令和四年(2022)一月中旬の週末、富士山の大展望を楽しみに西丹沢前衛の山・大野山(おおのやま。723m)に登る。
スタートは山北(やまきた)駅。下山は丹沢湖へと下りロックフィルダムの三保(みほ)ダム、湖底に沈んだ世附(よづく)地区から移築された古民家「三保の家(旧渡辺家住宅)」を訪れる。
3.丹沢湖・三保ダム、三保の家
大野山から下山後、丹沢湖・三保ダムへ。三保ダムは岩を積み上げてダム提を築く、ロックフィルダム。その規模は日本のロックフィルダムの上位一割に入る。三保の家は湛水により湖底に沈んだ世附地区の古民家が移築されたもの。
大野山(おおのやま)山頂〜丹沢湖ルートの神縄(かみなわ)トンネルバス停分岐から丹沢湖畔・玄倉(くろくら)方面の県道に出る。
分岐道標が立っていたのは三神(さんしん)隧道の上の鞍部。
このトンネルは丹沢湖が完成する前、玄倉の集落に通じていた旧道のトンネル。トンネルの名は旧三保(みほ)村と旧神縄村を結ぶトンネル、ということだろう。
車道は旧落合発電所が竣工した大正六年(1917)までに発電所工事のために川西から神縄、田ノ入(たのいり)、落合へと馬車の車道が通された。昭和初期には松ヶ山峠を越える道に代えて松ヶ山隧道が完成した、とあるので神縄から玄倉への車道・隧道もその頃の開通であろう。
現在でこそトンネル南側の道路の線形はぐにゃぐにゃと曲っているが、それはダム湖完成の頃に付け替えられたもの。
旧道の三神トンネルが開通するよりもさらに前、神縄(昔は「かんなわ」と読んだ)から玄倉に入るには三神峠を越えていった。分岐道標が立っていた鞍部が三神峠、ということになる。
参考「続丹沢夜話」ハンス・シュトルテ著 「丹沢湖」神奈川新聞社
「山と高原地図 丹沢」(1973年版)に見る、かつての丹沢湖周辺。
50年近く前の地図なので合成紙(耐水性紙)の劣化が激しく、開くたびに折り目が細かい繊維のようにボロボロと崩れてしまう代物。
なお湛水前の姿は丹沢湖記念館のジオラマでも再現されている。
湖沿いに三保ダム方面へ歩いていくと「オシドリ岬」。丹沢湖は「かながわの探鳥地50選」に選定されている。
すぐそばの欄干にはオシドリのレリーフ。越冬期には丹沢湖にオシドリが飛来する。
残念ながらオシドリ岬からオシドリは見つけられなかった。
更に進んでいくと「常用放流施設取水口」や「永歳橋」が見えてくる。
振り返れば神尾田(かみおだ)トンネルの北側坑門(出入口)。左手が玄倉方面。
取水設備ではダム広場隣りの水力発電所、東京発電・田ノ入発電所に落とす水を取水する。東京発電は東京電力のグループ企業。
オシドリはいなかったがカワウがいた。
カリヨン(音楽を奏でる組鐘)。ここが丹沢湖バス停から最寄りの大野山登山口となる。
本来はここに下山する予定だったが、三神トンネルなど予定外のものを撮ることができたので結果オーライ。
測水塔。
三保ダムに到着。
ダム堤へ。
三保ダムの竣工は昭和53年(1978)。計画段階では現在地の神尾田のほか、川西の鮎沢川・河内川合流点付近も候補地として検討されたというが地形や地質を勘案した結果現在地となった。
ダム名は計画段階では(仮)酒匂ダム(さかわダム)、となっていた。これに対して湖底に沈む旧三保村の名を正式名称に残したいという要請があり、現在名になった。
参考
「三保ダム建設工事誌」神奈川県企業庁管理局三保事務所発行
「丹沢湖」神奈川新聞社発行
三保ダムのあらまし。
ダムの型式はロックフィルダム(岩石や土砂を積み上げてダム堤を築く型式のダム)。当初は重力式コンクリートダムを予定していた三保ダムにこの型式が採用されたのは周囲の岩盤が比較的脆いため。確かに西丹沢周辺の岩盤は浸食に弱く風化しやすい地質といえる。
(財)日本ダム協会「ダム便覧」によるとロックフィルダムの総数は日本における全ダム数の一割強にあたる、およそ300基。その中で三保ダムの規模(高さ95.0m、長さ587.7m、体積5,816,000立米)はロックフィルダムの上位一割くらいに入るスケール。関東では奈良俣ダム(群馬県・利根川水系)に次ぐ規模、といっていい。
県民の水がめとして丹沢湖が誕生した結果水没した集落は、神尾田(神尾田の名は旧神縄村の一部である尾崎、田ノ入が大正末期に三保村(明治後期までの旧世附(よづく)村、旧中川村、旧玄倉村)に編入され、頭文字をとって三保村大字神尾田となったのだろう。なお字尾崎の「落合」の地名は一般的に川の合流点が落合と呼ばれることによるのであろう)、世附(旧世附村)、大仏(旧中川村)、焼津(やけづ。旧中川村)、玄倉(旧玄倉村)。ただし、世附のうち浅瀬地区と玄倉の一部は標高が高かったためそれぞれの一部(上流部)が水没を免れた。
ダム堤の天端(てんば)からダム広場へ下りていく。
ダムサイトの底にあるダム広場までは80mほどの高低差があり、かなり深い。
ロックフィルダムの巨大なダム堤。三保ダムではダム堤の緩やかな法面に芝生が張られて小山のようになっており、巨大なアースダム(土堰堤)のよう。一般的にイメージされるコンクリートダムはもちろん、びっしりと岩が積み上げられたロックフィルダムともだいぶ印象が異なる。
堤体の幅は上部で15m、底部では587mにも及ぶ規模となる。こうなると四角錘ならぬ切妻屋根型の巨大な岩山(587m四方)のピラミッドが谷に挟まっているようなものだ。とはいえ周知のように西丹沢は活断層も多く、地震多発地帯。素人目に「地震は大丈夫なのか」と感じる人も少なくないはず。
ダム建設にあたり設計は幾度となく変更され、震度法に基づく設計震度は0.2(ダムに作用する重力を1sとしたときに水平方向からの力に200gまで耐える。マグニチュードに換算すると8.7に相当。関東大震災は7.9であり、設計震度0.15で耐える)とされた。当時、通常のダムは0.12で計算されているといい0.2という数字で設計されたのは三保ダムが全国初、となった。施工にあたった鹿島の工事部長は「これほど安全性を重視したダムは三保が初めて。そのため堤体が膨らみ、斜面が緩やかになっている」という。
堤体底部に活断層があると地震の影響を直接受けた場合は崩壊につながる。これに対しては酒匂川総合開発建設事務所所長が「ボーリング調査では活断層が予測されたが、実際の工事で岩盤を出してみると断層までいかず小規模破砕帯だったため底部を掘り起こしての大改造をやらずに済み、ダムの高さが5mほど低くなったのはうれしい誤算だった」と証言している。
なお地震調査研究推進本部による近年の調査研究では、三保ダム近辺の断層のうち活断層と評価されるのは塩沢断層帯。神縄(かんなわ)断層、玄倉断層は評価対象外とされている。
そして底部や両岸の岩盤の隙間を埋める補強のために、深く細く掘られた孔にセメントミルクを注入するグラウト(グラウチング)が計2,500本以上(総延長にして45,000m超)打ち込まれている。
参考
「丹沢湖」神奈川新聞社
「塩沢断層帯・平山−松田北断層帯・国府津−松田断層帯(神縄・国府津−松田断層帯)の長期評価(第二版)」
ダム広場に到着。
案内図。
四阿そばの歯車、水車ランナ(羽根車)のモニュメント。
案内板によると歯車は三保ダムが建設される前にダム広場付近に存在した田ノ入ダム(取水堰。かつて谷峨駅近くの嵐発電所に送る水を取水していた)のゲートの巻上機に用いられたもの。
三保ダムが建設される前の田ノ入取水堰。背後の山に旧落合発電所の水圧管が見える。
画像出典「三保ダム建設工事誌」神奈川県企業庁管理局三保事務所発行
水車ランナは三保ダム完成により運転を開始した田ノ入発電所で最初に用いられたフランシス水車のもの。
これは「ダムカード」の枠だね。
実際に配布されているダムカードの図柄は、先ほど登ってきた大野山の山頂方面から俯瞰した三保ダムの姿を描いている。
三保ダム・丹沢湖の模型(五十分の一スケール)。
ダム下流の斜張橋は松ヶ山橋。
実物の松ヶ山橋。橋の名はダムサイト建設の際に削られた「松ヶ山峠」に由来する。
松ヶ山橋は洪水吐の下流に管理用道路の目的で架橋。河川敷内に橋脚を設けられないこと、右岸橋台は既設護岸を利用するため大きな反力を支えられないこと、といった制約があったため左岸にタワーを設けた斜張橋となった。
参考「三保ダム建設工事誌」
三保ダムの洪水吐(こうずいばき)。四門+一門のゲートが並んでいる。
ここだけを見ると三保ダムがまるで重力式コンクリートダムのように見える。
湛水前の三保ダムを上流側から俯瞰した画像。ロックフィルダムの洪水吐部分がコンクリートを打設して造られたことが、裏から見るとよくわかる。
画像出典「三保ダム建設工事誌」
法面道路を通って天端に戻る。
上まで歩くと15分。
洪水吐の位置は計画段階では現在の右岸側(河口に向かって右側の岸)のほか左岸側(田ノ入発電所の常用放流施設あたり)も検討された。地質的にはむしろ左岸側の方が良好だったというが、放流に対して下流線形がよくないことや施工上の課題が多かったことから、右岸側に決定した。
参考「三保ダム建設工事誌」
実際に歩いてみると、その距離の長いこと。
これはもはやダムというより山の放牧場だ。
田ノ入発電所の建屋、ダム広場を見下ろす。
三保ダムの建設にあたっては山北町(やまきたまち)からの要望により丹沢湖を下池とする大規模な揚水発電所の建設も検討された。
調査段階では玄倉川と中川川に挟まれた大杉山中腹の台地に上池を設け45万kwの地下発電所を建設する電源開発案、大又沢中流の地蔵平に上池を設け90万kwの地下発電所を建設する東京電力案が検討された(ちなみに津久井湖・城山ダムと城山湖・本沢ダムによる揚水発電は25万kw)。
しかし電発案は採算的に実施不可能、東電案も上池ダムは築造可能だったものの地下発電所を設置するための大地下空洞に適する良好な岩盤が無かったために実現には至らなかった。
参考「三保ダム建設工事誌」「丹沢湖」
ダム堤の上流側。ダムが岩積みの堤体であることはこちら側を見ると分かる。
三保ダムから「三保の家」へ。「三保の家」の向かいに建つ「落合館」は水没した字尾崎・落合地区にあった宿が移転してきたもの。
丹沢湖記念館・三保の家。
「三保の家(旧渡辺家住宅)」は水没した世附地区から移築された江戸末期築の古民家。渡辺家は村方三役を務めていた。
軒下の濡縁。
土間から広間を見る。
土間に展示されている民具。
広間の続きの間には囲炉裏が切られている。南関東とはいえ冬の丹沢の山奥は寒冷地なので煮炊きは火を絶やすことのない囲炉裏で行ったのだろう。
囲炉裏の間は家人の生活空間。
囲炉裏の煙で屋根裏を燻すため天井板は張られていない。燻され続けた梁は黒光りしている。
中の間。仏壇が設えてある。
中の間の天井は構造材の太い梁や根太(ねだ)がそのまま見える根太天井。天井は屋根裏部屋(養蚕部屋)の床となる。
奥座敷。簡素ながら床(とこ)が設えてある。奥座敷は接客のための空間であり家人は使用しない。
天井は座敷にふさわしく竿縁天井(さおぶちてんじょう)が張られている。
障子欄間(しょうじらんま)もはめられている。
座敷の控えの間。こちらも客人のための空間。
奥座敷、控えの間には広縁が設けてある。
屋根裏部屋(養蚕部屋)の側の屋根はカブト屋根になっている。屋根の妻側を切り落として開口部を設け、養蚕のための通風・採光を確保する。手前にはミツマタの木。
春を待つ、ミツマタの蕾。
花開くと、このような感じに。
丹沢湖記念館の敷地に展示されている水車ランナー。これは三保ダム建設により水没した旧落合発電所で使われていたペルトン水車(羽根がお椀状のバケットになっている)のもの。
旧落合発電所は大正六年(1917)、鶴見埋築(つるみまいちく。社長は浅野財閥の総帥・浅野総一郎)が京浜地区の埋立事業の自家消費と浅野セメント・日本鋼管への給電を目的に建設した発電所。
参考「続丹沢夜話」
丹沢湖記念館・三保の家の最寄りのバス停は丹沢湖バス停(富士急湘南バス・西丹沢ビジターセンター〜新松田駅)。
予定通り三保ダムと三保の家の見物を午後4時までに終え、小田急・新松田駅へ。この時間なら途中のJR・谷峨駅での御殿場線への乗り換えの便もそう悪くはない。
令和四年の山初めの一本は松田町(まつだまち)・中澤酒造の「松美酉(まつみどり)本醸造 しぼりたてのお酒」を新松田駅・松田駅前の中沢屋酒店で購入。午後5時前に立ち寄ったらその日の分はこれが最後の一本だった。セーフ。
「山下りてみんな大好きしぼりたて」
年頭の山行を締めるのは、渾身の一句(笑)。そもそも「しぼりたて」は季語なんか?これで新春のウキウキを感じるのは酒呑み限定の季節感かもしれん(大野山のジャージー牛乳だってふもとのカフェで飲めば年がら年中「しぼりたて」じゃんか)。で、新酒にまつわる季語を歳時記で調べてみたら「あらばしり(新走)」が載っていた。しかし、なんと「秋」の季語だと?一体何時代の酒造りだよ、と思わず突っ込み。
まあ、おあとがよろしいようで。
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