まちへ、森へ。

鶴見川流域、京浜臨海部のあゆみ

3.曹洞宗大本山總持寺、シァル鶴見屋上庭園

 

2.JR鶴見線・国道駅、海芝浦駅〜鶴見駅はこちら。

 

 

鶴見駅西口から、總持寺へ。
目の前にはSEIYU、鶴見区公会堂などが入居する複合ビル「fuga(フーガ)」。ペデストリアン(歩行者)デッキ上をゆく。

 

 

 

左手に見える高架はJR鶴見線の高架。下へ降りて、高架沿いの道を行く。

 

 

 

スクランブル式横断歩道の先、道の奥に大本山總持寺の案内板が見える。

 

 

 

禅宗寺院である、曹洞宗諸嶽山(しょがくさん)總持寺(そうじじ)。福井県の永平寺(えいへいじ)と並び立つ、曹洞宗の大本山。

 

 

 

總持寺が横浜鶴見の地に移転してきたのは、明治44年(1911)。
それまでは、能登国鳳至(ふげし)郡櫛比(くしひ)村(現在の石川県輪島市門前町)にあった。
同地の伽藍は明治31年(1898)の大火により大半を焼失(現在では總持寺祖院として残っている)。再建にあたり、皇居に近い地で新しい時代を見据えて、より一層禅の教えを広めるために現在地に移転。

なお、京浜地区には東海道にほぼ沿って各宗派の大本山がいくつか点在する。
東京・芝には浄土宗大本山・増上寺。東京・池上(いけがみ)には日蓮宗大本山・本門寺。川崎には真言宗智山派大本山・平間寺(へいけんじ。川崎大師)。そして横浜・鶴見の曹洞宗大本山・總持寺。
以上の四つを巡る、「京浜四大本山巡り」という公式サイトも設けられている。

 

 

 

広さ約33ヘクタール(100m四方×33)の広大な敷地を擁する、總持寺。参道を、奥へ。

 

大本山總持寺・節分会(せつぶんえ)はこちらのページへ

 

 

 

惣門(そうもん)となる、「三松関(さんしょうかん)」。大正9年(1920)築。

 

 

 

三樹松関(さんじゅしょうかん)と書かれた扁額(へんがく)。

 

 

 

門を内側から見る。こちら側に小さな切妻(きりづま)が二つ並ぶ、高麗門(こうらいもん)という形式。

 

 

 

 

 

 

 

境内の案内図。墓地を除いても相当の広さがある。

 

 

 

三門(さんもん。三解脱門(さんげだつもん)。山門とも称される)。堂々たる楼門は、鉄筋コンクリート造。

 

 

 

總持寺の山号である、諸嶽山(しょがくさん)の扁額が掲げられる。

 

 

 

 

阿形(あぎょう)の仁王像。

 

 

 

吽形(うんぎょう)の仁王像。

 

 

 

コンクリートで表現された、複雑な組物(くみもの)。

 

 

 

 

 

 

 

広大な境内。

 

中央の門から東側の庫院、中央の仏殿・法堂(講堂)、東側の方丈、西側に移動して僧堂、という順に境内を巡っていく。

 

 

 

向唐門(むかいからもん)。大正14年(1925)築。
元亨(げんこう)元年(1321)能登の地に創建された總持寺は、後醍醐天皇の綸旨(りんじ。天皇の勅命により書かれた文書)を賜り勅願寺(ちょくがんじ。天皇の祈願により建立される寺)となった。向唐門は勅使門(ちょくしもん。天皇の使者である勅使を迎える門)でもある。

 

 

 

門扉(もんぴ)に菊の御紋を戴き、優美な檜皮葺(ひわだぶき)の切妻屋根(きりづまやね)には正面背面に唐破風(からはふ)が設けられている。ベンガラ色の築地塀(ついじべい)には白い五本の筋が引かれ、大本山としての格式を示している。

 

 

 

背面側から見る、向唐門。

 

 

 

四脚の門は周囲に精緻な彫刻が施されている。

 

 

 

「三松閣(さんしょうかく)」。鉄筋コンクリート造。
檀信徒(だんしんと。檀家さんと信者さん)の研修、式典、宿泊などに利用される。

 

 

 

庫院(くいん。庫裏(くり)に相当)の、「香積台(こうしゃくだい)」。大正9年(1920)築。
境内の東に位置し、寺務所となる建物。参拝者の諸堂内部拝観(有料)や予約不要の座禅会参加(有料)などの総受付がある。

 

 

 

反りの入った切妻(きりづま)の堂々たる屋根に、切妻破風(きりづまはふ)の玄関。妻壁(つまかべ)には火灯窓(かとうまど。つりがね型の窓)などの装飾が施され、これぞ禅宗寺院の庫院といった造り。

 

 

 

通用門となる「金鶏門(きんけいもん)」と、回廊の百間廊下(ひゃっけんろうか)。大正4年(1915)築。

 

 

 

金鶏門から見る、百間廊下。百数十メートルはあろうかという、長い廊下。

 

 

 

修行僧により磨き抜かれ、黒光りする。

 

 

 

境内の中央奥へ。

 

 

 

両大本山共同の、東日本大震災復興支援プロジェクトが告知されていた。

 

 

 

仏殿(ぶつでん。本堂、金堂に相当)の、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」。大正9年(1920)築。

 

 

 

禅宗様(ぜんしゅうよう)の、堂々とした大きな仏殿。御本尊の釈迦如来(しゃかにょらい)が祀られている。

 

 

 

反りが入った入母屋造(いりもやづくり)の屋根、裳階(もこし。庇(ひさし))の下には、三手先(みてさき)の組物(くみもの)がびっしり並ぶ。

 

鎌倉時代以降、三手先の組物は五重塔・三重塔などに用いられ、禅宗以外の宗派では本堂には使われなくなってきている。平屋の本堂に裳階が付けられ二階建風に見えるのも、古代はともかくとして鎌倉時代以降では禅宗様の特徴となる。

 

 

 

屋根の軒下に見える垂木(たるき)は、四隅に向かって放射状に配された扇垂木(おうぎだるき)。扇垂木もまた禅宗様建築の特徴。裳階の垂木は、平行に配された平行垂木。

 

 

 

尾垂木(おだるき)の延びた三手先の組物。

 

 

 

つりがねに似た形の火灯窓(かとうまど)。縦にはめられた板壁。木枠に薄い板をはめた桟唐戸(さんからど)。いずれも禅宗様の特徴。現在では火灯窓は宗派を超えて広く用いられる。

 

 

 

 

 

 

 

基壇(きだん)に敷き詰められた石は、斜め45度の四半敷(しはんじき)となっている。

 

お堂の内部は、正面中央の小窓から拝観させていただいた。

 

 

 

床は和様(わよう)の様式で建てられた寺院の本堂とは異なり、禅宗様では床板を張らずに黒瓦(あるいは黒い石)を四半敷に敷く。
また、禅宗様の仏堂では中世の和様におけるそれのような内陣(ないじん。仏さまの空間)と外陣(げじん。参拝の空間)の区別もなく、参拝者は堂の外から参拝する。

 

 

 

建物の主体である屋根を支える柱と裳階の柱をつなぐ梁(はり)は、真っ直ぐな梁ではなく湾曲した海老虹梁(えびこうりょう)が用いられる。

 

いずれも禅宗様の特徴。

 

大雄宝殿は建物全体に渡って禅宗様の様式がそこかしこに見られ、總持寺の数ある堂宇の中でも最も見ごたえがある。なお、鎌倉の円覚寺舎利殿などに見られる古式ゆかしき禅宗様の仏堂は、横浜市域においては杉田の東漸寺にその姿が復元されている。

 

 

 

開山堂(かいざんどう。開祖を祀る堂)と法堂(はっとう。住持(じゅうじ。住職)による説法の場。講堂に相当)を兼ねる、「大祖堂(だいそどう)」。こちらは鉄筋コンクリート造。

 

鎌倉時代に總持寺を開山した瑩山(けいざん。1268〜1325)、曹洞宗を開いた道元(どうげん。1200〜1253)らが祀られている。

 

 

 

入母屋造の大屋根に、唐破風の向拝(こうはい。せり出した屋根)が付けられている。

 

 

 

 

 

 

 

桟唐戸にあしらわれた五七桐(ごしちのきり)紋は、總持寺の寺紋。

 

 

 

スケールの大きな大講堂となる大祖堂は、伽藍の諸堂の中で最も大きい。

 

境内の東側奥に位置する、方丈へ。

 

 

 

表方丈(おもてほうじょう)の、「紫雲台(しうんたい)」。大正4年(1915)築。
方丈とは住持の居室。なかでも表方丈とは總持寺の住持たる禅師(ぜんじ)が僧侶、檀信徒と会見する間をいう。内部は書院造となる。

 

入母屋造の屋根に、唐破風の向拝がせり出している。

 

 

 

紫雲台と書かれた扁額。

 

 

 

木鼻(きばな)の彫り物。

 

 

 

蟇股(かえるまた)の彫り物。

 

 

 

方丈は住持の生活の場であることもあり、お堂の様式は日本古来の和様を基礎にしている。

 

 

 

白壁の塗壁に直線的な格子窓、軒下の組物は簡素。めぐらされている濡縁は高欄(こうらん。手すり)付き。

 

 

 

紫雲台の方丈庭園となる、「紫雲庭(しうんてい)」。境内散策だけであっても回廊の下からその一端をわずかに覗くことができる。

 

 

 

紫雲庭。
画像出典・市民グラフヨコハマ「横浜庭園散歩」98号(平成8年・1996発行)。

 

 

 

「待鳳館(たいほうかん)」。主体部分は大正4年(1915)築。昭和32年(1957)移築。
總持寺における迎賓館としての役割を持つ。

 

禅宗様の「反り」が入った屋根の堂が多い總持寺にあって、待鳳館はふっくらとした「むくり」の入母屋屋根を持つ。この主体部分は尾張徳川家旧書院を移築したもの。
玄関部分は唐破風。こちらは大正元年(1912)築。主体部分は関東大震災(1923)で被災してしまい、玄関部分が残った。

 

 

 

梁をつなぐ、二段の蟇股(かえるまた)。

 

 

 

さながら御殿のような造り。

 

ここから、向唐門の背面を通って境内の西側へ。

 

 

 

向唐門の背後から見る、百間廊下の「中雀門(ちゅうじゃくもん)」。その奥には仏殿。

 

 

 

境内の西側。まずは、宝物殿(ほうもつでん)。所蔵物の展示(有料)がなされている。

 

 

 

大僧堂(だいそうどう)。昭和12年(1937)築。
境内の西に位置する僧堂は、修行僧の集う場。選仏場(仏祖を選出する道場)の扁額が掲げられる。
火灯窓がずらりと並ぶ。

 

 

 

百間廊下の下をくぐる。

 

 

 

衆寮(しゅりょう)。大正4年(1915)築。
かつては僧堂のひとつであったが現在は座禅堂として一般参禅者に開放されている。
扁額には「古教照心(こきょうしょうしん)」と書かれている。仏祖の教えにより己の心を照らす、といった趣旨。

 

 

 

左に、各建物をつなぐ回廊。直線的な連子窓(れんじまど)が設けられている。

 

右には「放光堂(ほうこうどう)」。明治44年(1911)移築。
現在では檀信徒の位牌がおさめられている。

 

 

 

左に鐘鼓楼(しょうくろう)。大正4年(1915)築。
梵鐘をはじめとする、合図のための打楽器が納められている。

 

右に放光堂。

 

 

 

放光堂。

 

 

 

蟇股(かえるまた)と欄間(らんま)に施された、浪形のみごとな彫刻。

 

 

 

放光堂の全景。安政年間(1850年代)の竣工とされるこの建物は境内で最初に建築(他の曹洞宗寺院より移築)された建物であり、当初は大祖堂として用いられた。

 

 

 

宝篋印塔(ほうきょういんとう)。その由来を記した碑が傍らにある。

 

 

 

境内の裏手に広がる、墓地。

 

 

 

訪れる人の多さゆえ、このような案内板がいくつか立てられている。

 

 

 

昭和の大スター・石原裕次郎が眠る。いつでも花が絶えない。

 

 

 

三門の脇から、高台へ。

 

 

 

大梵鐘(だいぼんしょう)の鐘楼。大正4年(1915)築。

 

 

 

大梵鐘。大晦日(おおみそか)には除夜の鐘を突くことができる。

 

 

 

鶴見線高架沿いに、帰途へ。

 

 

 

JR鶴見駅ビル[CIAL(シァル)」。(株)横浜ステーションビルが運営する[CIAL」のひとつ。
平成24年(2012)に新しく建て替えられたばかりのこのビルに、禅をコンセプトにした屋上日本庭園が設けられたので見に行く。

 

 

 

屋上に上がれるのはエレベーターのみ。

 

 

 

屋上庭園に通じるエレベーターホール。
床が禅宗様の仏殿の床に見られるような黒タイルの四半敷(しはんじき。斜め45度)になっている。
先に見たように、總持寺仏殿(大雄宝殿)の床もこのようになっている。ぜひ仏殿の小窓から拝観して見比べてみてほしい。

 

 

 

屋上庭園「清風苑(せいふうえん)」。
モダンな日本庭園は多目的スペースとして利用される。奥(超高層タワーの手前)には枯山水が見える。

 

 

 

枯山水(かれさんすい)「坐月庭(ざげつてい)」。
庭と対峙し、己と静かに向き合う空間。中央の石組みは三尊石(さんぞんせき)。真ん中に中尊を置き、両脇に石を添える。白い砂は水の流れに見立てられ、波紋が広がっている。
縁台(えんだい。ベンチ)が置かれている手前側には、石のタイルが四半敷に敷き詰められている。先ほど見てきた總持寺仏殿の基壇のそれのよう。

 

 

 

奥からは總持寺大祖堂の屋根が見える。

 

 

 

これらの庭園は、庭園デザイナーでもある鶴見区馬場「曹洞宗建功寺(けんこうじ)」住職の手によるもの。

 

 

 

5階エレベーターホール。
和の内装がふんだんに用いられている。5階には禅カフェ「坐月 一葉」なる店もある。屋上庭園といい、さすが禅宗大本山の街にふさわしい。

 

 

 

駅ビルを後に、旧東海道を生麦駅へ。

 

 

 

旧東海道の道筋で、偶然にも托鉢(たくはつ)の雲水(うんすい。修行僧)一行に出会った。

 

 

 

こんな風景も大本山の街・鶴見ならでは。

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