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鶴見川流域、新進の気風・伝統の心。


3.みその公園横溝屋敷・獅子ヶ谷市民の森

2.師岡熊野神社・熊野神社市民の森はこちら。




樽町(たるまち)の杉山神社から獅子ケ谷(ししがや)横溝屋敷に向かう。鳥居をくぐった先、突き当りを右折。




左手にショッピングモール・オートモールのトレッサ横浜。ゆるいカーブを道なりに進み師岡沼上耕地公園の角を左折。




環二・師岡(もろおか)交差点。横断歩道を渡り、狭い道を直進。




獅子ケ谷横溝屋敷の案内看板。




みその公園横溝屋敷(横浜市農村生活館)。公園の広さは約0.5ヘクタール(100m四方×0.5)。

地域の旧家である横溝家から昭和62年(1987)に市に寄贈されたこの屋敷は、平成元年(1989)より市民による利用が始まり市内における古民家活用の先駆けとなった。

「みその公園」も屋敷の利用開始と同じく平成元年の開園になっているが、当時の広報紙では「獅子ケ谷横溝屋敷」と呼びならわされていた。その方が通りが良いからであろうか。
「みその」の名は横溝屋敷公式サイトによると、谷戸の入口の御園(みその)と称される最良地に屋敷が存することによるようである。
江戸時代後期編纂の歴史書・新編武蔵風土記稿(巻之六十七橘樹郡之十神奈川領獅子谷村)によると、この地域には字(あざ。小名)「ミソノ前」の記載が見られる。




屋敷の前に広がる教育水田。




表門。江戸時代末期の弘化4年(1847)築。長屋門(ながやもん)の形式。




総合案内板。
ここには江戸末期〜明治中期の五つの古建築が現存している。

農家として必要な建物は、実はあと二棟ある。すなわち灰屋(はいや。肥料を保管)と木小屋(燃料の薪を保管)であるが、それらは失われた。
それでも、これだけまとまった状態で屋敷が保存されているのは貴重といえる。




主屋(おもや)。明治31年(1898)築。屋根裏部屋ではない二階建の古民家は、近在の古民家では珍しい。一階は六ツ間取となっており、広い。棟(むね)に櫓(やぐら。気抜き)の箱棟(はこむね)が付いた寄棟造(よせむねづくり)の茅葺屋根。




長屋門の並びに、穀蔵(こくぐら)。天保12年(1841)築。カブト造りの屋根。




主屋の中へ。




タタキの土間。「ニワ」と称される。土足のまま作業をするための、広い空間。




台所の竈(かまど)。




座敷。




ひな人形の段飾り。




床(とこ)。棚板が張り出す形の付書院(つけしょいん)が配されている。画面ではひな飾りに隠れて見えないが床脇(とこわき)もきっちり造られており、奥座敷は農家の古民家としてはかなり立派な書院造となっている。

農家の古民家にこれだけ立派な書院造がみられるのは建物が江戸期ではなく明治中期という時代背景もあろうが、そうであったとしてもこの書院造には名主横溝家ならではの家格が感じられる。




透かし彫りの施された欄間(らんま)。天井は竿縁天井(さおぶちてんじょう)が張られている。




広間の神棚。こちらの天井は天井板を張らずに根太(ねだ。床板を支える材)をそのまま見せる、根太天井。




周囲にめぐらされた、広縁(ひろえん)。




納戸(なんど)。




階段を上がり、二階へ。




二階はかつて蚕室(さんしつ)として使われていた。現在では展示室となっている。

養蚕農家の場合、平屋建ての屋根裏部屋を蚕室として使っていた建物では、通気性・採光を確保するため寄棟の茅葺屋根の短い側を削ぎ落したカブト屋根が多かった。
横溝屋敷の場合は総二階のため窓を開放して通気性・採光が十分に確保できるので、屋根は寄棟のままでよかったのだろう。その結果、養蚕農家の古民家としては堂々とした建物となった。




獅子ケ谷の立体模型。手前に二ツ池が見える。こうしてみると獅子ケ谷市民の森一帯は、典型的な谷戸(やと)の地形を現代によく遺している。




獅子ケ谷の由来。当地が熊野権現の獅子舞を受け持っていたとの伝承による、とある。

獅子ケ谷の地は現在の行政区分上は鶴見区であるが、古くは師岡郷(もろおかごう)の一部であった。
師岡の方は港北区に属するが、古くは獅子ケ谷、師岡は鶴見川流域において一体となった生活圏・文化圏をつくっていた。




二階天井は太い梁をのぞかせる。




豪農は教養も身に修めていた。論語や和算、囲碁の書物が見られる。

精神修養から実学まで、近代以前の日本の底力は士農工商すべての階級に渡って育まれ、その礎が明治以降の日本を支えてきたと思うと、感慨深いものがある。




主屋から、再び外へ。




主屋と並んで建つ、蚕小屋(さんこや)。明治31年(1898)築。




主屋の背後に、文庫蔵。安政4年(1857)築。カブト造りの屋根。耐火性のある土蔵は貴重品を収める。




庭園の池。背後には屋敷稲荷。




この屋敷がすばらしいのは、背後の屋敷林を併せて良好な状態を保っていること。屋敷林は獅子ケ谷市民の森の一角を占める。




この森は獅子ケ谷殿山と呼ばれる。




標高45mの頂上には長方形の平場が広がる。

殿山は小机城(こづくえじょう)の支城であった獅子ケ谷城と推定されている。しかし、はっきりした記録はない。
新編武蔵風土記稿では小田切美作守(おだぎり みまさかのかみ)の名を挙げるが異論もあり、支城としてどのような役割を果たしたかは定かではない。




広場から師岡公園方面へ少し進む。




南西の端には平山城(ひらやまじろ)の土塁や空堀と思われる地形が見られる、という。
見下ろした竹林の底あたりが空堀になるのだろうか。一瞥しただけではちょっと判らない。

広場へ戻る。




戦国時代が終わり江戸時代に入るころ、旗本となった小田切氏の江戸移住に際してその屋敷を一部拝領したのが横溝家、と伝わる。

こうして見るに、獅子ケ谷城が小机城の支城であった時代には、横溝屋敷は根小屋(ねごや)と呼ばれる屋敷地であったのではなかろうか。山頂に曲輪(くるわ。平場)を設け山すそに居館を配置する根小屋形式の城は、いずれも小田原城の支城である小机城津久井城にも見られる。




横溝屋敷の前から獅子ケ谷町小川アメニティ「せせらぎの小径」をたどり、さらに森を巡る。




獅子ケ谷市民の森の案内図。

獅子ケ谷市民の森は幾つかの谷戸の小山で構成され、合計面積はおよそ19ヘクタール(100m四方×19)。

横溝屋敷(殿山)の側と西谷(にしや)の側とは獅子ケ谷町小川アメニティで結ばれている。西谷の谷戸と灰ヶ久保の谷戸に連なる尾根は、江戸時代からの古道の峠道が乗っ越し(のっこし)ている。




獅子ケ谷の里 散策マップ。  拡大版。




案内板から少し行った先を右に入り、小川アメニティへ。









谷戸の奥に向かって水路が延びていく。




まだ資材置き場などが少なかったころの小川アメニティ。
画像出典・市民グラフヨコハマNo.83「市民の森ガイドブック」(平成5・1993年発行)




小川アメニティの奥は、西谷(にしや)広場。




噴水のある池は、地下水をポンプでくみ上げ小川アメニティへ水を供給する。




西谷広場から鋸坂を登っていく。




登った先の、展望台。




展望台から見下ろすと、横溝屋敷を見渡せる。今では木々がずいぶんと伸びてしまった。




画像出典・市民グラフヨコハマNo.83「市民の森ガイドブック」(平成5・1993年発行)




尾根筋から舗装路の峠道へ。画面右手へ右折。




市民の森案内板の前を右折し、道を下っていく。




下っていく途中に上郷神明社への石段。




上郷神明社は獅子ケ谷地区の鎮守。




さらに下っていくと、車地蔵(くるま じぞう)。江戸時代中期、享保三年(1718)の建立。




この峠道はその昔、鶴見(東海道沿い)と獅子ケ谷・師岡・綱島とを結ぶ唯一の道であった。




地蔵堂に付けられた小車は、かつてこの峠道を行き来した人々がお地蔵様にお詣りする際に回していた、という。祠が修繕されても、大切に残されている。




車地蔵周辺の、かつての姿。今ではずいぶんと様変わりした。
画像出典・市民グラフヨコハマNo.83「市民の森ガイドブック」(平成5・1993年発行)




灰ヶ久保広場へ。




灰ヶ久保(はいがくぼ)広場。




灰ヶ久保広場のすぐ隣りには新池(しんいけ)広場。




バードウォッチングウォールが設けられている。




ウォールの向こうに、新池。




灰ヶ久保広場に戻り、旭台広場へ上がる。









旭台広場の脇を通り、出口へ。




出口から右へ、東横線菊名駅に向かう。

旭台広場の出口からしばらくは森に沿って進んでいく。眺望が開けた尾根道を道なりに進んで住宅街を抜けて行った先、突き当りを左折。




左折した先、尾根をたどっていくと菊名小学校敷地の角。このあたりで標高約41m。角を右に下りていく。




急坂を一気に下り、駅前へ至る通りへ出る。正面には新横プリンスが見える。
下りた辺りは港北図書館の近く、標高およそ7m。突き当りを左折。




菊名神社のあたりまで来ると、菊名駅はもうすぐ。


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