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保土ヶ谷宿から井土ヶ谷へ


令和三年(2021)4月下旬、横浜市保土ケ谷区の東海道保土ヶ谷宿から南区の南太田・井土ヶ谷界隈へ、帷子川(かたびらがわ)、大岡川流域をまたぎながら古道を巡り歩く。

1.保土ヶ谷宿・金沢横丁から「いわな坂」



旧東海道・保土ヶ谷宿。

旧東海道(環状1号線)はJR横須賀線・保土ケ谷駅西口まで拡幅されているが、その先は宿場時代からの狭い道が今も残っている。




金沢横丁(金沢横町)の道標四基。

保土ヶ谷宿から分岐する「かなさわみち(金沢道)」。角には建物の建て替えの際に「程ヶ谷宿お休み処(保土ヶ谷宿番所、帷子番所)」が整備されている。

かなさわ道は能見堂(のうけんどう)を経て金沢八景へと通じていた。その先は朝夷奈(あさいな。朝比奈)切通しを越えて鎌倉へと続いていく古道「むつらみち(六浦道)」。保土ヶ谷宿からの道筋は鎌倉時代の「鎌倉街道・下の道」に概ね重なる。その他にも「峰の灸」の円海山(えんかいざん)、古刹弘明寺(ぐみょうじ)杉田の梅園富岡の芋明神といった江戸時代の観光地へ通じる枝道が各所で分岐していた。

杉田への道標には「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」(其爪・きそう)の句が刻まれている。其爪は吉原の娼家の養子となった人で、後に文化文政期の江戸浄瑠璃の家元、河東節の一門である十寸見蘭州(ますみ らんしゅう)の名跡を継いだ。俳諧は江戸琳派の絵師でもあった酒井抱一(さかい ほういつ)に学んでおり、俳諧を嗜んでいた保土ケ谷宿の商家の人々に乞われて詠んだもの、とされている。
参考「保土ケ谷ものがたり」




踏切を渡る。




国道1号を渡ると「いわな坂」への登り口。標高およそ7m。




いわな坂は石難坂や石名坂、あるいは磐名坂とも表記される。昭和の頃の文献では表記はまちまち。




福聚寺への参道石段。




山門には「無量山」の扁額。




臨済宗建長寺派・福聚寺(ふくじゅじ)。

公式サイトによると、開山は南北朝期の建武二年(1335)。当初は現在の西区久保町にあった、とある。
建長寺第三十八世の古先印元(こせん いんげん。1295〜1374)がこの地に庵を開いて岩間山と号したのが、この地における福聚寺の始まり。明応元年(1492)、その頃には荒廃していた福聚寺に入って中興の祖となったのが光庵。その後を継いだ文山は野毛浦に臨光寺を開創、後嗣の長庵は当地に蓮求庵を創設した。寛政年間(1789〜1801)になって蓮求庵跡に移転再建されたのが現在の福聚寺となる。
江戸後期の地誌「新編武蔵国風土記稿 巻之六十九 橘樹郡之十二 神奈川領 福聚寺(新編武蔵には福寿寺とある)」によると「寺僧の話に二十四五年前までは久良岐郡戸部村の境によりてありしを、其頃当所には蓮求庵という庵室のありけるが、いかなる故にか当寺を庵室の地へ引移しせしという」とある。




坂が急坂になってきた。




左手の石段の上に、御所台(ごしょだい)地蔵。




登り口には地蔵菩薩と三猿の彫られた庚申塔(こうしんとう)。「保土ケ谷ものがたり」によると元禄十五年(1702)十月十二日と刻まれているらしいが、ちょっと読み取りにくい。




御所台地蔵尊。その隣りは地蔵菩薩の坐像だろうか。頸部には修復された跡がある。ちなみに県内では地蔵菩薩坐像の有名どころとしては鎌倉の建長寺本尊元箱根石仏群の磨崖仏などが知られている。




周囲には多数の石仏が奉安されている。




元禄五年(1692)と刻まれた青面金剛(しょうめんこんごう。夜叉神)と宝永八年(1711)と刻まれた地蔵菩薩。宝永といえば富士山の宝永噴火があった頃。




こちらは正徳六年(1716)と刻まれた馬頭観音。馬頭観音に通常みられる印相とは違った、蓮の蕾を手にした柔和な観音様。女性の戒名「何々信女」が刻まれている。




坂を挟んだ向かい側には「御所台の井戸(政子の井戸)」。




案内碑によると、鎌倉時代に北条政子がここを通りかかったとき井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝わっている。江戸時代には保土ヶ谷宿の苅部本陣で御膳水として用いられたともある。




よしずの蓋が架けられた、政子の井戸。

この坂を越えていった先、井土ヶ谷(南区)にはこの後訪れる乗蓮寺(開基は北条政子)という寺があるので、このあたりは政子の化粧領であったのであろうか、という見解がある。
保土ケ谷区公式サイト「歴史散歩について」のページに掲載されている「尼将軍政子の井戸はあふれいて朝(あした)涼しく蟹あそぶなり」という歌は大和市在住の加藤龍門氏による短歌で新万葉集(昭和12〜13・1937〜38)に掲載されたもの。
参考「保土ケ谷ものがたり」「南区の歴史」




急坂が続く。




横浜清風高校(旧明倫高校)の辺りで坂を登り切った。標高およそ50m。ここからしばらくは緩い尾根道が続く。




高校敷地の角の十字路。向かいの角には「北向(きたむき)地蔵」が立つ。




北向地蔵(江戸向地蔵)。

保土ケ谷区公式サイト「歴史散歩について」によると、近隣の住職が「道に迷った僧を助けるようにと夢の中で地蔵菩薩のお告げがあった」と旅の僧を助け、これに感謝した旅の僧が建立したのが北向地蔵、と伝わる。何度向きを直しても一夜にして元の向きに戻っていた、という各地の社寺によく見られる伝承がここでも伝わっている。




蓮華の台座の上に地蔵菩薩坐像。




案内板。
享保二年(1717)に建立されたこのお地蔵様は「かなさわみち」と鎌倉方面への「くめう寺(ぐみょうじ)みち」の辻(分岐)の道しるべともなった。現代の道はちょっとわかりにくいが、当時は保土ヶ谷宿方面から直接弘明寺に向かうにはこの辻を折れていった方が近かった。




金沢道を先へと進む。




道の随所で里道の頃からの枝道が分かれている。




二又に分かれた道は、右が旧道の道筋。




旧道は首都高神奈川3号狩場線で分断されているので、少々迂回して陸橋を渡る。














左手には清水ケ丘公園の運動広場(軟式野球場)。




狩場線の新山下方面。




保土ヶ谷バイパス方面。




金網越しに資源循環局保土ケ谷工場の煙突、そして大山が霞んで見える。

古来の道も、尾根筋のこの辺りからこのようにして大山を眺めることが出来たのであろう。この日は見えなかったが空気が澄んでいれば大山の左手に富士山も見える。




旧道の道筋に復帰。




区界を超えて保土ケ谷区から南区へ。




清水ケ丘公園の多目的広場。




道は井土ヶ谷への下りに差し掛かった。




清水ケ丘公園の南側入り口に到着。


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