二人目となる「帝室技芸員」に任命された。明治・大正期の工芸品(焼物)で国の重文に指定された五点のうち二点は初代香山の作品となる(国指定文化財等データベースより)。大正五年に東京の別邸で永眠。墓所は久保山墓地(西区)にある。




「横濱諸会社諸商店之図」にみる眞葛窯。明治16〜24年(1883〜91)頃。手前が石段と門。奥に向かって登り窯が築かれている。
二代目、三代目香山に受け継がれた眞葛窯は横浜大空襲により壊滅、三代目とその家族も空襲により亡くなる。戦後に三代目の弟が窯の復活を試みるも世情は終戦後の疲弊著しく再建を断念、眞葛焼はその歴史を閉じた。窯の跡は宅地化されており現在は残っていない。




リーフレット表面。左は後期、右は初期の作品。

初期の作品(〜明治14年ごろ)の技法は「高浮彫り(たかうきぼり)」と呼ばれ、眞葛焼と聞いてまず最初に思い浮かぶのはこれらの作品。当時欧米では金粉などで彩られた「京薩摩」が人気を博したもののそれらは原価がかさむこともあり、欧米人の嗜好にあわせて花鳥風月を立体的に表現した精緻な細工を施した焼物が完成した。

後期の代表的な作品(明治15年ごろ〜)の技法は「釉下彩(ゆうかさい)」。顧客となる外国人富裕層が濃厚な趣味に飽きてきて淡泊清楚な趣味が求められるようになった頃に完成された技法。釉薬の下に彩色を施すこの技法は明治期になって確立された。この時期の香山は清朝の磁器の研究に没頭し窯変(ようへん)や桃花紅(とうかこう)の再現に成功する。そして釉下彩の技法に熱心に取り組み、これを完成させた陶芸家の一人となった。

参考「初代宮川香山 眞葛焼」(眞葛ミュージアム発行の図録)「開港150周年記念 横浜 歴史と文化」「南区の歴史」




眞葛ミュージアムを後にして、横浜駅方面と結ぶ歩道橋「スカイウェイ」へ。

ギャラリーロードの歩道沿いに点々と置かれている大きな石の車止めは、かつての「三菱ドック」(三菱重工横浜造船所、旧横浜船渠第2号ドック。明治29年竣工)の石。みなとみらい再開発によるドックの解体・復元の過程で不要となった由緒ある石材(伊豆産の新小松石)が石の造形作家・岡本敦生氏の提案により都市の記憶を刻むモニュメントとして再利用されている。
参考「横浜国際港都建設ヨコハマポートサイド地区第二種市街地再開発事業」(横浜市都市計画局発行)




ギャラリーロードでひときわ目を引くのはイタリア人産業デザイナーのエットレ・ソットサス(1917〜2007)が手掛けたモニュメント「THE FAMILY」。
設置のきっかけは向かいの第1街区再開発(横浜クリエーションスクエア)を手掛けた三井不動産・相鉄が地域の象徴となる何らかのモニュメントを寄付したいと再開発事業主体側へ出した提案。検討の結果モニュメント作成をソットサス氏に依頼することとなり、依頼を受けたソットサス氏が来日して地区を精力的に視察したうえで「家族」をテーマにした作品が提案された。
参考「横浜国際港都建設ヨコハマポートサイド地区第二種市街地再開発事業」(横浜市都市計画局発行)




プレートが埋められている。




大きな壁画の描かれたビルは元IDC(国際デジタル通信)、現在はソフトバンクの横浜国際通信センター。ポートサイド地区で最初の再開発ビルとなるこちらの建築もマイケル・グレイブスが手掛けた。




「ロア壱〜参番館」の建つ第2街区の向かい、第1街区に建つ業務ビル「横浜クリエーションスクエア(YSC)」(平成6・1994年竣工)。低層部正面にガラス張りの巨大なアトリウムを配している。




ポートサイド地区と横浜駅方面をつなぐ歩道橋「スカイウェイ」。




市街地の歩道橋としては珍しい、トラス構造の橋。




こんなところにもこの街のデザインに対するこだわりが感じられる。トラス橋の二本ほか計四本の橋はモニュメント「THE FAMILY」の作者、エットレ・ソットサスによるデザインアドバイス。
参考「横浜国際港都建設ヨコハマポートサイド地区第二種市街地再開発事業」(横浜市都市計画局発行)

きっと、視察に訪れたソットサスが新港埠頭に通じる貨物線の橋梁あたりをぶらりと訪れ、あれやこれやと尋ねた上で「この街なら、これだ!」と閃いたのだろう、と妄想してみる。




「ベイクォーター」館内を抜けていく。




「ベイクォーター」から帷子川分水路に架かる人道橋「ベイクォーターウォーク」へ。渡った先は横浜駅「きた東口」。
正面のビルは令和二年(2020)6月に竣工したばかりの「JR横浜タワー」。かつての西口駅ビル「CIAL(シァル)」「横浜東急ホテル」跡地に建てられた。


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