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高尾へ、その奥へ


3.甲州街道・県下唯一の本陣から弁天島、相模ダムへ

2.高尾山から小仏城山、小仏峠を経て甲州街道古道へはこちら。




国道20号(甲州街道)底沢バス停。




本陣へ向かう。




小原宿の案内所を兼ねる、小原の郷。




小原宿(おばらじゅく)は甲州街道で江戸から数えて九番目の宿場。

この宿場は「継立」(つぎたて。街道をゆく人や荷物を、人足や馬で次の宿場まで送り届ける)を江戸方面からやってきた旅人のみが利用できる「片継ぎ」の宿場だった。江戸方面から難所の小仏峠を越えてきた旅人はここで投宿し、継立は次の与瀬宿を飛ばして吉野宿(よしのしゅく。藤野の手前)まで頼むことが出来た。

なお上方方面から江戸方面への継立は、僅か19町(1里=36町=およそ4q)しか離れていない西隣の与瀬宿(よせしゅく)が行った。そちらは小原宿を飛ばして峠を越え、小仏宿まで継立がなされた。

上方へ向かう場合は小仏宿から小原宿まで1里22町、小原宿から吉野宿まで1里17町28間。江戸へ向かう場合は吉野宿から与瀬宿まで34町28間、与瀬宿から小仏宿まで2里5町(1町=60間。1間=6尺=およそ1.8m)。いうなれば小原・与瀬の両宿は上下線分離のサービスエリアであった。与瀬宿の負担が一番重いのは、与瀬がこの中では一番大きな集落だったからであろう。

参考「日本交通史料集成 第三輯(五駅便覧)」国立国会図書館デジタルコレクション。

甲州街道は下諏訪で中山道(なかせんどう)と合流する。江戸と下諏訪の間、中山道の碓氷峠、和田峠の峠越えも厳しいが甲州街道は小仏峠、笹子峠の峠越えに加えて桂川(相模川)、笹子川の蛇行した深い渓谷沿いの道が延々と続く難路だった。そうしたなか、どちらかといえば旅人は宿場がよく整えられた中山道を利用する傾向にあった。
とはいえ、甲州街道は富士浅間信仰(ふじせんげんしんこう)の富士講や身延山久遠寺(みのぶさん くおんじ)の身延講の参拝者によく利用されたという。




さらに先へと進むと、小原宿本陣。




立派な門構(もんがまえ)。旅籠(はたご)には造ることが許されなかった、本陣ならではの構え。脇には高札(こうさつ)が再現されている。




本陣の建物は、江戸時代後期のものが現存する。

神奈川県下を通る東海道には川崎神奈川保土ヶ谷戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原箱根の九宿があった。甲州街道には小原、与瀬、吉野、関野の四宿があった。それぞれの宿場に一軒から数軒の本陣があったが、現存する本陣の建物は県下ではここのみ。現在では非常に貴重な建物となっている。

小原宿本陣の当主は地域の名主・宿場の問屋(といや)を務めた清水家。本陣の維持はたいへん費用が掛かるため商家であれ農家であれ宿場の有力者でなければ務まらない。清水家は戦国時代には北条氏の家臣であった。

甲州街道を通る大名行列は多くはなく、この本陣を利用した大名は信州の高島藩(諏訪藩)、高遠藩、飯田藩。他に幕府直轄であった甲府勤番の役人などが利用した。




屋根は入母屋造(いりもやづくり)の端を切り落とした、カブト屋根。茅葺は保護のため銅板やトタンなどで覆われている。

カブト屋根は入母屋屋根の三角の妻壁(つまかべ)の下(寄棟部分)を切り落とすことで台形の開口部を設け、屋根裏の蚕部屋の通風・採光を確保した、養蚕農家の造り。多摩地方など関東南部ではよく見られる。




土間(どま)から見る、広間。正面の玄関よりこちら側は家人の生活空間。広間は普段なら村の有力者の会合などに使われたのだろう。畳を入れるのは大名行列を迎えた時で普段は板敷、ということだったのだろうか。




広間の天井は天井板が張られず、構造材の根太(ねだ)をそのまま見せた根太天井(ねだてんじょう)になっている。




広間を飾る、雛人形の段飾りに吊るし雛。




広間から前庭を眺める。右手が玄関。




玄関の外回り。ふっくらとした切妻破風(きりづま はふ)が架けられている。鬼瓦には「本陣」の文字が見られ、巴瓦(ともえがわら)には清水家の家紋となる「丸に井桁(いげた)」が見られる。




竿縁天井(さおぶちてんじょう)の天井板が張られている。




玄関の式台(しきだい。階段のような段差)。

玄関は本陣に宿泊する大名や幕府上級役人、公家や門跡(高僧)など身分の高い者の専用であり、家人は利用しない。
玄関の間はかなり広くとられている。




大名が用いた駕籠が復元されている。清水家の家紋のところには各大名家の家紋が入る。




玄関から向こうは客人の空間。手前は「控の間(ひかえのま)」。襖で仕切られた向こうに「中の間」「上段の間」と続いていく、三つ間続き。




三つ間続きとなるこちら側の天井は生活空間よりも格式が上がり、竿縁天井(さおぶちてんじょう)が張られている。




広縁となる「入側(いりがわ)」。板敷ではなく畳廊下になっている。




入側から眺める中庭。築山が築かれ池が掘られている。




大名など身分の高い客が泊まる「上段の間」。幅が二間(にけん)の大きな床(とこ)は、畳床(たたみどこ)。棚板が張り出す形の付書院(つけしょいん)が設けられている、本格的な書院造。

賓客が泊まる「奥座敷」ゆえ「上段の間」と呼びならわされるが、この上段の間は床(ゆか)に框(かまち)の厚みはなく、三つ間が同じ高さの平面になっている。三溪園(横浜本牧)の臨春閣(旧紀州徳川家巌出御殿)、旧矢箆原家住宅(飛騨の豪農の合掌造)の座敷を参照。




天井が高い。鴨居の上、欄間(らんま)がはめられる部分も丈がある。もとはどんな欄間がはめられていたのだろう。




付書院の書院障子(しょいんしょうじ)には柔らかな曲線を描く組子(くみこ)が見られる。書院欄間の透かし彫りには清水家の家紋があしらわれている。




付書院の裏側。入側の奥、突き当りの左側が厠(かわや)。




厠も畳敷。ここは大名など上段の間の客専用。




裏方は板張りの縁側。




「奥座敷」の側から火鉢のある「茶の間」、「広間」を見る。




「勝手」。
板張りの空間だが、囲炉裏(いろり)の周りは框(かまち)のような厚みがある畳敷きになっている。名主の屋敷としてはちょっと贅沢な造り。上段の間には框の厚みがないのだから、こちらは明治以降のリフォームだろうか。




勝手の裏側の竈(かまど)はタイルが張られている。大正から昭和初期くらいにリフォームされ、その頃からしばらくはまだここで生活が営まれていたのだろう。




茶の間に隣接する、玄関奥の「納戸(なんど。収納部屋)」。




急な階段を上り、屋根裏へ。




黒々と煤けた太い梁が見られる、屋根裏部屋。




かつて蚕部屋だったこの空間は、古い農機具などが展示されている。




頭上は煤けた茅葺の屋根裏をのぞかせる。茅葺は囲炉裏の火で燻し続けなければ雨風で傷みが早まってしまうので、そのままでの維持は難しい。だからトタンや銅板などで包まれている。




こちらには庶民の旅に使われた駕籠が展示されている。




階段の上の彫刻は、かつて妻壁辺りを飾った「棟飾り」が屋根の改修か何かで外されたということだろうか。




土間には正徳元年(1711)の高札が掲げられている。ここには吉野宿までの馬や人足などの駄賃がいくらなどと書かれている。




こちらは弘化元年(1844)の高札。正徳元年のそれと比べると、物価は五割増くらいになっている。




本陣を後にして、吊り橋の弁天橋を経由して相模湖に向かう。




小仏方面に少し戻り、山道に入る。









弁天橋への山道は、東海自然歩道サブルートの続き。




足元のあまりよくない山道を下っていく。









千木良からのメインルートと合流する、底沢公園橋。









底沢(美女谷川)と相模川の合流点。澄んだ水越しに川底がくっきり見える。




弁天橋へは「相模湖→」と書かれた道標に従って、斜面を登っていく。




上がって行く先に石碑が見える。




旧弁天橋記念碑。

記念碑によると旧弁天橋は相模ダムの完成(昭和22年・1947)後、かつての桂川渓谷の名残りといえる景勝地・弁天島に観光を目的として昭和27年(1950)に架けられた。そして現在の橋は旧橋の老朽化により昭和61年(1986)に架け替えられた、とある。
弁天橋の名は、このすぐ近くに建つ弁天社に由来する。




弁天橋へ向かう。

相模湖が出来るまで、地域の人々が対岸に渡るには渡船がよく利用されていた。弁天島の近辺には「原下の渡し」があり、千木良(ちぎら)の原と奥畑の間を渡していた。
甲州街道がまだ歩かれていた時代、たとえば与瀬宿と吉野宿との往来は水害で荒れやすい渓谷の底には道が付けられておらず、山腹を等高線に沿って大きく迂回して歩かなければならなかった。そこで渡しを乗り継いでいくと早くて便利、と渡し船がもてはやされた。
そうした渡しの痕跡は、今は相模湖の湖底に沈んでいる。

また相模川は絹や木材などを高瀬舟で運ぶ水運(舟運)にも利用され、弁天島の岸辺からも船が出ていた。山から切り出された丸太の筏流し(いかだながし)も行われた。

桂川(相模川の上流部)や嵐山(相模嵐山)といった京都を思わせる地名からは「川下り」が連想される。
実際、この風光明媚な渓谷は「相模川下り」の渓谷として脚光を浴びた。その始まりは明治末から大正期にかけての頃。平塚の火薬工場のイギリス人に頼まれて川下りを楽しませたのが最初という。高瀬舟の船頭達が担った川下りは、大正から昭和初期ごろには遊覧船となった。当時のパンフレットにはコースとして与瀬下から城山まで、と記されているものなどが見られる。
今は昔、神奈川県下でも舟の渓流下りが楽しめた時代があったのだ。

参考「相模湖町史 民俗編」「津久井郡勢誌(復刻・増補版)」




立派な吊橋の、弁天橋。




吊橋から下流方向の眺め。









相模湖方面への案内板。




木段を上っていく。弁天橋を挟んで、河岸段丘を下りたり登ったり。




養護学校の前を通過。









道標に従い舗装路をゆく。




嵐山(あらしやま)登山口を過ぎたあたりに、県企業庁の相模発電所。道路からみえるのは変電所設備。




相模発電所は相模ダムの竣工(昭和22年・1947)より一足早く、戦時中の昭和20年(1945)2月より発電を開始している。相模湖は1944(昭和19)年12月21日より貯水を開始、翌年1月20日には満水となった。そして一台目の発電機が設置され、発電が始まった。
というわけで、ダムの提体そのものは戦前に出来上がっていた。

参考「相模湖町史 歴史編」




ダム下流側の築井大橋(つくいおおはし。現在は管理用道路兼歩道)。ダムの完成と同時期に架けられ、現在の橋は平成25年(2013)に大がかりに補修されたもの。古い親柱が残っている。

このときはダム洪水吐(こうずいばき)水門修理工事のため、残念ながら通行できなかった。
なお、下流側のダム全貌はこちら側から見るのは難しいが、弁天橋の対岸、小原宿を与瀬方面に進み中央道相模湖東インターチェンジを過ぎたあたりに眺望ポイントがある。




湖側からの水門。

相模ダムは戦後になって最初に完成した多目的ダム。
大正時代には多目的の河川開発が議論されるようになり、発電用貯水池の目的に加え洪水調節、水道・工業用水や農業用水の供給を目的とした河水統制事業が始まった。
相模ダムは昭和16年(1941)6月に着工。これは河水統制事業のダムとしては青森県の沖浦ダム(現在は水没)、山口県の向道ダム(こうどうダム)に次ぐ三番目の着工。戦中・戦後の資材、労力不足により工期は延び、昭和22年(1947)にようやく全ての設備が完成した。

参考「かながわ土木のはなし」




慰霊塔。ダム建設工事で殉職した人々を慰霊する。

戦時中、重労働に耐えられそうな日本人男子はすでに徴兵され労働力不足は深刻だった。そこで学徒動員、当時は日本国民であった朝鮮人の徴用、捕虜となっていた中国人兵の連行など、少年から成年まであらゆる労働力が集められ、工事に従事した。

「徴兵」や「徴用」といった「動員」にせよ「連行」にせよ、そこには殊更に「強制」という言葉を付与しなくとも強制性が伴うものである。
徴兵や徴用は、兵役法や国家総動員法といった「法律」の下位法令となる「勅令」(現在の「政令」に相当する)や「省令」などの「命令(○○令)」を執行する「令状」によって、国民に対して執行された。たとえそれが不本意であろうと当人の意思は関係ない。執行に対して暴れるなど抵抗すれば、強制力を以て執行された。一方、外国人である捕虜を連行して労働に従事させる扱いは決して人道的とは言えないが、戦時中は枢軸国・連合国の双方とも捕虜に対して後々問題とされるような行為がまかり通っていた。当時はそういう時代だった。




相模湖大橋のシルエットが西日に浮かび上がる。




嵐山洞門(あらしやま どうもん)の手前で大橋へ。




アーチ橋の相模湖大橋は昭和46年(1971)竣工。それまではクルマもダムの提体上にある旧橋(補修工事前の築井大橋)を通っていた。
参考「かながわの橋」




橋の途中から見る相模ダム。




渡っていく途中、橋の上にバス停があるのがちょっと珍しい。左岸(下流に向かって左)側に置いても与瀬地区の人々は駅が近いのでこのバス停はあまり利用しないだろうし、嵐山を歩くハイカーにとっては右岸寄りの方が便利だろうが洞門出口あたりではバスが停車すると交通を阻害するため設置できないということか。




橋を渡り切り、左へ。




県立相模湖公園前の信号。




次の信号である相模湖総合事務所(旧相模湖町役場)前で右へ上っていく。




階段を上がる。




甲州街道(国道20号)の相模湖駅前信号。

このあたりはかつての甲州街道・与瀬宿(よせしゅく)。与瀬の本陣はここから大月寄りにあった。鉄道駅も、相模ダム・相模湖が完成した後の昭和31年(1956)に「相模湖駅」となるまでは、「与瀬駅」と呼ばれていた。




JR中央本線・相模湖駅に到着。

地場産木材の梁を新たに用いたという駅舎は、この年明け(平成29・2017年1月)に改装が済んだばかり。駅の入口に向かって右手には登山靴の泥を落とす洗い場、駅構内には男女各一室の更衣室といった、登山者・ハイカー向けの設備が新たに設けられている。


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