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野毛山界隈〜開港場の、もう一つの山の手〜


3.野毛山公園から伊勢山へ

2.野毛山公園、はこちら。


成田山(なりたさん)横浜別院(野毛不動)、伊勢山(いせやま)皇大神宮へ




野毛山(のげやま)公園の、図書館横の入口。




野毛山公園歴史地図。




野毛坂の左手に見えるのが、野毛山公園に隣接する平沼専蔵邸跡。石垣が明治中期の遺構として残されている。

なお平沼姓といえば江戸時代天保年間(1830年代)に平沼新田(現在の西区平沼のあたり)の埋め立てをおこなった平沼九兵衛(五代目〜七代目)がいるが、九兵衛は明暦年間(1650年代)に保土ケ谷宿に移り住んだ商人で平沼専蔵とは同じ一族ではない。









ここの石垣は洋風のブラフ積ではなく、和風の並亀甲積(へいきっこうづみ)。擁壁の上には煉瓦塀が設けられている。
レンガの積み方は、長手積(ながてづみ。長辺を表に出す)と小口積(こぐちづみ。短辺を表に出す)の段を交互に積むイギリス積。









野毛切通(のげきりどおし)方面。




野毛切通(のげきりどおし)。もともと江戸時代には野毛の山には細々とした保土ケ谷道(ほどがやみち)が通っていた。それは助郷(すけごう)など様々な用事のため保土ケ谷宿と戸部村(とべむら)・漁村の野毛浦(のげうら。現在の野毛町)を結ぶためのものであった。
幕末の開港期になると、横浜道(よこはまみち)として切通が設けられ拡幅。さらに関東大震災からの復興期と、時代を重ね順次拡幅されてきた。

道の向こう側に見える石垣は震災復興時(昭和3年・1928)の擁壁。間知石風(けんちいしふう)割石(わりいし)練積(ねりづみ)の石垣が連なっている。




震災直後の野毛切通。安政6年(1859)の開港時に整備された切通は明治6年(1873)にアメリカ人の手により切り下げ(道の掘り下げ)が行われ、その後も震災前までに切り下げられている。当初の山道と比べると度重なる切り下げにより勾配はだいぶ緩やかになった。
画像出典・ものがたり西区の今昔(昭和48年(1973)西区観光協会発行) 




画像出典 開港130周年・市政100周年・図説横浜の歴史(平成元年(1989)横浜市市民局発行)。

開港直前(安政5年。1858)の横浜。まだ神奈川宿(図右下)のあたりから海沿いに開港場(関内)に至る道(のちの横浜道)はない。開港場(関内)のあたりは砂州が横に延びており、横浜村と呼ばれていたころ。

このままでは神奈川宿から開港場へ行くには船で渡るか、さもなくば東海道をそのまま進み保土ケ谷宿の手前辺りで保土ケ谷道を経由して野毛浦から入るかしかなかった。

そこで芝生村(武州橘樹郡芝生村・たちばなぐんしぼうむら。現在の西区浅間町(せんげんちょう)あたり)から、帷子川(かたびらがわ)河口の岡野新田・平沼新田の海岸沿いを突っ切り、戸部村から野毛山の断崖を迂回するように野毛切通へ上がっていく道が付けられた。これが横浜道と呼ばれる。

保土ケ谷宿から開港場に至る保土ケ谷道の、野毛浦の手前あたりが野毛切通。保土ケ谷道の一部が横浜道の一部として拡幅・整備された。



ここで東海道・芝生村の横浜道分岐から吉田橋まで、幕末の錦絵(横浜絵。五雲亭貞秀「神奈川横浜二十八景之内」ほか)に従って道を追っていく。
以下、画像出典は特に記載なき限り国立国会図書館デジタルコレクション。



旧東海道・神奈川台(台町の茶屋街)を下りてきて軽井沢から芝生村へ。右下に横浜道分岐が見える。
街道の向こうに広がる入江(袖ヶ浦)は近代以降埋め立てられて現横浜駅(三代目・四代目)が建つ。入江の対岸(画面右上)は横浜開港場。




横浜道分岐に入って最初の橋、新田間橋(あらたまばし)。その先に平沼橋、石崎橋(現敷島橋)、野毛の断崖が見える。
画像出典 グラフィック西・目で見る西区の今昔。

なお現在の石崎橋は、横浜駅の高島への移転(二代目)にあたり旧石崎橋が横浜道とともに上流側に付け替えられた際に架けられた。その後さらなる横浜駅移転(三代目)にともない横浜道は元の道筋に復旧、改めて元の石崎橋の位置に架けられた橋が敷島橋と名付けられた。 
また、新田間橋は当初岡野橋となる予定であったが、歌心のある岡野勘四郎がこれを断って「あらたま橋」(新田と新田の間の橋)という響きの良い名を提案した。実業家・岡野家の当主である岡野勘四郎(良哉)は神奈川・三宝寺の住職である弁玉(べんぎょく。僧侶にして歌人)の門下であった。




新田間橋。新田の水際に沿って進む。




平沼橋。錦絵では本沼橋と記されている。対岸は神奈川宿から生麦。




平沼・岡野新田を俯瞰した図。中央の大きな橋が平沼橋。正面は神奈川宿・台町(だいまち)。
画像出典 グラフィック西・目で見る西区の今昔。




石崎橋を渡ると戸部の町。




戸部の町。中央に伊勢山(伊勢の森)。右上が野毛切通入口。




切通をゆく。左下に野毛の町、都橋(旧称野毛橋)、吉田新田。

なお、現代にこの雰囲気を味わいたい方にお薦めなのが、金沢道の切り通し。金沢文庫駅から市境広場を経て鎌倉天園へ至る六国峠ハイキングコースの入口から切通が始まる。金沢道は保土ヶ谷宿・金沢横丁から金沢八景を結ぶ中世〜近世の古道であるが、ハイキングコース入口から能見堂跡の辺りにかけて往時の状態がよく保存されている。




野毛切通。山道だった保土ケ谷道は、その一部が横浜道と重なり大々的に開削された。坂から開港場を見下ろす。
画像出典 グラフィック西・目で見る西区の今昔。

安政6年(1859)の開港により忽然と出現した幕末の横浜は、新たな観光名所となった。その姿は年を重ねるごとに目まぐるしく変わっていく。蒸気船(黒船)や外国人たちの姿は、江戸藩邸勤めの武士や江戸の町人、東海道沿線の庶民らの大いなる興味をそそり、多くの人々の足を横浜へ向かわせた。


幕末期といえば、文久年間(1861〜64)の頃に歌われ始めたという「野毛山節(ノーエ節)」が知られている。「野毛の山からノーエ」「代官山からノーエ」と唄われる野毛山節。その歌詞には、開港場の外国人たちの様子が活き活きと描かれている。「野毛山節・ノーエ節(三味線版・youtubeへリンク)」

横浜道の途中、野毛山の山上には幕府の奉行所が展開していた。「代官」とは庶民が「御奉行」のことをそのように唄っていたのだろう。江戸時代の町奉行はそれまで限られた都市にしか存在しなかったので、一般庶民にはお役人といえば代官のほうが馴染み深いかもしれない。
当時の横浜はまだ山下町だけが外国人居留地。そこには白亜のジャーディン・マセソン商会(英一番館)をはじめとした異人館が建っていた。異人館とはいえ、建物はまだ和風が多かった。
山から異人館を見れば、赤いズボンの異人さんはラシャメン(洋妾)と二人、抱っこなんかしてイチャイチャしている。
開港場の沖合には煙突から黒煙を吐く蒸気船が幾多も停泊している。
文久2年(1862)に起きた生麦事件の翌年には居留民保護の名目で、イギリス・フランスが現在の山手に軍隊を半ば強引に駐屯させた。山手の台地に兵舎を設営し居留地界隈で演習を行っていた彼らは、その制服の色にちなんで日本人には「赤隊」「青隊」などと呼ばれた。
下関戦争(元治元・1864)の際には英米仏蘭四か国連合艦隊が横浜から出航。同年、イギリス軍は居留地背後の埋立地において戦勝を祝し、洋式訓練中の野毛の幕府軍と共同閲兵式を挙行している。




仏蘭西英吉利西三兵大調練之図(画像結合はサイト管理者)。
慶応三年(1867)に出版された錦絵。フランス軍とイギリス軍の調練の様子が描かれている。


幕末の庶民たちはそんな西洋列強を恐る恐ると、しかししたたかに、遠巻きに眺めていたのであろう。歌詞に出てくる「ズボン」を始め、「ヘップバーンさん」が「ヘボンさん」と呼ばれた様に人々が耳で聴きとった外国語は、開港場発の新たな言葉として広まっていく。

こうした時代の中、おそらく野毛山節は開港場の歓楽街・港崎(みよざき)遊郭のお座敷歌として姐さん達に唄われていたのだろう。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯(四隻)で夜も眠れず」と詠まれた狂歌を引き合いに出すまでもなく、昔から日本の庶民が即興で世相を切り取って面白おかしくはやし立てる能力は、目を見張るものがある。

ところで、歌詞の「オッピキヒャラリコ ノーエ」とは何らかのお囃子のようだが、詳細はよくわからない。
おそらくピーヒャラピーヒャラみたいなものなのだろう。駐屯軍の軍楽隊の演奏を耳で聴いたままに表現したものではないだろうか。
「チーチーガタガッテ」に至っては一体何の音か、想像するのも難しい。もしこれも軍楽隊の音であると想像するなら、これは多分シンバルや小太鼓の、現代風にいえば「ジャーンジャン、ズンタカタッタ」といったところか。
安政元年(1854)のペリー上陸以来、軍楽隊は東洋の小国日本の民に対してその勇壮な音楽を半ば威圧的に高らかに吹奏していたに違いない。ところが、当の我々の先人たちは委縮するどころか「オッピキヒャラリコ、チーチーガタガッテ、ノーエ(No,Yes)!」と茶化してお座敷で三味線を弾いていたのだとしたら、これは愉快というほかない。



横浜高台英役館之全図(部分) 画像出典・図説横浜の歴史 
このイギリス軍隊(赤隊)の錦絵は、駐屯縮小の直前となる明治二年(1869)頃に描かれたもの。先頭に軍楽隊が見える。背後の建物は、居留地となった山手に慶応三年(1867)に建てられた英国公使館関連の建物。落成記念パレードか何かだろうか。

大英帝国の行進曲は数あれど、「The British Grenadiers fife and drum(笛・太鼓版。youtubeへリンク)」「ブリティッシュ グレナディアーズ 擲弾兵行進曲(吹奏楽版。youtubeへリンク)」あたりがここではイメージ的にしっくりくる。



横浜港崎廓岩亀楼異人遊興之図(画像結合はサイト管理者)。
幕末期、開港場の歓楽街。ここでは日本人、外国人問わず遊興に耽っている。仮にここで野毛山節が弾かれていたら、と想像するとちょっとワクワクする。


そんな幕末の光景も、時代が明治に入っていくと次第に様変わりしていく。

明治維新の政権交代期、権力の空白状態が生じた横浜では、居留地および日本人町は駐屯軍の警備のもと西洋列強諸国の管理下に置かれた。江戸の人々も内乱の余波を恐れて多数が横浜へ避難してきた、という。
明治新政府は独立主権国家としては不名誉な列強の軍隊駐屯を、治安確保と引き換えに縮小するよう諸外国に働きかけていく。生麦事件の後も鶴岡八幡宮そばで起きたイギリス士官殺傷事件・港崎遊郭で起きたフランス水兵殺傷事件など幕末期までは血生臭い事件が絶えなかったが、山手は次第に駐屯地から領事官邸などが建つ新たな居留地へと変貌していった。
歓楽街として設けられた港崎遊郭は開港場を襲った慶応2年(1866)の大火で焼失、関外へ移転。跡地はのちにクリケット・野球グラウンドなどを備えた彼我公園(現横浜公園)となった。かのジャーディン・マセソン商会もこの大火で当初の建物を焼失している。
明治4年(1871)には治安対策で設けられていた各所の関門が廃止され駐屯地の兵力も大幅に削減。明治8年(1875)に至ると両国軍隊は完全に撤兵、日本を離れた。
明治5年(1872)には横浜停車場(現桜木町駅)の陸蒸気(鉄道)も開通し、横浜の玄関口の役割は横浜道・吉田橋からそちらに移っていく。

いつしか野毛山節に歌われた光景は幕末期の過去のものとなっていった。明治の世が目まぐるしく動き、次から次へと新しいものが現れる中、人々の興味は移ろいやすい。野毛山節も次第に忘れられていったのだろう。そんなところも横浜らしいといってしまえばそれまでだが、ちょっと物悲しい。


なお、野毛山節の節回しは、幕末の時をほぼ同じくして静岡の三島でも「農兵節(ノーエ節)」として親しまれている。農兵隊については町田市小野路宿・小島資料館を参照。

民謡などの大衆文化の起こりは伝承によるところが多く、伝承であるならばどちらが元かは確かめようがない。ただ、同じような時期に世相を反映して唄われていたことだけは確か。
農兵節は「富士の白雪ノーエ」と唄われる、響きの良い歌詞。昭和初期にレコードとなったこともあって、全国的にはこちらの方がはるかに知られている。日本人の琴線に触れる「富士の白雪」を歌詞に持つ農兵節は、野毛山というローカルな地名や幕末開港期の異人さんの物珍しい様子よりも、近代化を突き進む時代の流れの中で人々に歌い継がれやすかったのだろう。ノーエ節の節回しが全国的に知られているのは農兵節に負うところが大きいのは、紛れもない。




野毛の町から都橋(野毛橋)へ。




都橋から吉田新田沿いに、吉田橋へ。
吉田橋が鉄の橋になるのは明治2年(1869)。幕末期は大きな太鼓橋が架かっていた。




吉田橋を渡ると関門があり、横浜道の終点。ここから内海沿いに進む。




弁天社前。




開港(安政6・1859)直後の横浜(画像結合はサイト管理者)。 拡大版
横浜道の終点・吉田橋から先は、街ができたばかりの頃の横浜。なお山手側の堀川(中村川)が開削されて居留地と元町が隔離されるのは万延元年(1860)。この絵はそれ以前の風景を描いたものになる。


時代が明治に入ると横浜道のさらに沖合が高島嘉右衛門(たかしまかえもん)によって築堤され、明治5年(1872)に東京(新橋)と横浜(開港場)を結ぶ日本初の鉄道が開通した。初代横浜駅の歴史はこちら。
高島嘉右衛門は横浜開港期の実業家。海上に築堤された鉄道敷設用地の土木事業やガス事業会社の設立、あるいは高島易断でその名を知られる。




交差点の手前が現在の野毛坂(野毛山公園方面)。左手が野毛切通(かつての横浜道)。

交差点をまっすぐに、野毛坂を直進。




野毛坂を野毛町方面へ下りてゆく。

この道筋が、横浜道の続き。この先、野毛の街を抜けて都橋(みやこばし)を渡り、吉田町を抜けていくと横浜道の終点・吉田橋に至る。安政六年(1859)横浜開港以来の道筋。
吉田橋を挟んで海側(関内)には馬車道が、内陸側(関外)には伊勢佐木町が延びる。

開港後は吉田橋の関門の内(関内)の日本人居住区(本町通り周辺)には江戸の大商人や貿易などで大成功をおさめた豪商の大店(おおだな)が立ち並んだ。
一方、関門の外(関外)には中小の日本人商人が多く移り住んだ。人の集まるところには寺院も多く立ち並ぶ。野毛や伊勢佐木はそうして発展してきた。今でも仏具店が数件ある。




坂を下りた辺りで左折し、動物園通りへ。




動物園通りから、ちぇるる野毛(野毛地区センター)の角を右に曲がる。左手の黒っぽいビルはにぎわい座の入るビル。

正面に見える、通りの向こうは野毛町の繁華街。横浜の下町といわれるこの町は、入り江の向こうの横浜村に開港場(関内)が設けられた直後から人々が流入し、野毛浦とよばれた漁村から賑やかな町へと変貌していった。




日本大通(にほんおおどおり)の開港資料館旧館に展示されている慶応元年(1865)当時の横浜(関内地区)の模型。出島状態の開港場があり、右上には横浜道に沿って野毛町・吉田町の街が形成されている。




模型のすぐ下に掲示されている、現在の地図を対照させた概念図。 概念図拡大版

安政六年(1859)の開港から6年後の慶応元年(1865)、慶応二年の大火(1866)の直前のこの図では、明治に入ってから鉄道開通(明治五年・1872)の頃までに急激に発展を見せる馬車道・伊勢佐木町の町並みはまだ形成されていない。

幕末の開港場の詳細は、開港場の土木遺産・記憶の遺産のページを参照。









にぎわい座は平成14年(2002)に開館。その昔伊勢佐木町にあった賑座を連想させる名前が付けられた。明治大正期の伊勢佐木は無数の芝居小屋が立ち並び、大衆娯楽文化が大きく花開いた時代でもあった。

にぎわい座を後に、野毛不動へ。




先ほど通ってきたちぇるる野毛の角まで戻り、正面をまっすぐに行く。




道を左に入る。




成田山横浜別院(延命院)、通称野毛不動。その始まりは明治3年(1870)、開港場に集まってきた人々のかねてからの念願で太田村(現在の南区西中町)普門院境内に遥拝所が設けられたことに始まる。
のちに高島嘉右衛門(たかしまかえもん)の寄進により当地に明治10年(1877)成田山教会所を開設、明治26年(1893)「成田山延命院」となる。




開港場の東の山手に外国人のためのカトリックや聖公会の教会が立ち並んだのと同様、西の野毛山には神社仏閣が立ち並ぶこととなった。




平成25年(2013)現在、本堂は建て替えのさなか。今回取り壊された本堂は戦災後の昭和29年(1954)、物資も十分でない時代に再建された堂宇で老朽化していた。




新本堂完成予想図。









参道の石段はこれが見納めになりそう。




右に手水舎、中央に参道石段、奥が伊勢山(いせやま)皇大神宮(こうたいじんぐう)への道。




伊勢山皇大神宮へは旧本堂に向かって右脇の道をゆく。




道を折れるとすぐに大鳥居が見える。




伊勢山皇大神宮の表参道。




案内図。














伊勢山皇大神宮。
それまでは砂州の先端にあった洲干(しゅうかん)弁天社が横浜村の頃からの鎮守であり幕末の開港期からしばらくの間は弁天社が存続していたが、明治3年(1870)、戸部村東部・伊勢の森と呼ばれたあたり(現在の掃部山(かもんやま)公園のふもと辺り)にあった小さな祠を時の県知事のお達しにより野毛山(のげやま)に遷座。
伊勢山皇大神宮と称して横浜の総鎮守と定められた。以後、この地を伊勢山(いせやま)と呼ぶようになる。




神明造の神殿。関東大震災(大正12年・1923)で倒壊後、昭和3年(1928)再建。




祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。拝殿の千木(ちぎ)が水平にそがれているのは、俗説には祭神が女神であることを示すなどといわれる。
ちなみに男神の場合は垂直にそがれる。




拝殿の奥に並ぶ本殿。














裏参道へ通じる鳥居。














茶寮。














裏参道から掃部山(かもんやま)へはまっすぐ行くとすぐ。


4.伊勢山から掃部山へ  まち歩きトップへ戻る