まちへ、森へ。

屏風ヶ浦から長浜へ、旧海岸線をめぐり歩く

3.富岡総合公園から長昌寺・芋観音、慶珊寺へ

 

2.東漸寺、杉田八幡神社、妙法寺から梅林小学校へはこちら。

 

 

金沢区の国道16号(横須賀街道)・鳥見塚(とりみづか)交差点。左折すれば富岡総合公園。

 

 

 

桜並木の遊歩道を行く。

 

 

 

公園の案内板。
富岡総合公園は広さおよそ22ヘクタール(100m四方×22)。開園は昭和50年(1975)。

 

この地には元々は旧海軍の横浜海軍航空隊の基地があった。桜並木はその当時から育てられてきたもの。敗戦後は占領軍に接収され「富岡倉庫地区」となっていたが、昭和46年(1971)に返還。跡地が公園となった。

 

 

 

旧横浜海軍航空隊の隊門。

 

 

 

横浜海軍航空隊は昭和11年(1936)に組織された、日本初の飛行艇(ひこうてい。主翼下にフロートが付いていて胴体で着水できる)専用の航空隊であった。
当時パイロットであった方の証言によれば浜空は隊員1200余人、常用二十四機を擁した基地であった。飛行艇は長大な航続力と搭載力を持っていたので広大な滑水面を必要としたが、根岸湾はその目的を十分に満たしてくれた、という。
参考・図説横浜の歴史。

 

 

 

二式飛行艇。敗戦後、占領軍により横浜海軍航空隊基地で撮影されたもの。 画像出典・図説横浜の歴史。

 

 

 

横断歩道の左手はケヤキ広場・北台展望台のエリア。展望台に上がる前に、浜空神社へ向かう。

 

 

 

浜空神社(はまくう じんじゃ)への参道。

 

 

 

「浜空の碑」裏側。奥に向かってまっすぐに延びる参道。

 

 

 

社殿が建っていたところには、現在は「鎮魂碑」が建てられている。

 

浜空神社は横浜海軍航空隊の隊内鎮守であった時代は鳥船神社(とりふねじんじゃ)と称し、横浜の総鎮守である伊勢山皇大神宮の分霊が勧請された。
戦後は戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社として復興、富岡総合公園内に造営された。神社には全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊(みたま)が合祀された。

 

浜空神社の社殿は元隊員ら関係者の高齢化に伴い維持が困難となり、平成20年(2008)に追浜(おっぱま)の雷(いかづち)神社に移転。現在、この地には鎮魂碑が設置され、英霊の鎮魂の場として慰霊祭が挙行されている。

 

 

先の大戦の後世における評価は、立場が変われば如何様にも変わる。何を強調するかも、立場により変わる。ただ、確実に言えることは当時の方々はこの国と大切な人たちを護る為、命懸けでその任を全うしたということ。その上で現在の我々が生きる世がある。

 

 

 

浜空の碑。

 

隊員の方々が後世の我々に託した願いに思いを馳せつつ英霊に合掌し、先へと進む。

 

 

 

ケヤキ広場へ戻り、展望台へと上がっていく。

 

 

 

 

 

 

 

北台展望台。かつては海を見下ろす断崖。

 

 

 

昭和の初頭までは眼下に根岸湾が迫っていた、かつての海岸線。赤い丸が現在地。

 

 

 

昭和10年代、海軍航空隊の基地などが造成された頃。この崖下はすでに、軍用機の生産に携わった旧日本飛行機(株)の敷地になっている。その右手に突き出た埋立地などが海軍航空隊基地。
戦争中はここを狙った空襲が大きく外れ、当時の湘南富岡駅(現京急富岡駅)と周辺の民家が吹き飛ばされて多くの犠牲者を出した。

 

画像出典・磯子の史話。赤点加工はサイト管理者。

 

 

 

昭和34年(1959)から始まった12年間に渡る埋め立て事業により海岸線は沖合へと移動した。

 

 

 

昭和後期、ほぼ完成した埋立地。

 

 

 

杉田・磯子方面の眺め。「らびすた新杉田」のタワーより右手奥に磯子の丘。丘の斜面緑地は埋立前の旧海岸線の面影を残す。

 

 

 

磯子の丘の上に建っていた横浜プリンスホテル(磯子プリンス)は、閉館・解体ののち現在の大型マンションに建て替えられて久しい。

 

 

 

ランドマークタワー・みなとみらいが良く見える。

 

 

 

高架上を新交通システムのシーサイドラインがゆく。

 

 

 

展望台をあとに、梅林へ。

 

 

 

梅林。崖下には湧水がある。

 

 

 

湧水。この辺りの崖は基地の造成によって生じた崖だろうか。

 

 

 

湧水が作る池。

 

 

 

江戸時代、「杉田の梅林」はここ富岡のあたりまで広がっていた。

 

 

 

「プラタナス広場」から「見晴らし台」へ向かう。左手の富岡住宅が建つ敷地も、旧海軍航空隊基地の跡地。

 

 

 

広場の崖地に幾つも見られる地下壕入口跡。入口はブロックで塞がれている。

 

 

 

駐車場の先から「つつじ坂」を登っていく。

 

 

 

元は崖地の照葉樹林であった、富岡総合公園。

 

 

 

見晴らし台に向かう途中の園路から見下ろすと、県警第一機動隊の倉庫が見える。現在では綺麗に修復されたこの倉庫が、元は海軍航空隊の飛行艇格納庫だった。

 

 

 

見晴らし台。

 

 

 

見晴らし台からの眺め。現在では埋立地が広がり、海はやや遠い。眼下の機動隊敷地から概ねヤマダ電機の見えるあたりまでが横浜海軍航空隊の敷地だった。

 

 

 

「見晴らし台」から「多目的運動広場」に向かう。

 

 

 

多目的運動広場。

 

 

 

多目的運動広場の奥から上がっていくと、ハイキングコースのような尾根道に出る。

 

 

 

上がったところからは、金沢テクノタワーと住友重機横須賀造船所(夏島)の大きな門状のクレーン(ゴライアスクレーン)が見える。

 

 

 

尾根道をゆく。

 

 

 

一帯が横浜海軍航空隊の敷地であった頃の海軍境界標が、所々に残っている。

 

 

 

尾根道の眼下に見える、アーチェリー場。

 

 

 

アーチェリー場の向こうにはランドマークタワー。

 

 

 

二又の分岐から下っていく。

 

三春学園を過ぎて、通行量のある通りの手前の角を入っていくと長昌寺。

 

 

 

角から入った細い道、左手に見える石段は長昌寺境内の芋観音への参道。長昌寺山門は、道の奥にみえる大きなケヤキの向こう側。

 

 

 

長昌寺の芋観音。
ここには疱瘡除け(ほうそうよけ)の神様である芋神様が祀られている。

 

近代以前、病気に対して民間療法と自然回復しか方法がなかった時代、信心は人々の心の支えであった。
疱瘡の場合、治ると顔に「かさ(かさぶた)」ができたりあばたになったりする。これを「いも」といった。「かさ」が取れると全快となる。保土ヶ谷宿・金沢横丁の道標には「ほうさう守神 富岡山芋大明神えの道 是より行程三里」の碑がある。芋明神はこの病気を司る神とされ、道標が建てられるほど参拝者で賑わった。

 

現在の観音堂は横浜海軍航空隊の建設に伴い長昌寺に移転してきたもの。かつては航空隊隊門を入っていった先の左手、ケヤキ広場あたりのどこかに祀られていた。

 

 

 

芥川賞と並ぶ文学賞の「直木賞」にその名を残す、直木三十五(1891〜1934)の墓。芋観音堂の傍らに建つ。

 

直木は病を得た最晩年、気候風土のよい富岡の地にて療養生活を送るべく家を建てる。しかしほんの短期間住んだだけで、43歳という若さでこの世を去った。墓は当初慶珊寺にあったが、後に長昌寺墓地に移転。昭和57年(1982)に現在の場所に改葬された。

 

 

 

大きなケヤキの木。

 

 

 

臨済宗建長寺派・富岡山(とみおかざん)長昌寺の山門。

 

 

 

山門の前から信号のある交差点へ。左手には富岡総合公園と富岡八幡公園を結ぶ「なぎさ橋」が架かっている。

 

 

 

交差点を渡った向こうは富岡八幡公園・こどもログハウス。富岡八幡公園は海岸沿いであった往時をしのぶ松の木が多く植樹されている。
公園に沿って進むと、慶珊寺。

 

 

 

真言宗御室派(おむろは)・花翁山(かおうざん)慶珊寺(けいさんじ)。角には孫文(そんぶん)上陸地の碑が建っている。

 

 

 

革命家として波乱万丈の人生を送った孫文。台湾では「国父」として、また大陸でも「革命の父」として尊敬を集めている。

ハワイに学び、若き日よりハワイ・日本・欧米の各地で革命運動を推進した孫文は、辛亥革命(1911・明治44)により清朝を倒した人々に熱狂的に迎えられ、南京に樹立された中華民国の臨時大総統となった。

 

一方、清朝時代からの実力者であった軍閥総帥の袁世凱(えんせいがい)は一度は失脚に追い込まれるもこれを乗り越え、辛亥革命に乗じて清朝皇帝を退位させる。北京における清朝の滅亡後、孫文から袁世凱に臨時大総統の職が譲られ袁世凱は北京にて中華民国臨時大総統に就任した。
しかし袁世凱の強権的な政治手法に対して孫文ら国民党の勢力による第二革命が起こる(1913・大正2)。が、袁世凱は圧倒的な武力でこれを鎮圧。正式に中華民国初代大総統に就任した袁世凱は国民党を解散させ、さらには1915年(大正4)に自らを皇帝とする帝政(中華帝国)を復活させる。

孫文と当地との関わりは第二革命の時期。革命に敗北した孫文は中国を脱出、台湾を経由し横浜沖から小舟で富岡の海岸に上陸。東京に向かい日本への亡命に成功した。

 

 

 

慶珊寺の山門。

 

 

 

本堂前のクロマツ。

 

 

 

立派なクロマツは樹齢300年近い。

 

 

 

慶珊寺のもう一方の角には直木三十五宅跡の碑も建っている。

 

 

 

慶珊寺をあとにして、かつては海岸沿いだった旧道を富岡八幡宮へ向かう。正面には八幡宮の社叢林(八幡山)が見える。

 

 

 

古写真に見る富岡。明治初期の「宮の前海岸(西浜)」であろうか。 画像出典・図説かなざわの歴史。

 

宮の前のあたりは明治ひとけたの時代には居留地外国人の海水浴場(塩湯治の場)となった。慶珊寺は宿舎にあてられ、ヘボン博士家族の宿泊もあった。

 

ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士の本業は医師。幕末開港期早々に来日したヘボン博士は当時の東京湾でもとりわけ水質がすばらしかった富岡での塩湯治を居留地の外国人たちに勧め、富岡は日本における海水浴の発祥の地となった。
現役の海水浴場では大磯(神奈川県中郡・なかぐん)が発祥の地であるが、それに先立つ富岡の地は、昭和の中期に埋立で浜を失って久しい。

 

開港当初、横浜居留地の外国人たちが自由に出歩けるのは遊歩区域として定められた範囲(北は多摩川、西は酒匂川まで)に限定されていた。制約の大きかった中で、横浜開港場から小舟だけで直接アクセスできる富岡の浜が彼らにとっては貴重なリゾート地となった。
ベアトが残した古写真には横浜カヌークラブ(明治六・1873設立)の外国人たちが富岡海岸あたりまでのクルーズを盛んに楽しんでいた様子が記録されている。

 

明治十年代になると日本人客も訪れるようになり、旅館や貸別荘が建てられていく。この地には明治前期に多くの政府要人の別荘が建てられた。

 

 

富岡海荘図巻(部分。明治22年)。 画像出典・図説かなざわの歴史。

 

幕末〜明治中期の政治家・三条実美(さんじょう さねとみ。1837〜1891)は晩年の明治21年(1888)富岡海岸クツモの浜(富岡総合公園崖下。のちに横浜海軍航空隊の基地が造られた辺り)に別荘を建てて、その美しい海岸線を「富岡海荘図巻」(横浜本牧〜横須賀観音崎)として画家に描かせることで後世に残した。
京の公家であった実美は「八月十八日の政変(七卿落ち)」で身を寄せた長州(現山口県)を始め、各地の美しい景観を目の当りにしていたであろう。その実美をして、絵に残しておきたいと思わせる美しさが当時のこの海岸線にはあった。

 

この絵が描かれた当時は東京から横浜(開港場)までは汽車で移動するとして、横浜から金沢に行くには未だに江戸時代の旅人のように人力で山越えをするか船で渡るしか交通手段がなかった。杉田と富岡を結ぶ国道16号富岡トンネルの開通は明治40年(1907)、湘南電鉄(現京急)の開通は昭和5年(1930)を待たねばならない。

 

江戸落語「大山詣り」には「神奈川(宿場の宮ノ下河岸。洲崎大神あたり)から船で金沢八景あたりまで」というくだりがあるが、ヘボン博士の頃から政界要人の頃まで、明治に入ったばかりの頃は宮ノ下河岸とか開港場・元浜町の海岸通渡船場(後に埋立が広がり一帯は日本波止場となる)、あるいは他にもあったかもしれない船着き場から船を利用するのが便利だったのだろう。明治20年代のはじめ頃(第一次築港工事が完工する前)までの横浜港はイギリス波止場(象の鼻あたり)、フランス波止場(山下公園あたり)、日本波止場(海岸通・北仲あたり)の小規模な波止場しかなかった。
その頃の横浜は次第に街中に水路が張り巡らされるようになり、旧市街からは本牧まわりのほか堀割川・八幡橋の波止場経由で根岸湾に出られるようになる。こうして多くの人々が船上から美しい海岸線を鑑賞することとなった。

 

 

参考・市民グラフヨコハマNo.106「ベアトの幕末・横浜パノラマ帖」(平成11・1999年発行)、横濱Vol.17「伝統のまち横浜金沢」(平成19・2007年発行)、新版かねざわの歴史事典、図説かなざわの歴史、磯子の史話。

 

もしも明治維新で首都が東京とならずに現代を迎えていたとしたら。相模・武蔵の中世以来の歴史的役割に鑑みれば、たとえ関東が首都圏とならなくても現在の各地方圏の人口に照らせば横浜は100万人程度、江戸は300万人程度の都市にはなっていただろう。そうなると、横浜の海岸線や多摩丘陵・三浦丘陵の緑は今ごろどの程度残っていたのだろうか。
少なくとも戦後の高度経済成長期における東京の爆発的膨張は無かったはず。京浜あたりまではともかく、根岸湾から南はこれほどまでには開発されなかったのではないだろうか。
本牧の三溪園はかつてのように崖上から海を見下ろし、杉田の梅林は世代をつなぎ梅の香を漂わす。富岡の海岸は断崖から砂浜まで変化に富んだ表情を見せ、金沢八景は浮世絵さながらの美しい入江が広がる。首都圏でなければ占領軍の接収もこれほど苛烈ではなかっただろうから、いわゆる横田空域の制限もなかったろう。富岡の海軍航空隊基地あるいは堀割川河口沖から外洋航路の民間飛行艇が発着した根岸飛行場は、今ごろ拡張して地方空港になっていたかもしれない。
しかし、逆に首都圏でなければ関東大震災(大正12・1923)の後に直面した、被害が凄まじかった横浜市の廃市の危機が現実のものになってしまったかもしれない。

 

開発で失われた多くの風景が、当たり前のように身近にある。現実でいえば昭和40年代初頭ごろまでの市内各地の光景を、もっとこの目で見てみたかった。でもそうなったらそうなったで「もっと都会的に」という発想が頭をもたげてくるかもしれない。
現在ではマリーナやアウトレットモール、アミューズメント施設に水族館、産業集積に市大医学部と様々に集積する金沢区沿岸部の街。何かを得れば、何かを失う。

 

 

 

国道16号・「宮の前」信号から入ってくる道との交差点を左へ入っていくと富岡八幡公園の入口。電柱には八幡宮への案内が出ている。

 

 

4.富岡八幡公園から富岡並木ふなだまり公園、長浜公園、長浜野口記念公園へ

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