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元町・山手、ノスタルジーの残像


4.山手公園から元町公園、元町へ

3.西之橋から元町仲通り、高田坂、セントジョセフ跡からビヤザケ通り、妙香寺、桜道橋へはこちら。




桜道橋と山手トンネル。下の道路は本牧から元町方面への車線。




桜道橋から山手公園へ向かう。




元町から本牧方面への車線。この真下に第二山手トンネル(旧本牧トンネル)の口が開いている。先に見たとおり、この道は市電が通っていた時代は軌道専用だった。




山手公園のふもとから階段状の公園坂を登っていく。



















ひな段状の園地。




テニスクラブのあたりまで登って来た。




「日本庭球発祥之地」の碑。

山手公園は幕末の外国人遊歩道計画に連動する園地という形で構想が進められた。その結果、居留地の外国人が日本政府から借地して自ら公園造成の費用を調達することで明治三年(1870)に開園した。しかし日本政府への地代の支払や維持管理費調達の目途がたたず、公園の有料化も運営委員会の賛同を得られなかったことで公園運営は頓挫する。

結局、イギリス公使と日本政府の交渉の末に土地をヨコハマ・レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブに貸与し地代を納めさせ、テニスコートを設けさせるとともに公園全体を管理させることで落ち着いた(明治11・1878)。こうして山手公園は日本におけるテニス発祥の地となった。

参考「ヨコハマ公園物語」




向かいには古そうなブラフ積(ブラフづみ)。




テニスクラブの正門。テニス発祥地のきっかけとなったテニスクラブは「(社)横浜インターナショナルテニスコミュニティ」として現在に続いている。




クラブのテニスコート。伝統のクレーコートが維持されている。長年にわたって「重いコンダラ(笑)」で整地されてきたのだな。




テニスコート越しに見る「山手三塔」の一つ、横浜雙葉学園の鐘塔。

カトリック山手教会、山手聖公会とともに「山手三塔」と呼ばれる雙葉学園の小尖塔だが、実は雙葉には小尖塔が二つある。
一つは空襲で被災した昭和初期の塔を戦後の校舎再建時に修復した東側棟の鐘塔(山手三塔)。そしてもう一つはその鐘塔を模して造られた新館の塔。そちらはここからさらに右手に見える。

参考「都市の記憶 横浜の近代建築(U)」




「横浜山手・テニス発祥記念館」前のヒマラヤ杉。

明治12年(1879)ごろに居留地のイギリス人が種を輸入、山手一帯にまいたのが日本におけるヒマラヤ杉の始まりといわれる。




成長した木々は大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の大空襲で被災するが、焼け残った九本のヒマラヤ杉が無事に成長を続け、現在は巨木となっている。




記念館は正面にベランダを設えており、震災前に見られた古き良き時代の山手洋館をイメージした造りとなっている。




20周年記念バナー。




旧山手68番館。震災後の大正末期〜昭和初期に建てられた洋館の一つが移築され公園管理事務所となっている。




山手公園120周年記念碑。




開園直後の山手公園。公園の敷地は、元は妙香寺の境内地であった。

開園直後の山手公園ではイギリス軍楽隊指揮者・フェントン少尉の猛特訓を受けた薩摩軍楽隊がお披露目の演奏を行っている。




案内板。

明治11年(1878)に来日、横浜に上陸したイギリスの女流旅行作家イザベラ・バードはその著書「日本奥地紀行」で第一印象を次のように記している。
承知のように横浜(開港場)は安政の開港にあわせて幕府が急ごしらえで造成した商業地が出発点となっている。バードは上陸した横浜の街を「どう見ても立派とは言えない。これほど雑然とした都市は他に例がない」と評し「日本人街はグレーの家とグレー一色の屋根が広々した平地一面に広がって」「みすぼらしく美的価値に乏し」いと書き残した。開港から20年近く経過し街は活気に溢れていたであろうが、当時の西洋人、とりわけ女性の目に映る商家の印象は、まあこんなものであろう。ごく一般的な西洋人に日本的な美意識、派手な装飾を排した簡素さの中に見出す寂びを喜んでもらえるようになるのは、少なくとも平成以降のことだ。

他方、山手については絶賛している。バードは「山手はとても美しい。ニューイングランドと同じ美しさがある。すべてのものが小ぎれいで、小ざっぱりとしている。急な坂道を伴ってうまく地取りされ、その両側には平屋の瀟洒な家が、密植された低木と生垣や躑躅・薔薇などの背丈の低い花木で半分隠れたようになって並んでいる。花木が真っ盛りなので、品のよい庭は華やいでいる。また丘の傾斜がたいへんきついので、海側も陸側も眺めがよく、朝と夕方にちらりと見える富士山は実に荘厳である。眼下には日本人の街が展開し、見たこともないものにあふれている」と書き残した。これも、西洋人のセンスで開かれた街だから当然だろう。

大正期に来日したアメリカ人女性は、丘の上にイギリス風の芝生が広がり三段階の丘のテニスコートで満開のツツジのピンクの垂れ幕に囲まれてテニスを楽しむ様子を書き残した。そんな山手公園を外国人は「ブラフガーデン」、日本人は「山手の花座敷」と呼んだ。

テニスクラブへの土地全体の貸与期間が終了した大正14年(1925)以降は一部が市の公園となり、テニスクラブと公園が共存する現在の形となった。こうして山手公園は開園後半世紀以上を経て、公園部分を日本人も利用できるようになった。

参考「ヨコハマ公園物語」「横浜の公園史稿」「日本奥地紀行」




市営のテニスコート。こちらは一般に普及している、管理の楽な砂入り人工芝のコート。




開園当時のそれをイメージしたようなガゼボ(洋風あずまや)。




小広く開けた芝生。




テニス発祥碑まで戻り、クラブのコートを右手に見ながら公園坂の続きへ。




横浜雙葉の尖塔が見える。こちらは新館の塔。




元街小学校の校門前を通り、公園坂を下っていく。









新館の塔ははっきりと見えるが、やや奥まった古い方の塔は尖塔の先端だけがちょこっと見える。どの辺りかわかりますか?




下りきったところを左折、代官坂上へ向かって登り返す。このあたりは昭和初期の地図には「箕輪坂」と書かれていた。




分岐を道なりに左に進むと汐汲坂の上。昭和初期の地図にはここから汐汲坂と書かれていた。

代官坂上へは右手を行く。




代官坂トンネル。昭和七年(1932)竣工のトンネルは車線が一車線しかない、交互通行の小さなトンネル。先にも見たように昭和初期のバス路線図には、ここを路線バスが通っていたものがある。




トンネル脇の狭い坂を上っていく。




代官坂上で山手本通りと交差。右折して元町公園へ。




元町公園前の自働電話(電話ボックス)。




向かいには山手聖公会。




公園案内図(赤文字加工はサイト管理者)。 拡大版

元町公園は昭和5年(1930)の開園。関東大震災(大正12・1923)からの復興期に、ジェラールの「水屋敷」跡に造られた。




園路を下っていく。




元町公園弓道場。開園後間もない昭和6年(1931)に造られた。




どんどん下る。




元町公園プール。公園の開園に際し市内の各青年団からプール建設の要請があり、青年団の資金拠出により造られた。




プール管理事務所あたりに下りてきた。




元町公園プール管理事務所はジェラールの工場建築を再現したようなデザイン。事務所前にはジェラールの水屋敷(上部貯水槽)、ジェラール瓦(フランス瓦)に関する解説板がある。

幕末開港期に来日したフランス人のアルフレッド・ジェラールは明治の初頭に洋瓦(フランス瓦)や煉瓦の製造、船舶への給水事業を手掛けた。このうち給水会社は事業として軌道に乗り、かなりの長期にわたり営まれた。




上部貯水槽の解説板。

煉瓦製の地下式貯水タンク。天井はヴォールト天井(カマボコ形天井)、アーチ部分以外の壁はフランス積(フランスづみ。レンガの長手(ながて。長辺)と小口(こぐち。短辺)を交互に積む積み方)で造られている。




ジェラール瓦(西洋瓦)の解説板。

ジェラールの瓦は平板なフランス瓦。フランス瓦は山手ではブラフ18番館、山手資料館などで見られる。
ちなみに解説板にあるスペイン瓦はスパニッシュ様式の建築によく見られる反った瓦(短く切った焼き八つ橋みたいな形)。山手では111番館(旧ラフィン邸)などで見られる。




こうした元町公園の由緒に鑑みてか、公園プール管理事務所のレンガ壁はフランス積、屋根にはフランス瓦が葺かれている。解説板によるとフランス瓦の一部にはジェラール瓦のオリジナルが用いられているという。




せせらぎ広場を見下ろす。




そこに昔建っていた、ジェラールの工場。




せせらぎ広場。




湧水が流れをつくる。




せせらぎ広場には上部地下貯水槽と下部地下貯水槽とを結ぶ中間枡が通っていた。




今では瀟洒な公園となった、ジェラール水屋敷。




公園を出ると水屋敷通り。すぐ右手に下部地下貯水槽がある。




ジェラール地下貯水槽(下部貯水槽)。貯水槽が見学できるようになっている。

給水会社が船舶に提供した水は山手の湧水。先に見た北方天沼の水に醸造技師が目を付けてビール工場が造られたように、当時の山手の谷戸に湧く水は良質な冷たい水で「赤道を越えても腐らない」と評されるようになった。

とはいえ、爆発的な勢いで巨大化していく横浜の市街地に住むようになる数十万人の飲み水を、旧市街地周辺の谷戸の湧水だけで賄い切れよう筈がない。そこで明治の中期、丹沢水系から数十キロに及ぶ導水管で野毛山浄水場に水を引いてくる巨大プロジェクトが始まることになる。




解説板。




こちらのレンガ壁は下部が一般的な長手積(ながてづみ)、上部がイギリス積(長手を並べた段と小口(こぐち)を並べた段を交互に積む)で造られている。




季節は晩夏から初秋へ。




おぉ、ニャンコが山手の湧水を飲んでいる。




下部貯水槽脇の、山手の湧水。




今ではニャンコには飲めてもヒトは飲まない方が良いらしい。




元町通りから水屋敷通りを振り返り見る。




元町通りの各所に設けられている脇道へのゲートにはそれぞれの通りの名前が記されている。




元町一丁目、元町プラザ方面。

元町プラザは、元は増徳院(震災後南区平楽に移転)の境内地で、本堂の他に弁天堂(現在の元町厳島神社)、薬師堂などが建っていた。




大正初期の元町、増徳院・元町薬師。和風建築の商店には英文の看板が掛かる。
画像出典「横浜中区史」

幕末の開港以来、居留地の外国人を相手にして日本人にとっては目新しい様々な商売が次々と誕生した元町。
そんな元町で明治の中期ごろには最盛期を迎えた「元町薬師の縁日」は「横浜の三大縁日」と呼ばれた縁日のひとつだった(他は野毛不動、岡村天神)。
日本人はもちろん居留地の外国人家族も浴衣姿で大勢繰り出してきてそれは大変な賑いで、その国際色豊かな縁日のうっとりするような情景はまさしく横浜ならではのものだった、という。それもまた、古き良き時代のロマンティックな憧憬。


ラストは元町通りをぶらぶらと歩いてJR石川町駅へ。




北部ヨーロッパに見られる建築様式であるハーフティンバー(構造材の柱や梁を露出させる様式)風の外壁にドーマーウィンドウ(屋根窓)が印象的な店舗は紳士服の「ポピー」。




百段通りと交差する角に建つのは石造風の外壁とカリヨン(からくり時計)が目を引く宝飾店「CHARMY(旧チャーミーたなか)」。




洋食器の「タカラダ(宝田)」はヴィクトリアン様式として人気を博したベイウィンドウ(張り出し窓)を取り入れたデザイン。




こちらもハーフティンバー風の「ヤマト宝飾」。




戦後の豊かになりつつあった時代に誕生した、輸入食品スーパーの草分けにして高級スーパーの先駆け「もとまちユニオン」。




恒例のチャーミングセールも終盤を迎えた元町。




JR根岸線・石川町駅、北行ホームの南端。山手を貫くトンネルを見る。




丘の上の塔屋は「イタリア山庭園」に建つ「外交官の家」。


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