まちへ、森へ。

屏風ヶ浦から長浜へ、旧海岸線めぐり歩き

平成28年(2016)の2月も下旬に差し掛かった梅の季節、京急・屏風浦駅から杉田、富岡を経て長浜へ、旧海岸線をたどって歩く。

 

1.京急・屏風浦駅から浅間神社、杉田へ

 

 

屏風浦(びょうぶがうら)駅前。自転車を駐輪場に入れてここから長浜まで、旧海岸線のまち歩きをスタートする。帰りは能見台(のうけんだい)駅からここまで電車で戻る。

 

 

 

駅まで来る前に立ち寄った、大岡川(おおおかがわ)分水路の取水庭(笹下(ささげ)取水庭)。上大岡を起点とする笹下釜利谷道路(ささげ かまりや どうろ)の笹下郵便局前を入ってすぐ。

 

 

 

旧海岸線で断崖となる久良岐(くらき)の丘を貫くように、街の地下に分水路トンネルが掘られている。

 

 

 

大岡川の上流方面。すぐ先の高架は市道環2・森支線(屏風ヶ浦バイパス。首都高速湾岸線に直結する)。

 

 

 

昭和56年(1981)に完成した、大岡川分水路。
昭和30年代後半(1960〜)からの高度経済成長期に進行した上流部開発により、それまでは森林・農地に浸透していた豪雨が大岡川に一気に流れ込み中〜下流の市街地に深刻な洪水被害をもたらすようになった。そのため、水を逃がすバイパスとして昭和44年(1969)に着工、12年がかりで完成した。

 

鶴見川遊水地や境川遊水地のような広大な遊水地を造成する余地がない河川では、こうして分水路が建設されている。市域では後に帷子川(かたびらがわ)でも同様な分水路が建設されている。

 

 

 

屏風浦駅から、まずは森浅間神社へ。
駅前を通る市道環2を海側へ進み、森三丁目交差点から横断歩道奥の狭い道を入っていく。建物の背後に、屏風ヶ浦という呼び名の由来となった断崖がそびえる。

 

 

 

神社への道案内に従っていくと、高架をくぐった辺りに鎮座する浅間(せんげん)神社下宮。山頂の社とともに歴史を歩んできた。案内板によれば下宮の社殿は明治末期に浅間神社に合祀された村内12社のうちの一つから移築したもので明治より前のものと思われる、という。

 

 

 

長くて急な石段を登っていく。

 

 

 

山頂に鎮座する、森浅間神社。現在の社殿は昭和53年(1978)に完成。

 

 

 

この神社は鎌倉幕府第九代将軍守邦親王(もりくにしんのう。1308〜1333在位。最後の鎌倉将軍)により親王の護持仏である薬師如来像を本地仏として建立されたと伝えられ、古くは親王権現とも称した。

 

浅間神社と称するのは、守邦親王から薬師像を托された鎌倉・扇谷(おうぎがやつ)の権現堂福禅寺に仕える熊野修験者長円が自らの修行場としてこの神社を創建し、薬師像とともに富士浅間信仰の仙元(せんげん)大菩薩を祀ったことによると見ることができるのではないか、という見解がある。

 

一方で神社境内には開創の縁として次のような解説が記されている。まずは建久八年(1197)源頼朝の請により長慶が不動明王を奉じて扇谷に福禅寺の堂を建立。続いて幕府により戦略上の要衝であるこの地に陣屋が構えられるにあたり、霊峰富士から木花咲耶姫命の分霊を受けて堂を建立。長慶以降、福禅寺の住職がこの地に赴き各種祈願をなしてきたのが浅間神社の起こり、とされている。

新編武蔵風土記稿(巻之七十九久良岐郡之七本牧領森公田村)によればこの山は我羅山(がらさん)と称した。古来より航海安全を頼って参詣する者も多く、森三ヶ村(公田・雑色・中原)の総鎮守とされた。
戦国時代初期には対岸の安房(あわ。房総半島南部)から武蔵・相模に度々攻め入ってきた里見氏と後北条氏との間で合戦が頻発、そのころに堂宇が焼き払われている。
戦国末期の文禄年間(1592〜1596)には福禅寺の長観がこの地に移り住み権現堂を建立、不動明王を祀った。
江戸時代後期には江戸庶民に富士浅間信仰が流行し各地の浅間神社への参詣が多く行われる中で、ここ森浅間神社にも参拝客が多く訪れたという。東海道保土ヶ谷宿から弘明寺(ぐみょうじ)を経て杉田梅林へと至るルートの途上に、この地はある。

明治元年神仏分離により権現堂(不動明王)を分離し、廃止。明治6年(1873)、村社に列せられる。同41年(1908)には村内の12社が合祀された。

 

 

 

社殿前の、刈り込まれた槇(マキ)。
境内を囲むスダジイの大樹で形成された社叢林(しゃそうりん)とその周辺の樹叢(じゅそう)は、海に面した台地の崖地を覆う常緑の広葉樹林。

 

 

 

斜面緑地の天然林は、根岸湾沿いでは根岸八幡神社の社叢林と並んで県指定の天然記念物となっている。

 

 

 

境内を下りていく。

 

 

 

長くて急な石段の参道。

 

 

 

 

 

 

 

古写真。中原の海岸が杉田へと延びてゆく。画像出典・磯子の史話。

 

現在では駅周辺の地域の通称である「屏風ヶ浦」という名称は、もともとは本牧の鼻から富岡の岬までの海岸線一帯がまさに屏風を立てたように切り立っていたことからそのように呼ばれ、その名が指す範囲は広かった。

 

江戸時代の後期、江戸に仕立物職人の独笑庵(竹村立義)という人があった。彼は関東一円の景勝地をくまなく歩き数々の紀行文を残している。その一つに文政八年(1825)の「杉田図会(すぎた ずえ」があった。杉田図会を現代語抄訳した「独笑庵の横浜紀行」(原道生)には次の一文がある。
「・・・東の方には本牧の先端が長く突き出ている。その断崖は削りとったようで城壁に似ている。南の方には杉田・富岡の岬が付き出ていて、屏風を立てまわしたようだ。そのため屏風ヶ浦と名づけられている。内海ヶ浦ともいう。・・・」

 

明治末期、歌人の小倉桐園(生没年不詳)は根岸湾の景観を「屏風ヶ浦八景」として歌に詠んだ。
その八景は「中原晴嵐」「篁修庵晩鐘」「根岸夜雨」「芦名橋夕照」「八幡橋帰帆」「本牧秋月」「杉田落雁」「富岡暮雪」。

 

明治中期には周辺の村(中世〜近世の郷村)が合併して屏風ヶ浦村が成立、昭和初期に横浜市に合併されるまで存続している。

 

「屏風浦駅」の駅名も、昭和5年(1930)に湘南電気鉄道(現京急)が開業するにあたり地元からの請願によって駅の設置が決まった時には、町名を採った「森駅」とされるはずであった。しかし既に同名の駅が省線(後の国鉄。現JR北海道)に存在していたため、「湘南森駅(現在であれば京急森駅)」でもよかったのだろうが「屏風浦駅」と改められた。

 

参考・磯子の史話。

 

 

 

山上から見下ろす杉田方面。JR新杉田駅に隣接する「らびすた新杉田」のタワーが見える。大型マンションに沿って、かつての海岸線が奥へと延びていた。

 

 

 

新編武蔵風土記稿挿絵、浅間神社からの眺め。
 画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

 

 

台地を貫く、市道環2・森支線(屏風ヶ浦バイパス)の汐汲坂(しおくみざか)トンネル。

 

 

 

汐汲坂の碑。海水をくみ上げる道として古代から人々が行き来していた、と記されている。

 

山を下りて、国道16号方面へ。

 

 

 

大岡川分水路。
先に見てきた取水庭からの分水路トンネルは、ここで開渠(かいきょ)となる。頭上には環2屏風ヶ浦バイパスの高架。

 

かつて、国道16号に沿ってこのあたりから杉田に至るまでには陣屋川、白旗川、境川、聖天川(しょうてんがわ)など、背後の台地から旧海岸線までの短い距離を流れる小河川が多数あった。現在は埋立地の河口付近以外ほとんどが暗渠(あんきょ)化されており、その存在には気づきにくい。
参考・磯子の史話「区内ところどころ」。

 

 

 

国道16号(横須賀街道)に沿って、杉田方面へ向かう。16号はおおむね旧海岸線沿いとなる。

 

杉田の地は、かつての市電の終点。京急・杉田駅と市電は戦前から海岸沿いに開通していたが、JR根岸線が新杉田まで開通したのは昭和45年(1970)。それは根岸湾が埋め立てられて広大な平地が出現してからのこと。

 

かつて市電が杉田まで走っていた頃の停留所は、路線バスのバス停に姿を変えてその名を残す。

 

 

 

聖天橋(しょうてんばし)交差点信号の手前から右に入り、東漸寺へ。

 

 

2.東漸寺、杉田八幡神社、妙法寺から梅林小学校へ

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