まちへ、森へ。

幻の開港場神奈川〜前史とその後

平成26年(2014)10月、旧東海道の横浜道分岐から神奈川宿・新町へ。
開港期を中心に戦国時代から終戦後に至るまで、神奈川界隈に織りなす時代の足跡を訪ねながらまちを歩く。

 

1.浅間下から台町、高島山へ

 

 

浅間下(せんげんした)交差点。横浜駅西口を発着する多くのバス路線が交差する浅間下バス停から歩き始め。

 

 

 

西区歴史街道案内板(北が上になるように回転) 案内図拡大版 

 

旧東海道は、江戸時代の初期頃までは帷子川(かたびらがわ)河口の入江(袖ヶ浦・そでがうら)の海岸線に沿った道であった。

 

 

 

江戸時代初期の袖ヶ浦、帷子川河口。
画像出典・保土ヶ谷ものがたり(昭和52年(1977)区制五十周年記念事業実行委員会発行) 

 

その頃はまだ新田開発は始まっておらず、入江は相鉄線天王町(てんのうちょう)駅そばの保土ヶ谷宿・帷子橋のあたりまで深く入り込んでいた。
入江奥の帷子川河口付近には小舟の船着き場もあり、神奈川湊と保土ヶ谷宿あるいは帷子川流域の村々との間での物資輸送がおこなわれていた。

 

 

 

案内板の、絵地図。

 

やがて入江は河口付近に堆積する土砂、あるいは富士山の宝永噴火(宝永4・1707)による火山灰の降灰などが重なり、徐々に浅くなっていく。

 

江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64)には尾張屋新田、宝暦新田が開発され、続いて安永(あんえい)新田、藤江新田、さらに江戸時代後期の天保年間(1830年代)に至ると現在の河口により近いあたりで岡野新田、平沼新田と埋立が進んでいった。

 

浅間下から旧芝生村、芝生追分、帷子橋までは「三ツ沢公園から浅間下、旧東海道へ」のページへ。

 

 

 

錦絵に見る戸部側からの新田、横浜道、袖ヶ浦、神奈川台。
画像出典・グラフィック西 目でみる西区の今昔(昭和56年(1981)西区観光協会発行)。

 

そうした埋立地の辺りは、昭和2年(1927)の第三次市域拡張と区の誕生(鶴見・神奈川・中・保土ヶ谷・磯子)の当時は神奈川区域であった。

 

昭和3年(1928)に三代目横浜駅が現在地に設けられた当時、駅の辺り(現在の北幸・南幸・高島)は中区ではなく神奈川区だったことになる。一帯の地は昭和18年になると神奈川区から中区(昭和19年には西区として中区から分離)に編入された。

 

 

 

横浜道(よこはまみち)分岐。

 

環状1号と新横浜通りが交差する四つ角の、横浜駅側の角から少し入ったところにある。
幕末の開港期、東海道沿いの武州橘樹郡芝生村(たちばなぐんしぼうむら)から分岐して横浜開港場へ向かう横浜道は、当時の岡野新田、平沼新田の水際に沿って通された。

 

 

 

横浜道案内板。横浜道については野毛切通(のげ きりどおし)のページへ。

 

 

 

貞秀の「横浜平沼橋より東海道神奈川台并(ならびに)カルイ沢〜」。
歌川貞秀(五雲亭貞秀)は江戸後期の浮世絵師。「横浜絵」と呼ばれる数々の錦絵を残した。

 

手前の新田間橋(あらたまばし)から平沼橋、右奥に見えるは野毛山の断崖。左に軽井沢から神奈川台の茶屋など。
新田間橋の名は、当初は岡野橋と予定されていたものを歌心のある岡野勘四郎がこれを断って「あらたま橋」(新田と新田の間の橋)という響きの良い名を提案した、という。岡野家については高島山公園「弁玉(べんぎょく)歌碑」で後述。

 

 

 

新横浜通り沿い、宮谷小(みやがやしょう)入口の信号あたりから旧東海道へ入る。

 

 

 

首都高速神奈川2号三ツ沢線の下をくぐって行く。

 

軽井沢と呼ばれるこのあたりは、神奈川宿の時代、宿場を構成する青木町に属していた。
軽井沢の地名の由来は諸説ある。荷物をカルウ(背負う)沢、水の枯れたカレイ(枯井)沢、カレイ(ホシイイ。干飯)の意、など。

 

 

 

奥に日蓮宗観行寺。戦国時代の末期、文禄4年(1595)開山。時期としては徳川による近世の東海道が整備された頃。

 

 

 

本堂。
境内には天然理心流の開祖、近藤内蔵助(こんどうくらのすけ)の供養塔がある。幕末期の新選組局長・近藤勇はその4代目。

 

 

 

金川砂子(かながわすなご。神奈川砂子)に見る「軽井沢観行寺」。
画像出典・神奈川区誌(昭和52・1977年神奈川区誌編纂刊行実行委員会編) 

 

金川砂子は、神奈川宿仲之町でキセル商を営んでいたと伝わる煙管亭喜荘(きせるてい きそう)が文政年間(1818〜1830)に描いた神奈川宿の図会。

 

 

 

台町(だいまち)への坂を上っていく。

 

 

 

上台橋(かみだいばし)。昭和5年(1930)開通。
橋の先から、急坂となる。明治以降埋め立てが進む以前、街道沿いには茶屋が立ち並びその眼下には袖ヶ浦(そでがうら)の入江が広がっていた。

 

 

 

金川砂子に見る「袖ヶ浦之景」。入江右手の対岸は横浜村の砂州。
画像出典・神奈川区誌 

 

 

 

こちらは貞秀の「東海道神奈川台并(ならびに)かるい沢ヨリ横浜海岸町〜(以下略)」。対岸に開港場横浜の街がちらりと見える。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション 

 

 

 

上台橋の下は昭和5年(1930)に切通しとなり、その上に橋が架けられた。
埋め立てられた袖ヶ浦は現在では横浜駅西口の超高層ビルが立ち並ぶ。右は横浜市域最初の超高層ビル・天理ビル。超高層ビルの黎明期・1972年(昭和47)に竣工した。左は旧相鉄本社・旧ムービル跡地に建てられたベイシェラトン。

 

 

 

橋のたもとは、散策ルート「神奈川宿歴史の道」の上方(かみがた)側起点となる。  案内図拡大版 

 

 

 

途中、ブラフ積(ブラフづみ)を用いた石積み擁壁が見られる。ブラフ積とは山手界隈に多く見られる、長い石の長辺と短辺が交互に表に出るように積む洋風の積み方。レンガのフランス積に相当する。こうして旧市街地近郊の各所でもときおり見られる。

 

 

 

神奈川台関門跡。

 

 

 

案内板。
安政6年(1859)の開港にあたって設けられた関門のうちで有名なものは横浜道の終点・開港場の入口にあたる吉田橋の関門であるが、関門は安政6年から翌年にかけて数か所に設けられていた。神奈川台関門はそのうちの一つ。明治4年(1871)に関門はすべて廃止された。それは鉄道開通の前年のこと。

 

 

 

関門跡から旧東海道を逸れて、高島台の高台へ上がっていく。

 

 

 

途中のマンションに、往時の地形を等高線で表した案内板が掲げられている。 

 

旧東海道を示す青い線は、微妙にずれているが概ね一致する。
権現山から高島山、野毛山など、神奈川から横浜にかけての小高い山々・断崖は開港期〜築港期の埋め立て事業によりずいぶんと削られた。

 

 

 

上台町(かみだいまち)公園。

 

 

 

西口の超高層ビルを一望する。公園を後に、歴史の道へ戻る。

 

 

 

神奈川宿歴史の道は、上台町公園の下を通る道をまっすぐ先へ進む。

 

 

 

右手を見下ろすと、かえもん公園がある。
この小さな公園は、開港初期の実業家、高島嘉右衛門(たかしま かえもん)にちなんだ公園。

 

 

 

案内板。
嘉右衛門は海上に築堤された鉄道敷設用地の土木事業やガス事業会社の設立、あるいは晩年の高島易断でその名を知られる。

 

幕末から明治、高島嘉右衛門をはじめとした開港初期の実業家たちは埋め立て事業など土木分野、都市のインフラ整備につながる事業に力を発揮した。そののち、明治前期に至ると茂木惣兵衛(野澤屋)や原善三郎(原三溪の養祖父。亀屋)といった生糸貿易で大成功をおさめた実業家が横浜経済を牽引していく。
嘉右衛門らは、開港初期において都市横浜の基礎を作った恩人であった。

 

 

 

かえもん公園から再び歴史の道に上がって先へ進み、右へ折れると横浜駅界隈の超高層ビル群が目の前に広がる。

 

 

 

「神奈川宿歴史の道」の、眺望ポイント。右に西口の高島屋とベイシェラトン。左に東口のそごうと二代目スカイビル。その間に、横浜駅。

 

 

 

案内板。
鉄道開通(明治5年・1872)当時の、当地からの眺め。旧東海道沿い・台町の茶屋街を見下ろし、その先の入江には鉄道敷設のための人工島が弧を描いて築堤されている。築堤がカーブしていく手前辺りが現在の(三代・四代目)横浜駅の位置となる。

 

 

 

明治30年代、高島台から眺めた袖ヶ浦の鉄道築堤よりさらに奥の入江。現在の横浜駅西口(北幸・南幸)はまだ海上。堤防で区切られた陸地側から埋め立てが進んでいった。
画像出典・グラフィック西 目でみる西区の今昔 

 

 

 

橋本玉蘭斎(=貞秀)の、御開港横浜之全図(ごかいこうよこはまのぜんず。増補再刻版。一部)
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション 

 

安政6年(1859)の開港後、鉄道敷設(明治5・1872)より前、慶応元年(1865)頃の景観。

 

手前が東海道神奈川宿。右手奥の入江が袖ヶ浦・神奈川湊であり和船が描かれている。左手の開港場(横浜)の沖に描かれた蒸気船と好対照。
海岸線に築かれた神奈川台場(砲台)のあたりから右手に権現山(現幸ヶ谷公園)、本覚寺の建つ高島山へと尾根が続く。

 

この地は安政6年(1859)の横浜開港よりはるか昔、中世の頃から神奈川湊(かながわみなと)が開け、鎌倉街道下の道(しものみち。保土ヶ谷辺りからはほぼ旧東海道と重なる)が傍らを通る交通の要衝であった。
神奈川の地名は記録の上は鎌倉時代中期の文永3年(1266)から現れる。当時は鶴岡八幡宮の所領であった。有力な寺社の支配地であったということは、支配者にとっても魅力的な経済活動があったことを物語る。
神奈川湊が文献上に現れるのは室町時代前期の永和4年(1387)から。商業・徴税の各種記録が残っており、活発な経済活動がうかがえる。
戦国時代(1500年代)には小田原城の有力な支城・小机城(こづくえじょう)と一体的に繁栄。領内の建築資材・食糧・物資などの物流を支えた。

 

江戸時代に至ると、東海道の宿場町、江戸湾の物流拠点の港町として、神奈川は更なる発展を遂げる。品川や神奈川など、江戸湾の湊は内陸の八王子や厚木といった地域と江戸や房総を経済的に結びつける小都市の役割を果たした。
神奈川における宿場は東の神奈川町と西の青木町からなり、神奈川宿の人口は江戸時代後期には6000人近くに達した。これは同じく現在の横浜市域における宿場町である保土ヶ谷、戸塚のほぼ二倍であり、小田原宿と並び東海道有数の規模であった。もっとも、小田原は町人の宿場町に加えて小田原城下の武家屋敷町も広がり、全体では1万人を軽く超える都市を形成していた。

 

台町の眼下に広がった江戸時代までの神奈川湊は近代以降の埋立により海岸線が大きく変わったため、もはやその物的な痕跡を見ることはできない。

なお、御開港横浜之全図はインターネット上で閲覧できるサイトが幾つもある。
お薦めは「UBC Library Digital Collections(ブリティッシュコロンビア大学図書館。海外サイト)」。ここでは初版、増補再刻版ともに掲載されている。
こちらの画像はかなり拡大できるので図中の文字までくっきりと読み取ることができる。トップページのSearch窓から「yokohama no zenzu」で検索すれば簡単に閲覧できる。
また、早稲田大学のサイトでは初版のものがPDFで見られる。早稲田の初版のものは傷みがあるがUBCのものとは中村川沿いの開発の進捗具合が異なっており(UBCのもののほうが古い)、興味深い。

 

 

横浜の開港よりもさらに前、内海の袖ヶ浦から横浜にかけては武蔵国きっての景勝の地でもあった。

 

開港目前の安政5年(1858)には台町の茶屋・石崎楼から、歌川広重による「神奈川台石崎楼上十五景一望之図」が刊行されている。
手前は神奈川宿の権現山。右手の台町から先、この絵では袖ヶ浦の奥は山に隠れているが、その先には野毛浦と横浜の砂州、内海が見える。
画像出典・神奈川宿歴史の道パンフレット(神奈川区発行) 

 

また、元文元年(げんぶんがんねん。1736)には儒学者・林大学頭(だいがくのかみ)信充(のぶみつ。林家第4代榴岡・りゅうこう。初代は林羅山)が「袖ヶ浦八景」の題詠をよせている。
その八景とは、野毛晴嵐(西区)傘島秋月(西区)石川夜雨(中区)光明晩鐘(西区)平潟落雁(西区)石崎夕照(西区)鷹巣暮雪(西区)舟干帰帆(中区)。
寡聞にして傘島、平潟、鷹巣がどの辺りを指すのかはよく分からない。光明はおそらく久保山の光明寺か。舟干はおそらく洲干(しゅうかん)すなわち横浜村の長く延びた砂州。八景のいずれも神奈川の対岸の地であり、宿場町神奈川からの眺めを詠んだものであるという。

 

 

 

江戸名所図会に見る横浜弁財天社(洲干弁天社)。ちょうど十五景一望之図のうち洲干(横浜)あたりの拡大図となる。
奥の山手・元町方面から手前の桜木町方面にかけて延びてくる、美しい砂州。左手が江戸湾、右手は内海。幕末までに内海のほとんどが埋め立てられて開港場となった。
画像出典・国立国会図書館近代デジタルライブラリー 

 

 

 

北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。

 

神奈川湊の沖、江戸湾越しの富士山は絶妙の距離感をもって座する。東海道神奈川宿から江戸湾に別れを告げ保土ヶ谷宿、戸塚宿、藤沢宿と越えていった先、次に視界に開ける海は相模湾。富士山は次第に大きく迫ってくるゆえ、この構図のひらめきは当地なればのものであったかもしれない。

 

 

 

こちらは広重の「諸国名所百景 相州七里ヶ浜」「富士三十六景 相模七里ヶ浜」。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション 

 

鎌倉・七里ヶ浜から西、小動岬(こゆるぎみさき。腰越(こしごえ)の辺り)と江の島。その間に見える富士は東海道を西へ西へと歩みを進めるに従い、次第に迫ってくる。

 

 

 

高島山公園へ。

 

 

 

望欣台(ぼうきんだい)の碑。開港初期の実業家、高島嘉右衛門を称える碑。

 

望欣台とは嘉右衛門が住んだ高島台の邸宅を指す。かの地から埋め立ての進む港を欣然(きんぜん。楽しげに事をするさま)として眺めたことから名づけられた。
なお高島台に建っていた高島嘉右衛門の邸宅、および眼下に築堤された鉄道を描いた画像資料は、横浜開港資料館(外部サイト)>閲覧室でご覧になれる資料>よこはま歴史画像集をみる>13.明治期銅版画>横浜諸会社諸商店之図その2、で見ることができる。

 

 

 

弁玉(べんぎょく)歌碑。弁玉とは文政元年(1818)生まれの、僧侶にして歌人。嘉永3年(1850)三宝寺の住職となる。明治13年(1880)神奈川の地にて没。

 

まさに開国の激動期を神奈川の地で過ごした弁玉は、開港場の風物やら世相やらを数多くの歌に詠んだ。
この碑は明治16年(1883)、望欣台(ぼうきんだい。高島嘉右衛門の邸宅)に建碑。大正5年(1916)には岡野家の千歳園(ちとせえん)へ、昭和初期には同じく岡野家の常盤園(ときわえん)へ移設。初め望欣台に建てられたのは嘉右衛門と弁玉との親交の縁で、また岡野家は当主の岡野勘四郎(良哉・りょうさいと号す)が門下であった縁による。昭和41年(1966)に至り、所縁の地に近い現在地に移設された。

なお、岡野家とは江戸末期の岡野新田の開発でも知られる保土ヶ谷の実業家。千歳園と常盤園は勘四郎の長男・岡野欣之助(善哉と号す)の代に開設。本牧の三溪園同様、公園を補う私園としての側面があった。欣之助は父勘四郎の一周忌(明治41年・1908)には追悼記念として弁玉の歌集「由良牟呂集(ゆらむろしゅう)」を増補再版している。

 

千歳園は明治末期に公開された、3300平方メートルの純和風庭園。岡野新田のあたりに、県内初の公立女学校である県立高等女学校(現平沼高校)の敷地提供と併せて、良好な宅地開発の一環として設けられた。その趣旨は戦後の岡野公園(2.2ヘクタール。100m四方×2.2)へと繋がっていく。

 

常盤園(住民は敬意を表して岡野公園と称した)は大正3年(1914)公開。保土ヶ谷の丘陵地に広がる32ヘクタールの広大な敷地には園入口に通じる公園坂に料亭が並び、梅林や葡萄園などのほかテニスコートも設けられ、当時は三溪園と並び称される庭園であった。なお隣接地には大正12年(1923)程ヶ谷カントリー倶楽部(日本人向け18ホールのコースとしては日本初。現横浜国立大学敷地)が開場した。常盤園の跡地の一部は昭和17年(1942)、市が買収し常盤公園(4.9ヘクタール)となる。

 

 

高島山公園に設置されている案内板。

 

 

 

案内板中の、明治前期の横浜実測図(明治11年・1879完成)。赤文字加工はサイト管理者。
拡大版

 

彼我公園は完成(明治9・1876)しているが東海道線・横浜〜保土ヶ谷のスイッチバック(明治20年・1887完成)はまだ見られない。

 

 

 

同じく実測図の神奈川宿あたり。赤文字加工はサイト管理者。
拡大版
画像出典・神奈川区誌 

 

 

 

古墳時代遺跡分布図にみる、神奈川区の地勢。 画像出典・神奈川区誌 

 

開港の交渉でアメリカ公使ハリス、イギリス総領事オールコックらは条約を根拠に神奈川の開港を強く要求した。諸外国からすればこれから貿易をするのになにも辺鄙な横浜村ではなく、すでに江戸湾でも指折りの物流拠点・商業地として繁栄する様相を見せていた神奈川宿・神奈川湊を開港場とせよ、というのは当然のことであった。
しかし幕府は「横浜も神奈川の一部」として譲らなかった。本音としては往来の激しい宿場界隈での攘夷派浪士と外国人のトラブルを恐れ出島状の横浜に居留地を隔離したかったのだが、建前としては「神奈川宿は海と台地に挟まれ低地が少ない」と主張した。外国側は「埋め立てれば平地は造れる」と反論したが、幕府側は「横浜は広く、沖の水深も深い」と応じた。

 

確かに実測図などを見ると、神奈川宿周辺はもちろんのこと、東海道沿いに神奈川と保土ヶ谷の間に広がる帷子川(かたびらがわ)河口の入江・埋立地(岡野・平沼新田)でも大岡川河口の入江を埋め立てたあたり(太田屋・吉田新田)より大分狭い。もしこれが逆であれば、幕府は諸外国を横浜開港で押し切ることはできなかったであろう。

 

 

 

高島山公園から、青木橋方面へ下りていく。

 

 

 

浄土宗瑠璃光山医王院三宝寺。

 

 

 

案内板。
開山は嘆誉(〜慶長2・1597)。歌人でもあった弁玉は、三宝寺の第21世住職。

 

 

 

眼下に青木橋。視線の奥に立ち並ぶ、神奈川界隈の超高層タワー。下へ回ると、本堂を見上げることができる。

 

 

 

コンクリートの高架柱の上にて異彩を放つ本堂は昭和50年(1975)築。旧東海道と背後の崖に挟まれた手狭な敷地を最大限に活用するためこのようになった。参道は往時の旧東海道側から高島台側に変わっている。

 

 

 

旧東海道を少し引き返し、台町(だいまち)の茶屋街跡へ。

 

 

 

広重の「東海道五十三次之内 神奈川 台之景」(保永堂版)。袖ヶ浦の入江が台町のすぐそこまで迫っており、茶屋から眺めを楽しむことができた。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション 

 

 

 

広重が描いた、台の茶屋からの眺め。「五十三次 かな川」(人物東海道)、「五十三次名所図会 四 神奈川」(竪絵東海道)。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション 

 

この地は十返舎一九が「(・・・はや神奈川の棒鼻へつく)それより二人とも馬を下りてたどり行くほどに神奈川の台に来る。ここは片側に茶店軒を並べいづれも座敷二階造、欄干付の廊下、桟橋(かけはし)など渡して浪打ちぎわの景色至ってよし。(茶屋の女門に立って)お休みなさいやぁせ・・」(東海道中膝栗毛)と記した、袖ヶ浦の地。

 

 

 

明治初期の台町。
画像出典・神奈川区誌 

 

 

 

坂の手前に、東横(とうよこ)フラワー緑道の案内板。 案内板拡大版 

 

東急東横線のみなとみらい線直通・地下化に伴い跡地が緑道となった。
旧東海道から入ったすぐそこに、かつて東横線神奈川駅があった。

 

 

 

大綱金刀比羅神社(おおつなことひらじんじゃ)。

 

社伝によれば平安末期の文治年間(1185〜1189)、伊豆石橋山の合戦に敗れ真鶴(まなづる)から安房(あわ)に逃れた源頼朝が源氏再興を成し遂げたのち大権現を奉ったのがその起こり。はじめ勝軍飯綱大権現として境内の裏山上にあった。

飯縄(飯綱)信仰は信州・飯綱山(いいづなやま)に発する山岳信仰。不動明王の化身とされた飯縄(いづな)大権現を祭神とし、とりわけ戦国時代には多くの武将に篤く信仰された。関東では戦国北条氏が飯縄大権現を祀る高尾山薬王院を篤く庇護している。

江戸時代初期の寛永19年(1642)、社殿を造営。現在の境内に移ったのは文政(1818〜30)の頃。弘化3年(1846)には新殿を造営。
明治に入り、大綱神社と改称。明治末、境内の末社金刀比羅神社を合祀した。
背後の山は、明治の世に嘉右衛門が邸宅を築いて高島山と呼ばれるようになる前は、飯綱山と呼ばれていた。

 

江戸時代、袖ヶ浦を出入りする船はこの神社に航海安全を祈願し、街道沿いは廻船問屋が軒を連ね大いに繁栄したという。「こんぴらさん」の名で知られる讃岐国(現香川県)・金刀比羅宮は航海の安全を司る神様を祭る。江戸時代、日本全国に廻らされた廻船の航路を行き交う船は讃岐の「こんぴらさん」に詣で、ここ神奈川湊にもそのころに金刀比羅神社が勧請されたのだろう。

 

 

 

広重の「東海道五十三次細見図会 神名川(部分)」。 画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

滝の橋あたりから青木町、台町、軽井沢。神奈川宿の先は芝生村、追分、帷子の里あたりまでを俯瞰した図。画面左手に本牧を入れ込んでいる。
青木町の沿岸には帆を畳んだ和船が何隻も停泊している。

 

飯綱権現の参道脇、街道を挟んだ両側には一里塚があった。

 

 

 

フラワー緑道案内板中の図。
図中、参道脇の大きな黄色の塚が一里塚。

 

 

 

料亭田中家。前身は広重の神奈川にも描かれている、旅籠の「さくらや」。台町の茶屋の歴史を今に伝える。
坂本龍馬の妻・おりょうが龍馬亡き後いっとき勤めていたことでも有名。おりょうはのちに再婚、横須賀の地にて生涯を終えた。

 

 

 

案内板。
明治・大正時代の田中屋の写真が掲げられている。

 

 

 

江戸名所図会に見る、台町の茶屋街。「さくらや」の看板が見える。 画像出典・神奈川区誌 

 

 

 

開発の進んだ台町ではあるが、往時の面影を大切にしていると感じさせる一面もある。
青木橋に戻り本覚寺へ向かう。

 

 

2.本覚寺から青木橋、幸ヶ谷公園を経て神奈川公園、台場跡へ

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