まちへ、森へ。

野毛山界隈〜開港場の、もう一つの山の手

4.伊勢山から掃部山へ

 

3.野毛山公園から伊勢山へはこちら。

 

続いては神奈川奉行所跡、県立音楽堂・図書館、横浜能楽堂・掃部山(かもんやま)公園、岩亀(がんき)稲荷、二代目横浜駅遺構へ。

 

 

伊勢山皇大神宮(いせやまこうたいじんぐう)の裏参道から掃部山(かもんやま)へ続く道を行く。

 

 

 

すぐに紅葉坂(もみじざか)上に出る。
画面左手には神奈川県青少年センターなど文化施設。右折して坂を見下ろすところまで進む。

 

 

 

紅葉坂。かつての久良岐郡戸部村(とべむら)字宮ヶ崎(現在の西区宮崎町・西区紅葉ケ丘)。

このあたりは元々は野生の楓(カエデ)の山であり、野毛山は断崖絶壁が海に面した山であった。幕末開港期から明治初期にかけて埋立地造成のため山は削られ、やがて紅葉坂がつくられた。明治初期には坂の両側に紅葉やサクラを植えて名所となったが、大正期には次第に枯れてしまい大震災(1923)で跡形もなくなってしまった。

 

 

 

橋本玉蘭斎(=五雲亭貞秀・歌川貞秀)の「御開港横浜之全図」(ごかいこうよこはまのぜんず。増補再刻版。一部) 
画像出典 国立国会図書館デジタルコレクション 

 

安政6年(1859)の開港後、鉄道敷設(明治5・1872)より前、慶応元年(1865)頃の野毛山あたりの景観。
開港場の州干弁天社あたりから細長く延びる仮橋(文久元年・1861より後の架橋)の右、ゴツゴツした岩の断崖の野毛山が見える。

 

 

 

坂の下りはじめすぐの左手、青少年センターの傍らにある神奈川奉行所(かながわぶぎょうしょ)跡の碑。

 

江戸時代末期、この地には開港場設置の時期に合わせて神奈川奉行所(戸部役所。とべやくしょ)が置かれた(安政6年・1859)。この界隈は官舎や役人子弟の学校(修文館)が立ち並び官庁街を形成した。

 

 

 

江戸時代の神奈川奉行所(戸部役所)。
画像出典 グラフィック西・目でみる西区の今昔(昭和56年(1981)西区観光協会発行) 

 

役人たちはここから馬で山を下りて吉田橋から開港場(関内)の運上所(うんじょうしょ。現在の横浜税関)へ通った。戸部役所は管轄する横浜町・太田屋新田・野毛町・戸部町・神奈川宿などの内政の一切を取り仕切り、横浜(関内)の運上所は奉行所事務のうち関税・外務を司る。

 

戸部の山上に役所が設けられたのは外国人に対して内政を秘密にしておくためであり、この地が断崖上の要害で開港場の監視に都合がよく、いざという時はここを城砦とする意図があったという。

 

やがて明治元年(1868)、政権が明治新政府に移ると戸部役所は戸部裁判所に、横浜の運上所は横浜裁判所に、両者を合わせた神奈川奉行所はのちの神奈川裁判所に引き継がれた。まもなく神奈川裁判所は神奈川府と改称、戸部裁判所は横浜裁判所に吸収される。戸部には官舎だけが残り官庁所在地としての役割は終わりを告げた。

 

現在、紅葉ケ丘の一帯は青少年センターや図書館、音楽堂、能楽堂など県や市の文化施設が集積するゾーンとなっている。

 

 

 

日本大通(にほんおおどおり)の開港資料館旧館に展示されている、慶応元年(1865)の横浜。

 

 

 

慶応元年(1865)の横浜と現在の市街地を重ねた概念図。

 

このころは桜木町駅(初代横浜駅)周辺はまだ海上(入り江)であり鉄道敷設のための築堤はなされていない。

 

初めに整備されたのは野毛切通(のげきりどおし)から吉田橋を経て開港場に至る横浜道(よこはまみち)であり、当初は神奈川奉行所(戸部役所)から野毛切通を馬で下って運上所に通ったのであろう。

 

 

 

横浜税関の資料展示室に展示されている、運上所の役人(下番)の制服。

 

神奈川奉行所は奉行以下、事務職の組頭(くみがしら)・調役(しらべやく)・定役(じょうやく)などと、現場で働く同心(どうしん)・肝煎(きもいり)に奉行所附上番・下番などで組織された。
上番は武士階級、下番は近在の村役人クラスの子弟が採用され監視・警備にあたった。

 

 

 

県立音楽堂。昭和29年(1954)築。

 

終戦後からつくられ始めた公立の音楽専門ホールの草分け。関内界隈の長期接収は横浜市の戦後復興を大きく妨げたが野毛山界隈は接収を免れ、あるいは比較的早く接収が解除された。

 

ホール内装が全て木造という特徴を持ち「木のホール」と呼ばれる。機能的なすっきりとした外観でありつつも庇(ひさし)の穴あきブロックの装飾がアクセントになっている。

 

設計は日本におけるモダニズム建築の先駆者・前川國男(1905〜1986)。氏自身も初めての音楽ホールの設計とあってロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールの音響設計を研究して大いに参考にした、という。隣接する図書館ともども近代主義(モダニズム)建築を代表するひとつに数えられる。

 

 

 

ホワイエ(ロビー)。天井の傾斜は客席の傾斜。ガラス張りの明るく開放的な壁面は、内と外の連続性を特徴とする日本建築の要素を意識している。

 

普段は有料コンサートの入場者や貸切行事の関係者以外はホール内を見学できない。が、年に数回割安な入場料で「音楽堂建築見学会」が催される。

 

ここからは「音楽堂建築見学会」にて撮影。

 

 

 

 

コンクリート製の躯体の中に木のホールがすっぽりと収まっている。演奏家の方いわく、ホール全体を共鳴させる楽器のようだ、とのこと。

 

この音楽堂は外観設計も含めて講演された建築学の藤森照信氏いわく「ヒューマンスケール」を感じさせる、という。時代の記念碑的な人間を超越した建築とは対極の、人間味を感じさせるところが魅力のひとつでは、とのことだった。そういえば先生、「これくらいの規模のホールはヨーロッパであれば王侯貴族の個人所有もありますからね」ともおっしゃっていた。

 

 

 

舞台正面の、オーケストラピット。オペラなどのオーケストラがここで演奏する。
年代物の(2014年で還暦を迎える)このホールは設営を手動で行わなければならない。現在の大型ホールのそれよりも深さが浅め、とのこと。

 

 

 

舞台脇の、照明室より。舞台正面の奥のでっぱりは、大編成に対応するための張り出し舞台。見学会に合わせて一部分を設営して見せてくれた。

 

 

 

見学会・講演会に引き続いて行われた、ミニコンサート。今回はプロのハープ奏者による演奏。右のハープは音楽堂の備品で、たまたま演奏者のそれと同じメーカー・モデルのものだった。音響体験ということで備品のハープをホール・舞台のあちこちに移動して聴かせるというユニークな演奏会だった。

 

 

 

リハーサル室などのバックヤードも見学会に合わせて開放された。

 

 

 

庇の上は、ベランダになっていた。普段は立ち入ることができない。

 

 

 

正面に青少年センター。

 

 

 

終演後の、ホワイエ(ロビー)。

 

 

 

コンクリート柱には、型枠の木目が浮き出ている。
講演された藤森さんの「一般の方には化粧っ気のないコンクリートの打ちっ放しかもしれないが私たちには木造建築に通じるものを感じる。伊勢神宮と思って見てやってください(笑)」とのコメントには妙に納得して笑ってしまった。

 

 

 

青少年センター。

 

 

 

図書館。

 

 

 

音楽堂。

 

 

 

ここまで、音楽堂建築見学会にて撮影。

 

 

 

 

 

 

 

県立図書館。昭和29年(1954)築。
音楽堂と一体的な外観。図書館・音楽堂ともに前川國男(1905〜1986)による設計。

 

音楽堂は「図書館に併設する公会堂」という形で建設された。まだ終戦後間もなく文化施設につける予算に窮していた時代であったが、当時の内山知事のこのアイデアで議会を説得し建設が実現した。
両施設ともに古い建物であるが、コンクリートは現在のそれよりも強靭にできている。音楽堂建築見学会の資料によると当時コンクリートは機械ではなく手でこねて塗り固めたので水分が少なく非常に硬い、とのこと。ドリルの歯がこぼれてしまうような硬さ、だそうだ。

 

 

 

吹き抜けの、一階閲覧室。

 

 

 

 

 

 

 

二階閲覧室。穴あきブロック越しの柔らかな光が差し込む。

 

 

 

県立青少年センター。こちらも前川國男による設計。図書館・音楽堂よりやや遅れて造られた。大きく張り出し、柱で支えられた庇(ひさし)が特徴的。

 

 

 

図書館脇から能楽堂・掃部山(かもんやま)公園へ。

 

 

 

横浜能楽堂。平成8年(1996)築。
外観は日本建築の要素を装飾に取り入れた現代建築。

 

 

 

横浜と能との関わりは明治23年(1890)、野澤屋の初代茂木惣兵衛(もぎそうべえ)ら横浜財界人諸氏の手により完成した伊勢山皇大神宮能楽堂(関東大震災で焼失)に遡る。明治29年(1896)には社務所と一体の見所(けんしょ。客席)も完成。これは近代の能楽堂形式の舞台としては日本で最も古い部類であり、明治14年(1881)に完成した東京の芝能楽堂(九段能楽堂として現存)に次ぐものであった。

 

明治維新(1868)の当時、それまで為政者(将軍・大名)の保護を受けてきた能楽界は存亡の危機に立たされる。そうした中、華族諸侯の能楽熱の高まりにより明治14年(1881)に能楽社が設立、徐々に再興の兆しが見えてくる。明治から大正にかけて造られた能舞台はそうした時代背景のもとにあった。

 

 

 

玄関の上には寺院建築で見られる菱格子欄間(ひしごうしらんま)の意匠が用いられる。
柱と梁が交わるところは木鼻(きばな)のように突き出たデザイン。ゆるい曲線を描く現代的なデザインの破風(はふ)を設けその下にはこれまた現代的なデザインの蟇股(かえるまた)があしらわれている。

 

全体的には、現代建築に伝統を加味したポストモダンのテイスト。

 

 

 

玄関ホール。
内装にも伝統的な書院造に見られる筬欄間(おさらんま。棒材を縦にびっしり並べたデザインの欄間)の意匠が用いられる。

 

 

 

玄関ホール天井。

 

 

 

一階資料コーナー。

 

能楽堂の建設を推進したのは細郷市長(当時)であったが、健康上の理由で退任後、市内の能楽関係者は後任市長に誰が就任しどのような方針をとるかが気がかりであったという。後を受けた高秀市長(当時)は「僕は建設省にいた時、国立能楽堂建設の責任者だった。だから能のことはわからないが能楽堂のことはよく知っている。出来上がってから家元らからいろいろ問題点を指摘されたから横浜で建てる時はそういったところは全部なおすよ」といって関係者を安堵させた、という。

 

 

 

二階ホール。

 

 

 

二階見所(けんしょ。客席)出入口の扉。
敷地面積の制約から二階席が設けられることになった。

 

 

 

能舞台は、普段は2階からのみ見学できる。

 

復元された旧染井能舞台。由緒は以下の通り。

 

元は明治8年(1875)、旧加賀藩13代藩主・前田斉泰(なりやす)の東京・根岸の邸宅に造られた。斉泰もまた能楽社の発起人の一人であった。

 

大正8年(1919)には前田家の屋敷整理にあたり旧高松藩主・松平家の松平頼寿(よりなが)の東京・駒込染井の邸宅に移築。なお、移築を指揮した山崎楽堂(がくどう。静太郎)は現在磯子(いそご)区の久良岐(くらき)公園隣接地に移築されている久良岐能舞台の設計者でもある。
駒込にあったころには小津安二郎監督「晩春」(昭和24年・1949)で父娘(笠智衆と原節子)が能を見に行く場面の撮影にも使われている。
戦後は戦災から焼け残った数少ない舞台として活用された。

 

昭和40年(1965)老朽化により解体され保管。

 

昭和48年(1973)横浜市内在住の観世流能楽師田邊竹生が譲り受けてのち市に寄贈されしばらく保管。伊勢山能楽堂の大震災による焼失以来途絶えていた横浜の能楽堂の再建に向けて時を待つ。
やがて掃部山(かもんやま)の地に横浜能楽堂として復元。

 

 

 

屋根が掛けられているのは能舞台が屋外に設えられていたころの名残り。
舞台から白州に下りる階段は、階(きざはし)という。これもまた、能が武家の庇護を受けていた時代の名残り。

 

 

 

鏡板には通常の老松に加えて梅、笹(竹)が描かれているのが珍しい。

 

 

 

二階展示スペース。各種の展示会が催されている。

 

 

 

 

 

 

 

一階の見所(けんしょ。客席)。横浜能楽堂普及公演「横浜狂言堂」観覧の折に撮影。毎月第二日曜、手頃な料金で狂言を鑑賞できる。
野村萬斎(のむらまんさい)、茂山宗彦(しげやまもとひこ)といった狂言界を超えて活躍する狂言師の面々の舞台がときおり見られるのが「底抜けにぃ」うれしい。

 

 

 

脇正面(わきしょうめん)からの本舞台。
左側の本舞台への通路が橋掛り(はしがかり)。役者が登場する通路であり、舞台の一部でもある。

 

 

 

中正面(なかしょうめん)から。
舞台手前角の柱は目付柱(めつけはしら)といい、役者が舞台上の距離感を測る目安となる。

 

 

 

正面(しょうめん)最前列から。こちらは平成31年(2019)1月の「横浜狂言堂」のおりに撮影。

 

 

 

平成31年1月の「横浜狂言堂」は大蔵流・山本家一門が出演。新年に相応しい曲目の「福の神」と、「武悪(ぶあく)」が演じられた。このときは「福の神」という題からして正月らしくていい、というくらいの感覚で足を運んだのだった。

 

「横浜狂言堂」の魅力の一つに曲目の前または後に出演者による曲の解説や裏話が披露される「お話」がある。この回に「お話」をされたのは人間国宝・山本東次郎(やまもと とうじろう)氏。
その際に観客の質問を受け付けるのだが、今回はかなり造詣の深そうな年配の紳士からの質問(というよりはお願い)からの展開が驚きのものだった。

 

私は曲目には詳しくないので「藤原不比等」「海女」といったキーワード検索で後から確認したのだが、ざっと振り返ると次のような質問だった。「寝音曲(ねおんぎょく)」という狂言の曲目で舞が舞われるのだがそれは流派によって内容が異なる。大蔵流では能の「放下僧」より「小歌」という舞。和泉流では能の「海人」より「玉之段」という舞。山本家は大蔵流なので「玉之段」の舞は通常見られない。東次郎さんも御年80を超えられていられるのでお元気なうちに「玉之段」を是非拝見したい。こういった内容だった。
これに対して東次郎さんは「お元気なうちに」に苦笑されつつ、横浜では来年度は12か月連続の企画公演「東次郎 家伝十二番」を演ずるので「狂言堂」の「お話」のような機会が持てないから、と言われて特別に「玉之段」を舞ってくださったのだ。
舞台からササササッと小走りで橋懸りを渡り揚幕の脇からひょいと裏に回っていったかと思うと、戻ってこられるなり「皆着替えてしまったので裃を着るのにちょっとお時間をいただきます」。地謡をされる一門の皆さんの準備が整うまで面(おもて。お面)にまつわる裏話を披露され、そしていよいよ準備が整うと、「玉之段」を即興で舞ったのだった。
普段から稽古にさほどは時間を割かないであろう他流派の地謡に舞。突然のリクエストにいともた易く応えるプロフェッショナルの凄み。そして、何といっても御年80越とはとても思えない、その鬼気迫る舞を正面最前列で目の当たりにする。その迫力たるや、まさしく鳥肌ものだった。

 

 

 

能楽堂の脇から掃部山(かもんやま)公園へ。

 

 

 

掃部山(かもんやま)公園。
大正3年(1914)開園、広さ約2.5ヘクタール(100m四方×2.5)。

 

明治初期は蒸気機関車用の用水池(「ブラタモリ」では普段立入のできない横井戸(よこいど)が紹介されていました)が設置された鉄道用地の山であったが旧彦根藩士有志が井伊直弼の記念碑建立のための用地として購入。井伊家の所有となり、直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)にちなんで掃部山と称される。記念碑は銅像として明治42年(1909)に竣工。

 

大正3年に井伊家当主井伊直忠が土地と銅像などを市に寄付、整備されて公園となった。

 

当時の横浜市(合併拡大前の横浜市域)の公園は外国人専用の山手公園、日本人と外国人共用の横浜公園(明治末期までは通称の彼我公園)だけであり、それらに続く公園となった。
なお、当時すでに公園を補うように原三溪(富太郎)の私園が明治39年(1906)より「遊覧御随意」の表札を掲げ三溪園として一般開放されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井伊直弼の像。その姿は直弼の官位に従った衣冠・束帯の正装。初代は戦時中に金属回収により撤去され、戦後の昭和29年に再建された。

 

 

 

大老がみなとみらい地区を見守るかのごとき風情。
台座の設計者は、神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)や赤レンガ倉庫(旧新港埠頭1号・2号保税倉庫)の設計でも知られる妻木頼黄(つまきよりなか)。

 

 

 

 

 

 

 

銅像の広場から下りていくと、庭園がある。

 

 

 

公園案内図。 案内図拡大版

 

 

 

一番下の出口へ。

 

 

 

擁壁の石積みには長手(ながて)と小口(こぐち)が交互に並ぶ洋風のブラフ積が見られる。ブラフ積は外国人居留地であった山手によく見られるが、このようにもう一つの山の手である野毛山・戸部界隈にも残されている。

 

この界隈は鉄道開通を請け負ったエドモンド・モレルら鉄道技師の官舎があったところでもある。モレルは山手の外国人墓地に眠っている。

 

 

 

掃部山のふもと、公園出口。

 

 

 

掃部山公園から岩亀稲荷(がんきいなり)へ。
正面すぐの突き当りが岩亀横丁(がんきよこちょう)。突き当りを、左折。

 

 

 

岩亀横丁を、数十メートル先へゆく。

 

開港期の歓楽街は、当初の港崎遊郭(みよざきゆうかく。現在の横浜公園・横浜スタジアムあたり)が慶応2年(1866)の大火で焼失。幾たびの再建を経て明治5年(1872)高島町に移る。
なかでも岩亀楼は遊郭で一、二を争う大楼といわれた。岩亀楼といえば港崎遊郭の時代に「露をだに いとふ倭(やまと)の 女郎花(をみなへし) ふるあめりかに 袖はぬらさじ」の辞世を残して自害した岩亀楼一の遊女・喜遊がその名を知られている。

 

ここ岩亀横丁には遊女たちが病に伏したとき静養する寮があったという。

 

 

 

花屋と仕立て屋に挟まれた路地奥に、岩亀稲荷はある。

 

 

 

岩亀稲荷の門。祝日の休業日であったこの日は閉門だったので改めて出直し。

 

 

 

 

 

 

 

遊女の柳腰を思わせる灯籠。

 

 

 

路地の奥へ。

 

 

 

 

 

 

 

遊女達がお参りしていたというお稲荷様。地域の人たちによって守り継がれている。

 

 

 

岩亀横丁を少し進むと、戸部四丁目。
ここから地下鉄ブルーライン高島町(たかしまちょう)駅方面へ、戸部七丁目まで行く。この道筋が、開港時に設けられた横浜道(よこはまみち)。ということは、この道から海側は幕末の開港当時はすべて海中だった。

 

 

 

戸部七丁目交差点。高島町駅はすぐそば。ここで、二代目横浜駅の遺構に寄っていく。

 

 

 

JR京浜東北・根岸線ガードのすぐそばに建つマンションの公開敷地内に、遺構はある。

 

 

 

 

 

 

 

二代目横浜駅。明治5年(1872)開業の初代横浜駅(現桜木町駅)は明治20年(1887)の東海道線一部開通により神奈川・横浜(現桜木町)・保土ヶ谷間がV字型のスイッチバックになって不便になり、神奈川・保土ヶ谷間の短絡線の時代などを経て、大正4年(1915)この地(高島町)に新たな駅が造られた。

 

二代目は当時の神奈川県庁舎や横浜市役所にもデザイン的に似た、赤レンガ・白い花崗岩の壮麗な駅舎であったが、関東大震災(大正12年・1923)のためにわずか8年で壊滅してしまった。のち横浜駅は、神奈川により近い現在の位置に移る(三代目横浜駅)。

 

 

 

赤い点線枠の部分が残されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらが二代目横浜駅の案内板に記されていた、横浜共同電燈会社裏高島発電所第二海水引入口の遺構。
二代目横浜駅よりもさらに古い時代、明治40年(1907)ころの構造物。駅の基礎よりもさらに深いところで発掘された。

 

 

 

ここから地下鉄ブルーライン高島町駅はすぐ近く。

 

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