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大磯丘陵歩き


5.湘南平から高麗山、高来神社へ

4.万田滝坂公園から湘南平へはこちら。




湘南平(しょうなんだいら。181m)から高麗山(こまやま。168m)へ。




湘南平の見どころ案内マップ。




テレビ塔の脇を抜けてゆく。









それなりに起伏のある尾根。




尾根道を少しばかり進んだ先、道標から脇へちょっとそれると浅間山(せんげんやま。181m)。




テーブル、ベンチが置かれた山頂。




山頂には浅間社の石祠がある。




富士浅間信仰の盛んなりし江戸時代、富士浅間大社まで参詣できない人々のために各地に浅間社が祀られた。




浅間山は一等三角点の山でもある。




浅間山の先へ。









じごく沢分岐付近に立つ「高麗山県民の森」案内板。かつての御料地だった森が県に払い下げられ、県有林として整備、活用されている。
高麗山の森も先に歩いてきた鷹取山の森と同様に、湘南の山の特徴といえるタブノキやスダジイといった南方系の常緑広葉樹が残されている。

「高麗山公園」の呼称は湘南平と高麗山周辺を包括した、平塚と大磯にまたがる140ヘクタール余りの風致公園としての呼び名だが、利用者にとっては湘南平は湘南平、高麗山は高麗山として別々に呼ぶ方が馴染み深い。




じごく沢分岐。




八俵山(はっぴょうやま。146m)に到着。

案内板によると「八俵山・大堂・東天照の高麗山の三峰」のひとつで八俵は「仏教用語の八表(隅の意味)から転じたと考えられ」「古くは毘沙門堂がここに建てられていた」とある。

江戸時代後期の地誌「新編相模国風土記稿」巻之四十一 淘綾郡巻之三 二ノ宮庄 高麗寺村 高麗権現社の項には「毘沙門塔 本社の左峰ニアリ。三重塔ニシテ・・・三社ノ一トス。永禄中(1558〜1570)火災ノ後再建ナラズ」とある。戦国時代後期に建物が失われたまま今に至るようだ。


高麗山は記録によると室町時代の頃から城として利用されてきた。
案内板には永享の乱(1439)で幕府に反旗を翻した鎌倉公方・足利持氏に対して幕府側に与した関東管領上杉氏の軍勢が山に陣を構えた、とある。
戦国時代初頭には伊勢宗瑞(いせ そうずい。北条早雲)と関東管領上杉氏との間に相模・武蔵の支配をめぐって抗争が勃発(権現山の戦い。横浜市神奈川区)、高麗山も収奪が繰り広げられた。宗瑞が支配を確立してからは元から存在していた寺社の平場を曲輪(くるわ。城郭の区画)に転用し、城として整えられている。高麗山城は支城間の連絡のための狼煙台(のろしだい)としても利用されたようだ。
参考「神奈川中世城郭図鑑」




木橋が架かっている。この深い溝は城郭の時代に構築された堀切(ほりきり。進入路の尾根を分断する空堀)と考えられている。




岩の露出した尾根。




再び木橋。こちらも堀切となる。









平場の手前で山頂を巻いて進み、山頂(168m)下の平場に到着。この広い区画を「大堂」と称する。




平場の山頂寄りには、石積みの区画と石祠。

かつてこの平場には高来神社(たかくじんじゃ)上宮が建っていた。「新編相模」には「高麗権現社 高麗寺山ノ頂ニアリ。又左右ノ峰ニ白山毘沙門ヲ勧請ス。以上合テ高麗三社権現ト号スト云」とある。白山社は現在の東天照、毘沙門塔は八俵山にあった。

なお大堂の北東隣りの平場(ケヤキの広場。寺久保、寺窪)にはその地名からして高麗寺(こうらいじ)が建っていたと考えられているが、「新編相模」の記述によってもどのような堂が建っていたのか判然としない。




地名の由来を記した案内板。

高句麗から亡命してきた渡来人の高麗王若光(じゃっこう)は天智天皇五年(666)相模国唐ヶ原(大磯)に上陸。朝廷の命により武蔵国高麗郡を開発している。県内では伊勢原市日向あたりにも若光の伝承がある。




山麓の高来神社へ向けて下山開始。









途中の分岐は小走りでも下りやすい女坂を経由する。














高来神社(たかくじんじゃ。かつての下宮)に到着。




境内奥の小さな祠は「平嘉久社」。「新編相模」によると「祭る所庚申なり、是を地主神と云、高良明神疱瘡神等を相殿とす」とある。江戸時代に盛んだった庚申信仰に加え、病の治癒には信心が拠り所だった時代ゆえ疱瘡神(芋明神)も併せて祭られた。高良明神を併せて祭ったのは音読みが類似するからであろうか?(そんな訳ないか)。














向かって左手には高来神社の拝殿。

高来神社の創建は十一代垂仁天皇の御代(紀元前〜)といわれるが、古代の資料が中世の戦乱により焼失しており詳らかでない。
ただ高麗山については伊豆山権現及び日金山(ひがねさん)東光寺との関わりで非常に古い伝承がある。

走湯山縁起によると、応神天皇二年(271)、相模国唐浜(大磯)に光る鏡が出現。松葉(しょうよう)仙人がこの鏡を崇め高麗山に祠を建てたのが伊豆山権現の発祥となる。その後、仁徳天皇の御代に松葉仙人は神鏡を日金山に移し社殿を造立した。神鏡が日金山に飛来する様子が峰が火を噴き上げるような様であったことから「火が峰」転じて「日金」となったとされる。さらにその後、社は伊豆山神社本宮の地に移り推古天皇二年(594)に「走湯権現」の神号を賜った、とされる。これらの時代は日本書紀に見られる若光上陸の時代より古い。

高麗寺については案内板にあるように養老元年(717)行基がこの地を訪れ、海中から出現した千手観音を拝し本地仏(神仏習合における神々の本来の姿)として創建したのが始まりとされる。

神仏習合の江戸時代までは別当である鶏足山(けいそくざん)高麗寺が社務・寺務を管理。「新編相模」によれば現在の拝殿の場所に建っていた堂は「本地堂」とされ高麗権現の本地仏となる千手観音が安置されていた(観音堂)。観音像は前述のように海中から出現したという秘仏。この地にもまた、古来より各地に伝わる海からの神仏の伝説が息づいていた。
また江戸時代には幕府の手厚い保護を受け上野・東叡山寛永寺より東照大権現(家康の御霊)が勧請された。明治の世を迎えると、高麗寺は神仏分離・廃仏毀釈により廃寺となる。




右手には神輿殿。




「神話の世界の伝説が息づく」高麗山が背後にそびえる高来神社。




参道を国道一号へ。









参道の傍らに山門が建つ慶覚院。
大磯町公式サイトによると慶長18年(1613)に高麗寺の末寺として大磯町北下町に創建されたが明治23年(1890)南下町に大火があり現在地に移転した、とある。

高来神社境内案内板の絵図にも見られたように、この地は江戸時代以前は高麗寺地蔵堂が建っていたところ。鎌倉時代の「高麗寺二十四坊」の名残りであり、「新編相模」によると虎御前の持念仏たる延命地蔵が安置され虎御前の位牌が置かれた。

高麗寺には鎌倉時代初頭の「曽我の仇討」で知られる曽我十郎祐成(そが じゅうろう すけなり)の寵愛を受けた虎御前にまつわる伝承がある。仇討ちに成功したものの討死した祐成を嘆き悲しんで出家した虎御前は、全国を行脚したのち晩年に高麗寺に草庵を結び籠って兄弟の菩提を弔った、とされる。江戸時代に庶民の間で盛んとなった物見遊山「七湯めぐり」では、箱根芦之湯(元箱根石仏石塔群)に建つ曽我兄弟と虎御前の巨大な供養塔に多くの見物客が訪れた。









こちらは平塚宿の上方見附付近から見た高麗山。
平塚宿から大磯宿までは僅か二十七町(およそ3km)という、一里(およそ4km)にも満たない距離だった。




東海道五十三次之内 平塚 繩手道(保永堂版)初代広重画
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

宿場の鼻に立てられる傍示杭(ぼうじぐい)が描かれており、平塚宿の西はずれから高麗山を眺めている。





国道一号・旧東海道を大磯駅へ向かう。




化粧坂(けわいざか)信号で旧道へ。




「化粧井戸」の案内板。虎御前が化粧に利用したという伝承が残る。




化粧坂一里塚跡。




化粧坂の緩い坂を進んでゆく。日もだいぶ傾いてきた。




東海道五十三次之内 大磯 虎ケ雨(保永堂版)初代広重画
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

広重が保永堂版・大磯の題材として選んだのは、虎御前に所縁のあるテーマだった。




東海道線をアンダーパスでくぐる。




旧道に残る松並木。




大磯宿「江戸見附」の案内板。これより旧宿場町。




浮世絵さながらの立派な松もまだまだ残っている。




再び国道一号に合流。旧宿場町の中心地はこの先、国道一号と134号の交差点の向こう側。問屋場、高札場、本陣などの跡をたどることができる。




国道一号・134号の交差点で右折し、大磯駅入口の坂を登っていく。




午後三時、JR大磯駅に到着。


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