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小田原の邸園(邸宅・庭園)めぐり


2.古稀庵(山縣有朋別邸)庭園から小田原文学館(田中光顕別邸)へ。

1.清閑亭(黒田長成別邸)から老欅荘(松永耳庵邸)はこちら




古稀庵(こきあん。山縣有朋別邸)の門。茅葺の切妻屋根を架ける四脚門は昭和59年(1984)に復元された。

古稀庵の敷地は現在、あいおいニッセイ同和損保(株)の研修所になっている。旧建物は移築されるなどしてこの地には残っていないが、山縣が趣向を凝らした庭園は大切に保存され、日曜日に限って公開されている(10時〜16時。入園料100円)。

山縣有朋(やまがた ありとも。1838〜1922)は陸軍、政界・官界に絶大な影響力を有した明治の元勲。明治40年(1907)、古稀(70歳)を迎えた公はこの地を終の住処とし、この庭が築造された。




門に掲げられた「古稀庵」の扁額は、山縣有朋の筆による。




研修所玄関前から、古稀庵庭園へと続く小径。




小径の先、研修所の渡り廊下の左手に高低差14.9mという起伏を活かした庭園が広がる。その広さは約4,600平方メートル、およそ1,400坪。

渡り廊下から下りると順路2、その奥に順路3と園路が延びている。
渡り廊下の先は順路1と示され、進んだ先には「聴潭泉」がみられる。




山縣が目指したのは、石組や池泉といった従来の回遊式庭園における形式にとらわれない自然主義的和風庭園。明治近代期における日本庭園のあり方をリードしたその作風は、ここ小田原「古稀庵」のほか東京目白の「椿山荘」、京都の「無鄰菴」といった庭園となって結実した。
老境の域に達した時期に築かれたこの庭園は山縣の庭園観の集大成とは言えまいか。

そんな古稀庵庭園の記念樹(シンボルツリー)とでもいうべき、野趣あふれるスダジイの大木。年月を重ね、斜めに延びた苔むす幹から太い枝が力強く広がっている。山縣はこうした今の姿を想像しながら庭づくりに励んだのだろうか。




野辺の小川のように谷水の水流をめぐらせている。こうした水流こそが山縣の庭園の主題。




聴潭泉。
解説板には「鬱蒼たる樹陰に水聲を聴きながら、其水の本體を視ざる處を聴潭泉と名づけし」とある。水量も豊かに滝音を響かせたことから音滝と通称されたという。

渡り廊下を戻り、順路2へ。









山縣が吟じた漢詩が刻まれた庭石。

豊臣秀吉公は小田原城を囲み石垣山一夜城を築いた。この庭はその旧跡の東に位置し殊に感慨深きものがある、といった内容の漢詩が記されている。
解説板にある「含雪」老人とは山縣有朋の雅号。




園路を下りていく。




こちらの庭石には山縣が詠んだ短歌が刻まれている。邸内のお社に詣でることを日課とした山縣が雪の日に詠んだ歌。

「拂ひつる 社まうての あと見れは 一すぢ黒き 雪の坂みち」 古稀庵 老主 朋 




下りていった先には石橋が架けられている。




その手前に設けられた、浸み滝。




雫が細く滴っている。




大きく根を張る、ホルトノキ。




石橋を渡る。









槇ヶ岡神社趾。

解説板によれば、槇ヶ岡神社は明治天皇を祀った社。天皇遺愛の短刀を神宝とした。社殿の周囲に槇を植えたことがその名の由来とされる。公の没後、社殿は那須の山縣農場へ移築された。









美しく苔むす庭。

苔よりは芝生を多用することが山縣の作庭における哲学であったが、こうして年月を経て得られた苔の美しさは、庭園の美しさを一層引き立たせる。




地蔵像の傍らを登っていく。









順路2の庭を一周したところで、順路3へ。




洗頭瀑。

解説板にあるように、左右から滝添石が迫り、立体感に富んでいる。山縣も時々は此処に長時間佇んで、飽くことなく滝を眺めていたという。

作庭に傾倒していた山縣には、その庭園観をめぐって、実業家の益田孝(鈍翁)を介して横浜の実業家・原三溪との間に交されたエピソードがある。

益田はその自叙伝のなかで次のように記している。
「・・横浜の原富太郎が古稀庵を見て来て、・・山縣さんの造られたあの滝は実に真に迫っている、上の方は樹木が鬱蒼としていて、龍が雲を起こしているようで実に感心した、併しその下の方に来て、花なぞ植えてまるでお姫さんでも遊びそうな柔らかい処が造ってあって、・・あれでは龍は首だけあって尻尾がないことになる、また大きな石があってその後ろから枯木が一本出してあるが、あれは感心しないと云った。
私は早速山縣さんの処へ行って原が斯う云う批評をしておりますと話をした。すると公は、石の後ろから枯木を出したのは植木屋が是非そうしたいと云うからやらせて置いたのだと云う。公は腕を組んで頻りに、原はそれからどう云った、うむと云って、熱心に聞いて居られたが、結局、原に会って意見を闘わせて見たいと云うことになった。
このことを早速原に伝えたが、原は、ただ話をしただけでは駄目だから、自分が一つ庭を造って山縣さんをお招きしようと云うから、山縣さんにそう伝えると、それは一段と面白かろうと云って原の庭の出来るのを非常に待って居られたが、とうとう公の死なれるまで其の庭の出来上がらなかったのはまことに残念であった」。

親子ほどにも歳の離れた大政治家と大実業家が庭園作りに夢中なあまり、ムキになってやりあうこのエピソードは、何とも可笑しい感じがする。




原も絶賛したという、滝の上に通じる鬱蒼とした樹蔭の中を登っていく。

原はこうしたあたりに後の三溪園内苑奥の渓谷歩道(限定公開)あるいは三溪園外苑奥の渓流の作庭に通じるものを感じたのかもしれない。得意満面で庭園を披露する原と、それに対する山縣老公の感想を聞いてみたかった気がする。




水量も豊かな、洗頭瀑。




園路をたどった先に置かれた、巨大な兜石。

短歌の刻まれた碑の解説板によれば、兜石はここ板橋村の人々が力を込めて庵の庭に引き入れて据えたもの。庭の高みに置かれたこの石は、庭園の要め石(キーストーン)となっている。




高みから庭園を見下ろす。青葉もさることながら、紅葉の季節はさぞ美しかろう。




有朋の詠んだ歌が刻まれた庭石。

小田原城南麓に草庵を結ひ 古稀庵と名つけすみけるに 有朋 
打いたす相模の海を池にして あふく箱根は庭の築山 谷水は庭をめくりて城山の 麓の松はまかきなりけり
のとかにも賤の麦まく小田原の 畑のあぜ道梅の早咲

山海の風光明媚な小田原の地に草庵を結んだ、晩年の有朋。

相模灘を池に見立て、周囲の山を築山になぞらえた庭といえば、鎌倉・瑞泉寺の偏界一覧亭(へんかい いちらんてい。へんの字は正しくは行にんべん)が知られる。中世から近代まで、相模湾を望む地は雄大な風景を借景とした庭が築かれてきた。









古稀庵を後にする。




再び、小田原用水沿いをゆく。




国道一号・南町の歩道橋を渡る。




降りたところは、軽便鉄道(けいべんてつどう)小田原駅跡。

石碑には「明治29年(1896)熱海方面への輸送路として豆相(ずそう)人車鉄道が開通。明治41年(1908)軽便鉄道となり小田原電鉄(のちの箱根登山鉄道)からの乗換駅となった。大正11年(1922)には国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって、その任務を全うした」とある。

右折して西海子(さいかち)通りへと向かう。




西海子小路(さいかちこうじ)の碑。

この小路は江戸時代末期まで中級武士の武家屋敷が並んでいた。




進んでいった先に現れた、小田原文学館の正門。




案内図。




小田原文学館の玄関まわり。スパニッシュ様式の意匠が、庇や開口部など随所にみられる。

文学館の建物は旧田中光顕(たなか みつあき。1843〜1939)伯爵別邸。昭和12年(1937)築。伯爵の最晩年の別荘となった。




庭園へ。




白壁の洋館は一階がサンルームとなるベイウィンドウ(張り出し窓)を配置。青緑色の波打つようなスペイン瓦を葺き、バルコニーにはパーゴラ(藤棚)が設けられている。ヴィクトリアン様式風のベイウィンドウはともかくとして、全体的にはスパニッシュ(南欧風)スタイルを基調とする。




尾崎一雄邸書斎。
小説家・尾崎一雄の旧宅の一部が市内他所より移築された。




もう一つの旧田中光顕伯爵別邸。現在は「白秋童謡館」となっている。




純和風建築である別館のこちらは、関東大震災の直後となる大正13年(1924)の築。




庭園の池。




桜並木の西海子小路。サクラの季節にはほんのりとした春色に満ち溢れそう。




国道一号・箱根口へ。




本町の信号際に建つ、「小田原宿なりわい交流館」。




現在の東海道・国道一号を進む。




小田原市民会館前(旧大手前)。歩道橋の向こうへ直進すると国道255号・駅方面。




「だるま料理店」。




栄町。小田原随一の繁華街。




小田原駅東口に到着。


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