まちへ、森へ。

保土ヶ谷宿から井土ヶ谷へ分水嶺越え、古道金沢みちを歩く

3.南太田・井土ヶ谷界隈あるき

 

2.清水ケ丘公園と大原隧道はこちら

 

 

清水ケ丘公園の南側入口から古道「かなさわみち(金沢道)」を下ってゆく。

 

 

 

道は大きく右カーブ。

 

 

 

京急のガード下をくぐる。

 

 

 

平戸桜木道路・南センター入口信号。金沢道はこのまま直進して大岡川を蒔田橋(まいたばし)で渡り、鎌倉街道へと進む。その辺りからしばらくは都市化が著しく古道「かなさわみち」の道筋は不明瞭。

 

ここで左折して横浜商業高校まえから井土ヶ谷橋へと廻り、井土ヶ谷事件の跡へと巡っていく。

 

 

 

水天宮前。右手に見える横浜商業。

 

 

 

神奈川県の中等教育機関(旧制中学・高等女学校・実業学校、現高等学校)として最古の歴史を誇る、横浜商業高校(Y校)。

前身は明治15年(1882)創立の横浜商法学校。元々は横浜の商人が設立した商業学校であった。初代校長は福沢諭吉による推挙によって就任した福沢の門下生である三沢進。三沢は以降40年余りにわたって独自の商業教育理念を実践していく。
明治21年(1888)には同年制定の商法(法制度としての商法)との混同を避けるため校名を横浜商業学校に変更。明治25年頃に校章が「Y」に定まり、市民から「Y校」と呼ばれるようになる。なお、この時点でも神奈川県最古の旧制中学校である「神中」(じんちゅう。現県立希望ケ丘高校)はまだ創設されていない。

横浜商業が北仲通(中区)から現在地に移転してきたのは明治38年(1905)。大正5年(1916)には現在の校歌が制定される。作詞は横浜市歌と同じく森林太郎(鴎外)。翌年に横浜市に移管され市立学校となった。

 

 

 

創立40周年を機に学校の高等商業学校への昇格を目指す議案が横浜市会に提出される。しかし関東大震災(大正12・1923年9月)が発生し計画は頓挫、延期を余儀なくされた。

その頃の横浜商業は文部省の教育制度とは異なる独自のカリキュラム(尋常小学校卒業後予科2年、本科5年の計7年)を行っており、文部省の告示では「高等なる商業学校と認定す。但し高等商業学校にあらず」という位置づけがなされていた。これは高商のレベルとほぼ同格という扱いとなり、横浜商業卒業生に対する企業側の評価も高かった。「Y-boy」が外国人商人からも一目置かれていた時代である(ちなみにY校野球部の甲子園初出場は大正12年(1923)であるが、この時代のY校の最上級生は旧制中学の最上級生よりも二年上であり、そもそも大会に出場する気が無かった時代が長かったのではないか)。

 

震災の影響で高商への昇格が頓挫したのち、横浜商業も文部省の方針により全国一律のカリキュラム(本科5年)に合わせざるを得なくなる。これは修業年数の短縮による卒業生のレベルダウンを意味した。

大正12年(1923)には官立の横浜高等商業学校(横浜国大経済学部の前身)が創設された。ここには全国から志願者が殺到、市内出身者が入学しづらくなる状況が生じる。そこで官立とは別に市としても専門教育のできる商業学校の設立が必要となり、横浜商業学校から分離、昇格させるかたちで市立横浜商業専門学校(Y専。横浜市立大学商学部・現国際商学部の前身)が設立される。

こうした経緯を経て戦後に至り、学制改革により横浜商業は市立横浜商業高等学校となった。

 

参考「南区の歴史」「Y専(横浜市立横浜商業専門学校)の歴史−横浜市立大学創立100年にむけて−」

 

 

 

歩道橋から見る「Y校前」交差点。
かつてY校が甲子園の強豪校で鳴らした時代、他県のファンからは横浜商業の略称が「Y高」「Y商」でなく「Y校」なのはなんで?と聞かれがちだった。当時は自分自身もよく分かっておらず「昔からそうだから」としか答えられなかったものだが、改めて歴史を詳細にひも解いてみると、まさしく横浜商業は「Y校」として歴史を歩んだことが分かる。戦前から「高」はもちろん、「商」でもないのは先に見た複雑な歴史があったからだった。

 

 

 

校地に沿って、大岡川へ。

 

 

 

Y校ボート部の艇庫。
高校でボート部のある学校はそう多くはない(むしろ少ない)。大岡川でトレーニングをするY校ボート部の生徒たちの姿も、大岡川の風景の一つ。

 

 

 

艇庫前の道路は、昭和初期〜30年代の地形図を見ると片側が水路となっていた。左の黒いフェンスの向こう側、ボート・カヌー出入口はその一部。

 

 

 

日を改めて訪れてみると、タイミングよくボートが出艇していた。

 

 

 

大岡川に沿って井土ヶ谷橋へ。

 

 

 

旧井土ヶ谷橋の親柱。井土ヶ谷橋架替記念の碑に利用されている。
初代の橋は昭和4年(1929)に震災復興事業の一環として架けられた。現在の橋は平成25年(2013)に生まれ変わったもの。

 

 

 

井土ヶ谷橋で右折して井土ヶ谷事件の跡に向かう。

 

 

 

左右に通る道は先ほど南センター入口信号まで歩いてきた金沢道の古道の続き。左へ進むと大岡川に架かる蒔田橋で、その先が鎌倉街道。古道の道筋は鎌倉街道辺りでは不明瞭になっている。奥の二又に分かれたあたりが「井土ヶ谷事件の跡」。

 

 

 

「井土ヶ谷事件の跡」は青いフェンスに囲まれている。
二又の左の道は金沢道から分岐し鶴巻市場交差点を経て弘明寺(ぐみょうじ)の門前に向かう古道。

江戸時代の地誌「新編武蔵国風土記稿 巻之七十八 久良岐郡之六 本牧領 井土ヶ谷村」には「村内三条の道あり、一は北(太田村)の方より東(大岡川、対岸は蒔田村)に通ず、これ金沢道なり。一は鎌倉道といい、これも北より入て南(弘明寺村)に達す・・・。一は小径なり、南より入西(永田村)の方に達す」とある。「弘明寺村」には「村中往来二道あり、一は井土ヶ谷村より中里村の方に達す・・・これを弘明寺通り金沢道といい、又一は東の方戸部村より井土ヶ谷村の堺にて前の道に合す」とある。

右は井土ヶ谷橋から五差路の井土ヶ谷交差点へと続く道。

 

 

 

フェンスの中には庚申塚と戦没者慰霊碑。

 

井土ヶ谷事件とは幕末の文久三年(1863)に起こった外国人殺傷事件。案内板には実際の現場はここから南東へ109mほど離れたところ(蒔田橋辺りにあった、十二天社の森付近)とある。

 

蒔田橋から金沢道を乗馬で保土ヶ谷方面に向かっていたフランス人士官三人のうち、陸軍中尉カミュが浪士に斬殺された。文久二年の生麦事件(居留地の民間人殺傷事件)を受けてイギリス軍・フランス軍の山手への駐屯が始まっているが、彼らも駐屯軍の一員だったのだろう。
しかしながら神奈川奉行所の捜索にもかかわらず、とうとう犯人を逮捕することは出来なかった。カミュは山手の外国人墓地に埋葬されている。

生麦事件やこの事件に居留民たちの怒りは沸騰したものの、外交レベルでは薩英戦争に発展した生麦事件と異なって極めて冷静な対応がとられた。案内板にあるように幕府はフランス公使ベルクールの助言に従ってフランスに謝罪のための特使を派遣している。また事件から幾らも経たぬうちに新たに着任した公使ロッシュの協力により横須賀製鉄所(造船所)の建設計画がスタートしている。

 

 

 

続いては井土ヶ谷上町第一町内会館(旧井土ヶ谷見番)へ。井土ヶ谷事件の跡から弘明寺門前への古道を鶴巻市場交差点に向かう。

 

 

 

道幅は広がっているが、カーブが多い。

 

 

 

鶴巻市場交差点。横断する道は国道1号保土ヶ谷橋交差点から井土ヶ谷切通しを越えてきた環状1号線。奥に見える細い道が古道の続き。

 

 

 

細い道に入っていく。
直進すると弘明寺の門前に至るが、最初の角を右折すると町内会館に向かう道。

 

 

 

右手から道が合流してくるあたり。右手からの道は昭和初期〜30年代の地形図では細い水路が傍らを流れていた。

 

 

 

先の分岐は左へ。右への道は、元は水路の続きであったのが埋め立てられて道となったもの。

 

地図に見る井土ヶ谷界隈の道路が縦横斜めと非常に複雑になっているのは中世以来の古道の道筋に近代以降の水路を埋めた跡の道、大正・昭和初期〜戦後と順次開通していった新しい道が重なり合っているから、ということになる。この界隈はギリギリのところで戦災を免れたためか、区画の再整備などはなされていない。

 

 

 

井土ヶ谷上町第一町内会館(旧井土ヶ谷見番)に到着。

 

 

 

玄関には立派な入母屋(いりもや)屋根を備えている。
見番(けんばん)とは芸者衆の手配などを行った花街の組合の事務所。芸妓の稽古場でもあった。

 

 

 

玄関屋根の天井は格天井(ごうてんじょう)。玄関引き戸の上には小振りな筬欄間(おさらんま)がはめられており、総じて凝った作りとなっている。

 

 

 

この建物が建てられたのは昭和12年(1937)。近時までトタン張りの外壁であったが、市の歴史的建造物に認定されたこともあって令和二年(2020)に建築当初の下見板張り(したみいたばり)の姿に復原された。

 

 

 

先へと進み、住吉神社へ。

 

 

 

井土ヶ谷地区の鎮守、住吉神社。

 

 

 

拝殿。
県神社庁サイトによると住吉神社の創建年代は不詳だが、明治初期の神仏分離に際して隣接の乗蓮寺と境内を分け村社に列せられた。

「新編武蔵」住吉社の項によれば江戸時代までは社の建つ地は乗蓮寺御朱印地の内だった。山上の社殿前には85段の石段があって中腹に石鳥居が立っていた。

「南区の歴史」によると昭和41年(1966)には社殿のあった丘陵を削って平坦地にする大工事を行い、往時の数倍となる現在の境内となる。その後に拝殿が神明造、本殿は住吉造の鉄筋コンクリート造社殿などが竣工していった。

 

 

 

境内の石塔。
右の庚申塔(こうしんとう)は地中深くに埋まっていたものを掘り起こして祀られた、とある。

 

 

 

住吉神社から乗蓮寺へ。
画面の奥は平戸桜木道路・住吉神社入口。奥への細い道も昭和中期ごろまでは水路だった。
境内に沿って左手へと進む。

 

 

 

乗蓮寺は住吉神社のすぐ隣。

 

 

 

高野山真言宗・西向山妙歓院乗蓮寺。寺伝によると開基は北条政子、開山は照清法印。別名「尼将軍の寺」とも呼ばれた。

「新編武蔵」乗蓮寺の項によると寛永十年(1633)に再興された御影堂の棟札に「奉造立鎌倉二位尼御影堂一宇云々」、裏面には「二位尼者北条四郎時政息女、則右大将(頼朝)家北御方、頼家実朝両公之為慈母」とあった。続けて「頼朝の逝去後26年を経た嘉禄元年(1225)に亡くなった。法名は如実。世にいう尼将軍はすなわちこの人である」といった内容が見られる。

由緒ある本堂、庫裏、山門は昭和32年(1957)の出火で全焼。昭和43年(1968)に鉄筋コンクリート造の堂宇が落成した。
参考「南区の歴史」

 

 

 

尼将軍化粧の井戸。

 

今回のまち歩きは御所台の井戸(保土ケ谷区・いわな坂)、尼将軍化粧の井戸と北条政子ゆかりの井戸を二か所巡った。

 

 

 

石で囲った井戸には金網の蓋が架かっている。
「新編武蔵」井土ヶ谷村に拠れば、井土ヶ谷の地名は窪地の地勢の故とも尼将軍の井戸に由来するともいわれる。

 

 

 

右の地蔵菩薩は元禄十四年(1701)、左の阿弥陀如来は享保十年(1725)と刻まれている。

 

 

 

乗蓮寺を後にして、平戸桜木道路を井土ヶ谷交差点方面へ進んでいく。

 

 

 

「横浜天然温泉くさつ」。ここは公衆浴場法に基づくいわゆる「銭湯」であり、銭湯の共通料金で入浴することが出来る。
ここから井土ヶ谷駅までは5分ほど。まち歩きの上りにひと風呂、というのもよいが、今後のことを思うと今回はちょっと歩き足りない。「かもめパン」の揚げパンも買いたいので、環状1号・井土ヶ谷切通しを越えて国道1号・保土ヶ谷橋方面へ戻る。

 

 

 

京急・井土ヶ谷駅前。

 

 

 

井土ヶ谷切通しの手前、上り坂に差し掛かるあたり。

 

 

 

ここに横浜市立小学校の学校給食でお馴染みの「かもめパン」本店・本社工場がある。

 

 

 

懐かしの揚げパンを購入。「きなこ」とか「シナモン」とか色々とあるけれども、懐かしさで言ったらやっぱり「砂糖」。

 

 

 

上り坂の頂上部は首都高神奈川3号狩場線・永田ランプ。切通しを越えて下り国道1号・保土ヶ谷橋へ。

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