まちへ、森へ。

異文化との邂逅、浦賀・久里浜

4.西浦賀から吉井・眞福寺、怒田城址、久里浜へ

 

3.浦賀奉行所跡、川間ドック、燈明崎・燈明堂はこちら。

 

 

燈明崎から西浦賀に戻ってきた。対岸には東叶神社(ひがし かのうじんじゃ)と浦賀城址(明神山)。

 

 

 

浦賀港に停泊する砂利運搬専用船(ガット船)。

 

 

 

愛宕山公園あたりまで戻り、西渡船場近くの信号を左折して吉井・久里浜方面へ。途中のどこかで右手に入って東福寺門前の通りに出る。

 

 

 

坂を上り、高坂小学校前を通過。

 

 

 

奥へと進んでいく。

 

 

 

御林へ。

 

 

 

江戸時代にはこの一帯は浦賀奉行所が管理した幕府の御用林だった。

 

 

 

このあたりの切通しは古道の雰囲気に満ちている。

 

 

 

往時の浦賀道(うらがみち)は東海道保土ヶ谷宿から六浦、大津辺りを経て浦賀とを結んだ。戸塚宿・藤沢宿からは鎌倉、葉山を経て大津で合流した。

 

当時の浦賀道はきっとこのような感じであったのだろう。

 

 

 

左手に庚申塔が三基。

 

 

 

庚申塔(こうしんとう)。青面金剛(しょうめんこんごう。夜叉神)の仏像や三猿ではなく文字で「青面金剛」と刻まれている。

 

 

 

 

 

 

 

浄土宗吉井山眞福寺(しんぷくじ)。

 

 

 

開山は享禄元年(1528)。本堂には天明元年(1781)の棟札が確認されている。
参考「神奈川県近世社寺建築調査報告書」

 

 

 

縦格子(たてごうし)の鎧戸(よろいど)で囲われた本堂。

 

 

 

案内板。
江戸時代の初頭、家康の外交顧問となったイギリス人三浦按針(みうらあんじん。ウィリアム・アダムズ)は来航したスペイン船の宣教師らを浦賀の按針屋敷に滞在させていた。「マリア観音」は、そうしたカトリックの宣教師たちの布教活動の一端を今に伝えているのだろうか。

 

他方、この案内には欄間彫刻を「波の伊八」と呼ばれた安房(あわ。現千葉県)の彫師・武志伊八郎(たけし いはちろう)が手掛けた、とある。眞福寺の彫刻欄間にも浪形が彫られているそうだが、伊八郎の浪形はかの北斎が「神奈川沖浪裏」の着想を得たともいわれ、房総の各地にその作品が残されている。
また、本堂の天井にはその北斎あるいは弟子の作と云われる天井絵が残っているという。

 

いずれも拝見したかったのだが、じっくりお話を頂く時間がない以上声掛けはせずに失礼する。

 

 

 

眞福寺を後にして、怒田城址(ぬたじょうし。吉井貝塚)へ。

 

 

 

前方に見える小山が怒田城址。

 

 

 

怒田城址(吉井貝塚)。

 

 

 

平作川(ひらさくがわ)流域は太古の頃には古久里浜湾の入江が奥深くまで入り込んでおり、平安末期頃も海岸線はすぐそばに迫っていた。

 

 

 

上へ上る。

 

 

 

怒田城址(ぬたじょうし。奴田城、沼田城、吉井山城)。ここは平安〜鎌倉期、「海の武士団」三浦氏の拠点であった。

 

 

 

案内図。貝塚、竪穴式住居跡のほか、怒田城の空堀跡が図に示されている。

 

 

 

右手が空堀(からぼり)跡。その奥は一段高い曲輪(くるわ。城の一区画となる平場)となっている。

 

 

 

曲輪に沿った空堀は埋め戻されて標識が立てられている。

 

 

 

怒田城の解説板。 拡大版

 

発掘調査により、空堀が構築された際に貝殻が抜かれて泥岩で固められ補強されたことが判明している。

 

 

 

一段高い曲輪は、広々としている。

 

平安末期に源頼朝が打倒平家の旗揚げをして以降、関東各地で頼朝方の武士と平家方の武士との間で合戦が頻発した。三浦氏は代々源氏に付き従っており、頼朝に加勢した。

 

石橋山の合戦、小坪合戦(由比合戦)からの続きとなる「衣笠城(きぬがさじょう。横須賀市)の合戦」では、合戦に先立ち三浦氏の一族である和田義盛(わだよしもり)が「衣笠城ではなく崖と海に囲まれ守りに優れた怒田城で河越重頼(かわごえしげより)らの軍勢を迎え撃つべし」と主張したとされる。
河越重頼は武蔵を拠点とした秩父平氏の一族。畠山重忠(はたけやましげただ)に呼応し、江戸重長(えどしげなが)らとともに数千騎の軍勢で三浦に押し寄せてきた。後に頼朝の重臣となる重忠はこの頃はまだ平家方に付いている。それは父畠山重能(しげよし)が平家に奉公して在京のため止むを得ないことであった。
劣勢は否めず討死を覚悟した三浦一族は結局、長老の三浦義明(みうらよしあき)の意見に従って「世に聞こえた由緒ある衣笠城で迎え撃つ」となった。三浦氏の本拠である衣笠城には経塚が築かれており、三浦氏にとっては神仏を祀る聖地という意味があった。

 

 

 

京急の線路、横須賀ドライビングスクールのあたりを見下ろす。
怒田城の城下辺りは、地名を「舟倉」という。三浦氏水軍の拠点であった怒田城の城下には古久里浜湾の入江につながる舟倉があったとされる。

 

衣笠城の合戦では長老の義明が嫡男義澄らを逃がして自らは討ち死にした。敗れた三浦一族は怒田城まで退き舟倉から脱出。安房(あわ。現千葉県)へと渡り、石橋山合戦に敗れて真鶴(まなづる)から安房へと逃れてきた源頼朝とともに再起を図ることとなる。

 

参考「新横須賀市史 通史編 自然・原始・古代・中世」「鎌倉歴史散歩(奥富敬之著)」「三浦一族と相模武士(神奈川新聞横須賀総局編)」「相模三浦一族とその周辺史(鈴木かほる著)」

 

戦国時代には怒田城が小田原北条氏の城として利用された記録はない。それは三浦氏嫡流が執権北条氏に滅ぼされた宝治合戦(1247)ののち廃城となった衣笠城と同様。

 

 

 

縄文時代の古久里浜湾はJR衣笠駅あたりまで入り込んでいたと考えられている。平安末期のころまで時代が下っても海岸線は城下近くまで迫っていた。

 

 

 

怒田城址を後にして、久里浜へ。来た道を戻り、最初の角を左折。

 

 

 

踏切を渡る。

 

 

 

線路沿いに、先へ。

 

 

 

左手から入ってくる道の向こうには京急のガード。

 

 

 

次のガード下をくぐる。

 

 

 

くぐったらすぐ、平作川(ひらさくがわ)から分岐した水路沿いを進む。

 

 

 

水路が平作川に合流するあたり。平作川は大楠山(おおぐすやま・三浦半島最高峰。241m)に源を発する三浦半島最大の川。

 

 

 

夫婦橋(めおとばし)。

 

 

 

橋を渡り、川沿いに河口へ向かう。

 

 

 

夫婦橋の上から上流側。釣り船(船宿)が係留されている。

 

 

 

久里浜街道(くりはまかいどう)。

 

 

 

開国橋。

 

 

 

奥に見えるのは東京電力横須賀火力発電所。

 

 

 

久里浜(くりはま)。

 

 

 

 

 

 

 

左奥に見える赤いゲートのあたりが東京湾フェリー(久里浜〜金谷)のフェリーターミナル。

 

 

 

 

 

 

 

午後4時過ぎ、ペリー公園に到着。

 

 

 

ペリー上陸の碑が建つ。碑文は伊藤博文の筆による。その奥にはペリー記念館。

 

 

 

背面には英文。

 

 

 

「ペリー久里浜上陸図」。

 

幕末の嘉永六年(1853)、日本に開国を迫るため蒸気船サスケハナ(Susquehanna)を旗艦とする4隻の黒船で浦賀に来航した、マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊。
対応に当たった浦賀奉行所役人からの報告を受けて幕府は最終的に米国大統領親書を受け取らざるを得なくなり、その受け取り場所に久里浜の地を指定した。ペリー側は江戸から遠いと難色を示したが奉行所役人が説得。こうしてペリー一行が久里浜に上陸した。

ペリー一行の隊列を目の当たりにした幕府側役人は、その整然とした行進が調練の行き届いた美しいものであったことに衝撃を受け「奇妙驚き入り候」「調練よく整いその美なること言語に述べ難し」「法則よく整い居り候こと口舌におよび難し」といった感想を残している。
反面幕府方の調練が行き届いておらずペリー一行が指を指して「嘲弄」していたことを「無念いはん方なし」、奉行所の警衛は「虚飾にて実用の儀これ無し」と悔しがっている。ペリー側の遠征記にも「日本軍の秩序はだらしがないので、たいして立派に訓練されているものとは思われなかった」という感想を残されてしまった。

その翌年となる嘉永七年(1854)、最終的に9隻となる大艦隊で再び浦賀に来航したペリーは江戸ないし品川、川崎への上陸を主張。浦賀、久里浜への上陸を主張した幕府側との交渉の結果、一行は神奈川宿近隣の横浜(開港資料館の建つあたり)に上陸することになった。その後幕府側全権の大学頭(だいがくのかみ。学問所長官)と交渉が重ねられ、横浜の応接所にて日米和親条約(神奈川条約)が締結された。

 

参考「新横須賀市史 通史編 近世」

 

 

 

ペリー記念館内の黒船来航ジオラマ。見学時間は16時30分までであり、ぎりぎり間に合った。

 

浦賀に来航した4隻の黒船。その来航は決して突然のことではなく、実のところ幕閣は事前に把握していた。
奉行所与力の香山栄左衛門はペリー側との最初の交渉で「浦賀に来ることは昨年中に幕府に伝えてある。長崎には行かない」と聞かされた。そんな話は聞いていない、ということで香山は浦賀詰め浦賀奉行・戸田氏栄の命を受けて江戸詰め浦賀奉行・井戸弘道に面会に行ったところ、返ってきた返答は「幕閣は知っていた。戸田に伝わっていればペリーとの行き違いもなかったのに嘆息の至りだ」。香山は唖然とし「じつに浅ましきこと」と悔し涙を流した、という。

 

それまでにもロシアやイギリス、アメリカなどの外国船は度々蝦夷や長崎、琉球など日本近海に出没し捕鯨船の寄港や通商を求めてきていた。そうした要求を幕府は拒絶しつつ、諸藩に命じて三浦や房総の沿岸各地に幾つもの台場(砲台)を築造するなど海防体制を構築していた。

 

湾がぐっと狭まった観音崎と富津岬(ふっつみさき。千葉県)とを結ぶ線は「打沈め線」として湾内に侵入しようとする異国船に砲撃を加えて打ち沈める手筈となっていた。殊に富津岬側は遠浅の海で大型船は航行できないため、三浦半島側にはより多くの砲台が築かれた。
天保八年(1837)には漂流民送還の名目で通商を求めに浦賀に現れたアメリカ商船モリソン号に対して砲撃が加えられている(浦賀における最初で最後の砲撃)。

 

弘化三年(1846)にはアメリカ東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビッドルが2隻の軍艦(帆船)で浦賀に来航。戦闘能力の極めて高い艦隊が下田沖を通過しているという重大な事態の知らせに対して幕府は警備担当藩の川越・忍(おし)両藩の藩主に前線指揮を命じている。異国船来航に対して藩主が出陣するのは江戸時代初期に長崎にポルトガル船が来航して以来実に200年ぶりのこととなった。ただ、このときのビッドルの任務は日本側の開国の意思を確認し通商の可能性を探ることであったので、ビッドル側は番船に囲まれても温和な対応に終始した。

 

 

 

番所跡の案内板より。

 

ビッドル来航後、弘化四年(1847)より江戸湾の海防体制は河越藩、忍藩に加えて彦根藩、会津藩の四藩駐屯体制に改編された。「打沈め」も原則として行わず、可能な限り穏当な対応を取ることになっていた。

 

 

このように異国船は見慣れているはずの人々にとっても、帆船ではなく煙突から黒煙を吐きながら湾内を自力航行していく巨大な蒸気船(4隻のうち2隻)を見るのは初めてのことだった。

 

このとき、諸藩の江戸詰め武士のみならず名主といった富裕層の庶民も黒船について日記などにより多くの記録を残している。

相州高座郡柳島村(現神奈川県茅ケ崎市)の名主であった藤間柳庵は藤沢から西浦賀へ出向き、望遠鏡で艦隊の様子を一覧。廻船問屋を営んでいた柳庵が残した「太平年表録」には「このうち二艘は小船にして、左右へ窓をあけ、鉄砲の筒先のうち二艘は大船にして黒船なり、鉄砲の窓と翼車の内一帯船上屋形のごとく、火の見様の類ことごとく白し、たとえば雪中城郭を眺むにひとし、蒸気船と唱ふ」と記されている。また蒸気船について「この船進まんと欲するときは、石炭を焚きて、左右の翼車をめぐらす、その疾き事、一時に二十里を走するという、煙り黒雲のごとし」と記している。
一方、武州橘樹郡長尾村(現川崎市多摩区)の富裕な商家の当主であった鈴木藤助はその日記のなかで、木場(現東京都江東区)にて唐舟来航の話を聞いたとか池尻(現東京都世田谷区)で会った者から「唐舟が浦賀に来航したため彦根藩(海防のため三浦半島の藩領に人員が駐屯していた)に人夫や人馬を差配した」といった情報を記している。ペリー来航からひと月あまりの頃には巷にあふれた様々な狂歌の落書(らくしょ)を写し残した。

 

参考「新横須賀市史 通史編 近代」

 

 

 

ペリー艦隊の旗艦、蒸気船「サスケハナ」。

 

 

「サラトガ」。こちらは帆船。

 

画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション「幕末、明治、大正回顧八十年史第1輯(しゅう)」(東洋文化協会編)

 

 

来航したペリー艦隊に対して香山は「内海(江戸湾)への侵入は日本の国法に反するので浦賀沖まで戻るように」と申し入れた。にもかかわらず蒸気船は黒煙を吐きながら風向きなどお構いなしに自在に航行、再三にわたり江戸湾の奥深くに侵入して航行可能な水深であるかを測量するなどやりたい様に振る舞った。停泊中には数十発の空砲を撃っている。轟く砲声に普通であれば恐怖でパニックにもなりかねない。

 

そんな歴史的大事件を目の当たりにして詠まれた数々の狂歌のうち、最も有名なものといえばこれであろう。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」
これは、「上喜撰(高級なお茶)をたったの四杯飲んだだけで頭が冴えてしまい寝ようにも寝付けない」と「泰平の世の中に突如現れた、たった四杯(四隻の意)の蒸気船のことが心配で夜も眠れない」とをかけている。

 

※ちょうどこの記事を書いていた頃、世界では「イスラム国」戦士によるおぞましい振る舞いがニュースとなっていた。そんなとき日本人がニュース画像をコラージュ、世界中に拡散。欧米の伝統的なメディアもが「ユーモアにあふれた素晴らしい抵抗だ」と論じていたことを記憶している。

 

昔も今も、日本には即興で世相を斬るセンスのある人たちが確かにいた。「日本人は従順でおとなしく、ユーモアのセンスがない」などというステレオタイプな論評は物事の上澄みしか見ていないから言えること。日本人にとっては当たり前だが、節度と創造性は両立するものだ。

 

 

 

ペリー公園前に広がる久里浜。京急久里浜駅までは公園前のバス停から路線バスで戻る。今回は3万歩弱、18q。コンパクトな様でいてボリュームのあるまち歩きとなった。

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