まちへ、森へ。

彼岸花(ヒガンバナ)

西方寺の彼岸花

 

横浜市港北区・市営地下鉄ブルーライン新羽(にっぱ)駅からすぐ、大型園芸店のヨネヤマプランテイションと道路を隔てて隣り合う地に境内を構える西方寺(さいほうじ)。
鶴見川サイクリングコースの利用であれば新横浜公園遊水地のあたりから支流の大熊川沿いに進み、緑産業道路(港北産業道路)に入ってすぐ。

 

秋のお彼岸入りを迎えるころ、参道には色とりどりの彼岸花(ヒガンバナ。曼珠沙華)が見事に咲きそろう。

 

 

平成27年(2015)、秋のお彼岸の入りの頃。お墓参りにやって来る人、ヒガンバナを見に来た人と、多くの人で賑わう参道。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妖しい美しさを見せる赤いヒガンバナは曼珠沙華という響きもまた、よく似合う。

 

 

 

山門前の参道石段の両側には赤や白のヒガンバナのほか、珍しい黄色のヒガンバナなどの花々が咲きそろっている。黄色のヒガンバナはピークを過ぎたようで終わった花が摘まれているものの、まだまだ見応えがある。

 

 

 

心を込めて手入れをなされている様子が伝わってくるよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三色そろい踏み。

 

 

 

真言宗補陀洛山(ふだらくざん)西方寺。

 

分厚い茅葺の山門。緑豊かな境内の裏山を従え、風情のある佇まい。

 

 

 

木鼻(きばな)、蟇股(かえるまた)の彫刻。

 

 

 

本堂。

 

縁起によれば西方寺は頼朝の治世となる建久五年(1190)、鎌倉の笹目ヶ谷(ささめがやつ。御成中学校の裏手あたりの谷戸)に創建。

鎌倉時代も中期に差し掛かるころ、北条重時(ほうじょうしげとき。極楽寺殿。第五代執権北条時頼を補佐した)が東国における真言律宗の一大拠点・極楽寺を創建した際に極楽寺の大伽藍付近に移転した。

現在地に移転したのは室町時代後期から戦国の世に変わりゆく明応四年(1495)。

その頃の鎌倉といえば、鎌倉を長い戦乱に陥れた享徳の乱(1455〜1483)の終息したころ。鎌倉公方(かまくらくぼう。鎌倉府の長官)足利氏はすでに古河に逃亡し鎌倉府は消滅、関東管領上杉氏が鎌倉の実権を握っていた。

現在の本堂は江戸時代中期の享保六年(1721)築。平成になって解体修理がおこなわれた。
創建当時の姿に復原されたというその姿は、向拝(こうはい)付き寄棟造(よせむねづくり)の大屋根が見事な茅葺屋根。横浜市域では古い写真記録のほかには目にすることの少ない、茅葺屋根の伽藍が現代に甦った。

 

 

 

向拝周り。

 

 

 

山門の向こうに見える鐘楼も茅葺。

 

 

 

境内前庭のヒガンバナ。

 

 

 

 

 

 

 

鐘楼は、江戸時代も前期から中期へと移ろってゆく宝永五年(1708)の築。宝永といえば富士山の宝永大噴火があったころ。

 

 

 

鐘楼の周り、咲き誇る黄色いヒガンバナ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花もそろそろピークから終盤へと向かう時期。咲き始めのころは芝生から新たな花芽が次々に伸びてくるので、撮影時には芽を踏んでしまわぬよう十分に気を配りたい。

 

 

 

ヒガンバナの美しい、秋の彼岸入り。

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