まちへ、森へ。

中世の鎌倉古道・湯坂道を歩く

3.湯坂路(鎌倉古道)

 

2.お玉ヶ池から精進池、元箱根石仏群、東光庵旧跡へはこちら。

 

 

芦之湯から国道一号を湯本方面へ歩いて進むと、バス停「湯坂路入口」を過ぎて(バス停下車の場合は湯本方面へ戻って)少し行った先が湯坂路入口。

 

 

 

標高およそ800m。

 

中世の東海道「湯坂路(ゆさかみち)」は、ここから湯本側登山口までの区間は沿道が大がかりに開発されることなく、往時を偲ばせる状態で残っている。

 

 

 

案内図。
湯坂路(鎌倉古道)は「浅間山・湯坂山自然探勝歩道」の一部に組み込まれている。

 

 

 

ここから鷹巣山、浅間山まではなだらかで広々とした尾根道。

 

 

 

湯坂路にはカラマツが結構見られる。それらは戦後に植林されたそうだが多雨の箱根にはあまり適さず、乾きやすい尾根筋に残っているとのこと。

 

落葉針葉樹のカラマツは、秋には美しい黄葉が見られそう。5月下旬のこの時期は、淡い緑の新緑がこれまた爽やか。

 

参考「改定新版 箱根を歩く」(箱根の自然と文化研究会編。平成3・1991年神奈川新聞社)

 

 

 

中世の初頭、文治四年(1188)の参詣を皮切りに、鎌倉の将軍頼朝が箱根権現への参詣道として通った湯坂路。

 

「京鎌倉往還」として政治的、経済的、文化的、そして軍事的に重要な道であったこの道は、鎌倉初期の承久三年(1221)、後鳥羽上皇の「執権北条追討」の院宣に対して上皇方を返り討ちにすべく京へ向けて鎌倉の軍勢が通っていった。

なお東海道軍が箱根路あるいは足柄路を具体的にどのように通過したかは幕府の史書である「吾妻鏡」でも詳細が明らかでないが、泰時勢が鎌倉の守護神でもある箱根権現に参詣しなかったとは考えにくいであろう。幕府軍は最終的には東海道軍の10万、東山道軍の5万、北陸道軍の4万、総勢19万の大軍となって京へ進軍していった。

そして中世末期の天正18年(1590)、こんどは西から小田原に進軍する秀吉方の主力部隊である秀次、家康の大軍が通ることとなる。

 

 

 

湯坂路入口から15分も歩くと最初のピーク、鷹巣山(たかのすやま。834m)。

 

 

 

 

 

 

 

鷹巣城跡の案内板。

 

鷹巣城は「まぼろしの城」ともいわれる。小田原合戦にまつわる各種記録からはその存在は疑いないのだが、肝心の城の遺構が明らかになっていない。

 

案内板にもあるが、小田原合戦の際に秀吉が上杉・前田に宛てた書状には「家康が鷹巣城に入った」という記録がある。後世においても、鷹巣城は家康公の戦跡として記憶されてきた。少なくとも秀吉方の遠征軍にとっては鷹巣城は軽くは見られていなかったようだ。
一方で、北条方にとって小田原防衛のためにこの中世東海道において重要視されていたのは、鷹巣城ではなく箱根峠を隔てた西側となる三島の山中城であった。

 

ともあれ、少なくとも鷹巣山の山頂付近には城郭遺構は存在しない、と結論付けられている。

注目すべきは、鷹巣山は明治時代編纂の「皇国地誌残稿宮城野村誌」において現在の鷹巣山が「後鷹巣山(うしろ たかのすやま)」、尾根続きの浅間山が「前鷹巣山(まえ たかのすやま)」とされている点である。鷹巣城の謎を探るには浅間山も含めて考えなければならないことになるそうだ。

 

参考・「箱根をめぐる古城30選」(小田原城郭研究会編。昭和62・1987年神奈川新聞社)「改定新版 箱根を歩く」(箱根の自然と文化研究会編。平成3・1991年神奈川新聞社)「神奈川中世城郭図鑑」(西股総生、松岡進、田嶌喜久美著。平成27・2015年戎光祥出版)

 

 

 

先に歩いてきた山道の法面(のりめん。土手)も、山頂付近のこの法面も土塁ということではなく自然の法面ということになるらしい。山城初心者としてはひっかかるところだった。

 

 

 

ここで大休憩。おやつは元箱根のコンビニで買った、箱根限定の「湘南ゴールドみかん餡どらやき」。もちろん地酒の小瓶も買ってあるが、そっちはお預け。

 

 

 

鷹巣山を後に、浅間山へ向かう。

 

 

 

爽やかで気持ちのいい、初夏の登山道。

 

 

 

山道を下っていく。

 

 

 

 

 

 

 

県営林の案内図。この先で登山道が林道と交錯している。

 

 

 

道標。鷹ノ巣山と浅間山は至近距離。

 

 

 

眺望が開けた。手前には国道一号・小涌谷(こわきだに)に展開するリゾート施設の赤い屋根が見える。奥に見えるきれいなかたちの山は、箱根外輪山の並びにそびえ立つ金時山(きんときやま。1212m)。

 

 

 

「箱根七湯栞」八重山公時山乃図  拡大版
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。画像結合はサイト管理者。

 

 

 

幅の広い方は林道。山道の登山道を進む。

 

 

 

千条の滝(ちすじのたき)への分岐を通過。

 

 

 

行く先が小広く開けてくると、浅間山はもうすぐ。

 

 

 

こちらにも千条の滝への分岐がある。奥が浅間山山頂。

 

こちらの分岐を進むと千条の滝へ向かう途中に宮ノ下への分岐がある。尾根をたどって宮ノ下まで下りると、隣接する底倉(そこくら)温泉には秀吉が将兵を労ったという太閤石風呂(たいこう いわぶろ)跡がある。

 

 

 

振り返れば二子山が見える。

 

 

 

浅間山(せんげんやま。802m)山頂に到着。

 

 

 

案内板。地理院地図(電子国土Web)では標高は801.5m。
案内板にも「浅間山は下鷹ノ巣山と呼ばれていたのが江戸時代に浅間山になった。そして鷹ノ巣城はこちらにあったと思われる」とある。

 

 

 

来た道を振り返る。

 

昔は「下鷹巣山」(あるいは前鷹巣山)と呼ばれていた山。
富士浅間信仰(ふじせんげん しんこう)の影響で浅間山となったのは江戸時代のこと。したがって戦国時代にはこの山は鷹巣山のピークのひとつだった。先に見たように鷹巣城はこちらの方にあったのではないか、という説が有力である。

 

 

 

浅間山を出発。

 

 

 

カラマツの林と浅間山、といったら白秋の軽井沢の詩を思い出す。「からまつの 林を出でて 浅間嶺に けぶり立つ見つ」。まあ、あっちは「あさまやま」だし関係ないのだけれど。

 

 

 

野薊(ノアザミ)。ありふれたアザミではあるが、春咲きのアザミはこの種だけ。
アザミはスコットランドにおいては、侵入者(ヴァイキング)を撃退した象徴の花。ラグビースコットランド代表チームのエンブレムにもなっている。

 

小田原が秀吉軍を撃退することは、かなわなかった。

 

 

 

浅間山から10分ほどで、大平台(おおひらだい)分岐の道標。

 

 

 

明るく開けた尾根道。

 

 

 

送電線鉄塔を通過。

 

 

 

浅間山から下ってくることおよそ40分。湯坂城址まではもうしばらく歩く。

 

 

 

 

 

 

 

ヒノキの植林を下っていく。

 

 

 

 

 

 

 

石畳が現れる。濡れてしまったら、下りはかなり滑りそうだ。

 

 

 

湯坂城址(ゆさかじょうし)に到着。標高275m。

 

山道を下ってきた右手が開けて郭(くるわ。曲輪)になっている。正面には土塁が見られるが現在の山道は土塁を崩すように突っ切っている。案内板の立っているあたりは尾根を切って(堀切・ほりきり)空堀状になっていたとされるが現在は山道の路面の高さまで埋まっている。

 

 

 

湯坂城は、古くは室町時代に箱根周辺を支配した国人(こくじん)・大森氏が築いた城。戦国時代初期には大森氏を滅ぼした北条早雲(伊勢宗瑞)が支配下に置き、のちに改修が重ねられていった。

 

中世の東海道であった、湯坂路の尾根道。湯坂城はその尾根の末端、湯本へ向けて高度を一気に下げていく地点にある。西から箱根を越えて湯本へ、更には小田原へと進軍する軍勢に対する防御の拠点ということになる。

 

天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めのときには、西から押し寄せた計7万人にも上る秀吉の大軍は最前線の山中城(三島。城将松田康長以下4千人)を一日で攻略。鷹巣城、湯坂城を撃破して湯本の早雲寺に仮本陣を置き、のちに石垣山一夜城を築いた。

 

 

 

土塁を迂回するように向こう側の郭へと通じている。左手はすぐに急斜面。

 

 

 

土塁はそれらしい形を保って残っている。

 

 

 

尾根を登っていく方向(西側)に向かって左手にも土塁が築かれている。

 

 

 

西側はここまでたどって来た方向。現在の山道は平らだが、城だったころは山道が通る尾根を分断するように堀切で切って空堀状にしていた。

 

 

 

土塁から尾根を下っていく方向には山道に沿って更にいくつかの郭、土塁が連なって築かれていたという。現在は藪の中。

 

 

 

土塁のえぐれたあたりから来た道を振り返る。北条方は、まさにこの向きで秀吉軍を迎え撃ち、そして突破された。

 

参考・「箱根をめぐる古城30選」(小田原城郭研究会編。昭和62・1987年神奈川新聞社)「神奈川中世城郭図鑑」(西股総生、松岡進、田嶌喜久美著。平成27・2015年戎光祥出版)「中世の箱根山」(岩崎宗純著。平成10・1998年神奈川新聞社)

 

 

 

湯坂城址を抜けて先へと進む。

 

 

 

尾根道はやがて石畳の急傾斜となって、一気に高度を下げていく。乾いていてもかなり滑るので、下りに使うにはストックがないとちょっと辛いかもしれない。歩きやすいハイキングコースの湯坂路にあって最も険阻な区間。

 

 

 

湯坂路に石が敷き詰められて整備されたのは昭和の初め。逓信省が電話幹線ケーブルを埋設した際その保護のために石畳にしたという。
参考「改定新版 箱根を歩く」(箱根の自然と文化研究会編。平成3・1991年神奈川新聞社)

 

一般的な登山道なら木段が整備されそうなところではあるが、箱根の古道は近世(江戸時代)に石畳が整備された旧街道はもちろんのこと、中世の湯坂路でも古道の雰囲気を大切にした整備がいまでもなされている。

 

 

 

「早雲足洗いの湯・和泉」の看板が現れた。

 

 

 

 

 

 

 

温泉やぐらを模した看板が立っている。

 

 

 

国道一号を走る、旧塗装の箱根登山バス。

 

 

 

湯坂路登山口に到着。標高およそ110m。

 

 

 

「立ち寄り湯・和泉」は湯本でも最古といわれる源泉を有する。
日帰り温泉和泉公式サイト
また、施設内には崖を横堀して温泉を湧出させたという横穴式源泉の跡がある。井戸の場合だと丹沢の山麓であるとか横浜の丘陵(谷戸)あたりでも崖に横穴を掘って水を得る横井戸(よこいど)をたまに見聞きするが、温泉でそれをやってしまうとは、さすが温泉地。

 

 

 

早川に架かる鉄筋コンクリートのアーチ橋、旭橋。川に対して斜めに架かっている。昭和8年(1933)竣工の橋は、箱根を代表する近代土木遺産のひとつ。

 

 

 

旭橋から眺める、早川の下流方向。

 

 

 

橋を渡って下流側に少し行くと、明治18年(1885)竣工の旧旭橋について解説した案内板がある。

 

湯本の商店街を抜けて、箱根湯本駅へ。

 

 

 

帰りはタイミングが良かったので、特急ロマンスカーに乗車。

 

 

 

箱根湯本を発って小田原までは、箱根登山鉄道の単線区間をゆっくりと抜けていく。

 

 

 

小田原駅から一気に速度を上げた列車の車窓を流れゆく、足柄平野の松並木。江戸後期に郷土の農聖・二宮尊徳が治水のために植えたのがその始まりという美しい並木が、酒匂川(さかわがわ)の堤に沿って延々と続く。

 

 

 

小田急線随一の山間部区間となる、新松田駅(標高約55m)〜渋沢駅(標高約165m)。

 

駅間の距離が長いこの区間は足柄平野から秦野盆地へ、表丹沢の尾根に源を発する酒匂川支流の川音川(かわおとがわ)・四十八瀬川(しじゅうはっせがわ)を何度も渡りながら走る。西丹沢行であれ箱根行であれ、山旅気分が盛り上がる区間。

 

 

 

その切なさ漂う歌詞や曲調が印象的なテーマ曲「ロマンスをもう一度(葛谷葉子・初代バージョン。YouTubeへリンク)」とともに、箱根への旅情をそそる小田急ロマンスカーのCM「きょう、ロマンスカーで」。

 

あのCMに時々出てくる、山間部の渓流近くをロマンスカーが疾走するシーンは、実は箱根ではなく丹沢のこの区間で撮られているというのはちょっとした小ネタ。

 

 

 

今回の山土産は、足柄(大井町)の酒蔵、石井醸造の「本醸造 箱根のしずく」生貯蔵(なまちょぞう)。
生貯ではあるが真夏ではないのでリュックに入れっぱなしでも大丈夫だろうと、歩き始める前に元箱根のコンビニで購入。

 

夏向けの冷酒として呑まれる生貯蔵酒は、口あたりのすっきりとした飲みやすい酒。今年もまた、生貯が旨い季節がやって来た。

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