まちへ、森へ。

三島から箱根八里・西坂

山中城跡

 

箱根旧街道・西坂歩きはこちら。

 

(1)山中城岱崎出丸・西の丸・西櫓

 

 

ここまで三島からの箱根旧街道西坂を登ってきた。ここは旧街道・腰巻地区の石畳が国道一号に合流する地点。近くには「山中城跡」バス停がある。

 

ここで山中城跡を見学していく。大きな山城の山中城跡は、くまなく回れば二時間はかかる。

 

 

 

軽食も採れる売店。パンフレットや百名城スタンプも置かれ、山中城跡案内所を兼ねている。

 

 

 

山中城は小田原北条氏が街道沿いに築いた山城。

 

その築城は戦国時代中期の永禄年間(1560年代)。信玄による駿河侵攻がきっかけとなり、小田原の西の備え・兵站拠点として箱根山中の西側・中世東海道沿いに整備された。

 

この城は何と言っても天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めの際、激戦が繰り広げられた地としてその名を知られる。
秀吉と小田原北条第四代北条氏政(当時は第五代氏直が家督を継ぎ氏政は御隠居様)との間が決定的に険悪となり合戦が避けられなくなると、城は突貫工事で増築整備がなされていく。しかしその完成を見ることなく、山中城は合戦に突入していった。

 

西から押し寄せた豊臣秀次・徳川家康ほか七万近くもの大軍を迎え撃ったのは城将・松田康長(まつだ やすなが)ら将兵四千人。その圧倒的な兵力の前に山中城は奮戦空しく一日で落城した。
多勢に無勢、「そりゃそうだ」で済んでしまいそうではある。しかし、本当に簡単な戦だったのか。
秀吉軍は堅牢な城郭の山中城を前に、先鋒隊が突撃を繰り返す白兵戦を挑んでいった。そうして早朝から夕刻にかけての波状攻撃により多大な犠牲を払って、ついに城を落としたのだった。

 

 

 

昭和9年(1934)には国の史跡に指定されていたが、その全容が明らかになったのは昭和48年(1973)からの10年に渡る発掘復元整備事業による。この事業により、中世城郭の姿が明らかにされていった。

 

当時、最も注目を集めたのは「障子堀(しょうじぼり。畝堀・うねぼり)」。これは小田原北条氏の築城技術の一つで、空堀の中を自由に動き回れないように堀障子(畝)で仕切ってある。当時は小田原城でもその名のみが伝わり実態は不明瞭であったが、山中城の発掘以降に小田原城においても発掘調査が進み、その姿が確認されることとなった。なお発掘された小田原城の障子掘は、現在ではその姿を城址公園内の写真つき解説パネルで目にすることが出来る。
参考「箱根をめぐる古城30選」

 

小田原城の開城後に城に入った秀吉方の諸国武将は、複雑に巡らされたクランク状の土塁・空堀(横矢折れ、折邪(おりひずみ)などと呼ばれる)や障子掘、そして城下を長大な土塁・空堀でぐるりと取り囲む総構(そうがまえ)など、戦国時代最強の軍事要塞であった小田原城の実像に驚嘆。その見聞は諸国に持ち帰られて各地の近世城郭構築に大いに影響を与えたとされる。

 

 

現在の小田原城(城址公園となっている本丸周辺)は近世の姿で復元整備されているが、ここ山中城跡は小田原北条氏が余すところなくその築城技術を発揮した中世の城の姿を目にすることができる、貴重な史跡。諸国武将が驚嘆した、その一端を垣間見ることができる。
なお、「障子掘」「畝掘」の用語は解説ごとに一定していないようだ。上から見て障子の桟のように仕切ったものを障子掘と呼び梯子状に仕切ったものを畝掘という解説もあるが、仕切りそのものを障子(神社の社殿に見られる脇障子のような意味)あるいは畝に見立てて障子掘(畝掘)と呼ぶ解説もある。

 

 

 

まずは岱崎出丸(だいさき でまる)へ。

 

 

 

 

 

 

 

山中城は箱根山・箱根峠から三島へ下りていく尾根の途上に構築された。
山から下りてきた尾根は本丸のあたりでいったんピークをつくる。そして二の丸(北条丸)あたりで大きく二つの尾根に分かれてY字型に下っていく。

 

本丸はちょうどY字の分岐点より箱根峠寄りのピークに位置する。このピークを中心にして北の丸、二の丸(北条丸)、元西櫓などが配置された。

 

Y字に分かれた尾根の一方は二の丸から東の三の丸、岱崎出丸へと続いていく。そしてもう一方の尾根は二の丸から西の丸、西櫓へと延びていく。
こうして、街道を西から登ってくる敵勢を包み込むように受け止めて迎え撃つ、小田原西部の防衛最前線が出来上がった。

 

三の丸周辺は近世以降、人々が移り住むことで山中新田の集落が形成されている。

 

 

 

御馬場へ上がる。

 

 

 

 

 

 

 

岱崎出丸は秀吉の軍勢を迎え撃つにあたり城域に取り込まれ、三の丸の延長線上に急遽出丸が構築された。標高は550m前後。

 

それまでは、このあたりは小田原北条氏により「水呑(みずのみ)関所」が置かれていたとされる。さらに古くは鎌倉幕府滅亡後の「太平記」の時代(建武年間)、北条時行(最後の得宗当主北条高時の遺児)と足利尊氏さらには朝廷方(新田義貞)と尊氏方(直義)による合戦の舞台ともなった。

 

 

 

旧街道側の土塁。右手の下方が箱根旧街道。

 

 

 

御馬場と隣りの曲輪(くるわ)とを隔てる、深い空堀。

 

 

 

空堀の解説板がある。

 

 

 

この堀も発掘調査により堀障子(畝)が確認されている。その高さは2m。そして堀の深さは9m。

 

 

 

奥へ。

 

 

 

構築の間に合わなかった曲輪跡の解説板。

 

 

 

休憩所。

 

 

 

 

 

 

 

岱崎出丸はその広大な規模からして独立した山城の様相を呈した。

 

小田原合戦でこの出丸を守備したのは間宮康俊(まみややすとし)。小田原の支城・玉縄城(たまなわじょう。鎌倉市)配下の笹下城(ささげじょう。横浜市港南区)の城主であった。

 

 

 

すり鉢曲輪を見下ろす。奥が箱根旧街道。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武者溜の跡。

 

 

 

すり鉢の底。

 

 

 

すり鉢曲輪の解説板。

 

 

 

すり鉢曲輪見張台へ。

 

 

 

旧街道側の空堀を見下ろす。

 

 

 

岱崎出丸・一ノ堀。壮大な障子堀が復元されている。

 

 

 

現在は保護のための芝生が張られ植栽がなされているが、築城当時はつるつるのローム層がむき出しの空堀・土塁だった。

 

 

 

旧街道沿いの広場に戻り、主郭へ向かう。

 

 

 

岱崎出丸・一ノ堀の解説板。
堀の底から土塁頂部までは傾斜70度、斜距離18〜20m。攻め手はこの巨大なツルツルのローム層の壁を甲冑を付けて上からの攻撃をかわしながら登ることになる。

 

 

 

先ほど御馬場から見下ろした堀。

 

 

 

御馬場北堀は未調査で復元されていない。

 

 

 

解説板による推定。

 

 

 

 

 

 

 

続いて、道路を横切って主郭へ。

 

 

 

 

 

 

 

広場は三の丸跡の一角。

 

 

 

三の丸掘に沿って進む。

 

 

 

三の丸堀は二重堀。

 

 

 

西側の堀。園路が縦の畝となろうか。

 

 

 

 

 

 

 

田尻の池。馬の飲み水を確保したとされる。

 

 

 

尾根筋に構築される山城では水場が少ないのは宿命であるが、山中城は水の確保に非常にこだわって構築されたことがこの先でもうかがえる。

 

 

 

西の丸へ。

 

 

 

ツツジが植栽された土塁。

 

 

 

空堀。左手は西の丸。右手は元西櫓。

 

 

 

土塁・空堀の一般的な説明。

 

戦国時代の城は土の城が一般的。石垣が一般的に築かれるようになるのは戦国時代が終焉を迎えつつあった桃山時代〜近世になってから。
中世の城では信長の安土城の石垣が有名だが、小田原北条氏配下の関東では小田原の支城であった八王子城(城主は四代氏政の弟・氏照)に石垣が見られる。

 

 

 

7月下旬のこの時期、下界ではとうに終わったアジサイが元西櫓土塁に咲いている。

 

 

 

堀を構築するにあたって一部を掘り残し、曲輪(くるわ。本丸を始めとした城の区画)に入る通路とされたのが土橋。

 

 

 

西の丸へ。

 

 

 

西の丸土塁、空堀の障子掘。奥には西櫓。

 

 

 

西の丸。奥には物見台。

 

 

 

西の丸・西櫓は、街道を逸れて尾根伝いに本丸・二の丸に回り込もうとする敵勢を迎え撃つために構築されている。

 

 

 

 

 

 

 

西の丸物見台へ。

 

 

 

西の丸物見台は標高およそ580m。

 

 

 

西の丸物見台から見下ろす空堀には山中城跡で随一といってもよい壮大な障子掘(畝掘)が復元されている。堀の外側は帯曲輪(おびぐるわ。現状は外周路として利用)で囲われている。

 

 

 

西の丸を見下ろす。

 

 

 

奥には西櫓。

 

物見台・西の丸から引き返して西櫓へ。

 

 

 

大輪のヤマユリ。盛夏の花と、初夏の花アジサイが同時に咲いていた。

 

 

 

画面正面は西の丸土塁。帯曲輪伝いに西櫓へ。

 

 

 

西の丸空堀。堀障子(畝)で仕切られている。

 

 

 

城を攻める側は、むき出しの滑りやすいローム層だった空堀・土塁を乗り越えなければならなかった。

 

 

 

右は西の丸、左は西櫓。

 

 

 

西櫓に上がる。

 

 

 

振り返れば左に西の丸、奥に元西櫓、二の丸。

 

 

 

右手の西櫓を取り巻く空堀。

 

 

 

手前の西櫓と西の丸を隔てる障子掘。

 

 

 

「障子掘」「畝掘」の名称は、解説によっては空堀内の仕切りを「堀障子(畝)」と呼んで「障子掘(畝掘)」と説明する場合もある。

 

 

 

西櫓。

 

 

 

 

 

 

 

小田原北条氏の城に見られる「馬出(うまだし)」の特徴を記した解説板。

 

 

 

西櫓から西木戸口へ。

 

 

 

西櫓をぐるりと取り巻く堀。

 

 

 

 

 

 

秀吉軍は先鋒隊以降、次から次へと兵を繰り出して白兵戦を挑むことで、早朝から夕刻にかけて攻撃の手を緩めることなく膨大な犠牲を払ってこの城を落とした。

 

 

 

西木戸口に立つ史跡碑。

 

 

 

帯曲輪の北西。天気が良ければ駿河湾、三島市街地から愛鷹連山(あしたか れんざん)、富士山を望むことができる眺望地。

 

 

 

鳥瞰図にも説明のあった木橋。

 

 

 

西の丸。

 

 

 

 

 

 

 

西の丸堀。

 

 

 

西櫓。

 

 

 

西の丸。障子掘は奥へと続く。

 

 

 

西の丸・西櫓の外周路(帯曲輪)から北の丸、本丸へ向かう。

 

 

(2)山中城北の丸・本丸・二の丸(北条丸)・宗閑寺へ

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