まちへ、森へ。

飯山白山〜鐘ヶ嶽、晩秋の里山へ

2.広沢寺温泉入口から鐘ヶ嶽へ

 

1.飯山観音から白山、順礼峠へはこちら。

 

 

順礼峠(167m)から広沢寺(こうたくじ)温泉入口バス停(91m)まで下りてきた。時刻は11時30分過ぎ。
ここからこの日二つ目の山、鐘ヶ嶽(かねがたけ。561m)に登る。

 

 

 

「東丹沢七沢(ななさわ)温泉郷」は七沢温泉、一軒宿(玉翠楼)の広沢寺温泉、一軒宿(山水楼)のかぶと湯温泉の総称。

 

 

 

バス停の先に見える坂を登り、鐘ヶ嶽の登山口へ。今回は鐘ヶ嶽を下山後、かぶと湯温泉山水楼まで足を延ばす予定。

 

 

 

坂の途中には簡易トイレ。

 

 

 

目の前にそびえる鐘ヶ嶽(561m)。里山の低山といえども端正な三角形のその姿は、登高意欲をそそる。

 

 

 

「森林セラピーロードマップ(鐘ヶ嶽ハイキングコース)」。
鐘ヶ嶽の登山道は山頂直下に鎮座する浅間神社(せんげんじんじゃ。七沢神社)の表参道。登山口には鳥居が建つ。

 

 

 

厚38系統・厚木バスセンター〜七沢温泉〜広沢寺温泉「鐘ヶ嶽」バス停。
県道の広沢寺温泉入口から分岐の道を広沢寺温泉まで入っていくこの系統は、土休日でも一日に四本しかない。

 

登山口(参道の鳥居)へはバスがゆく道から分かれて正面右側の緩く下っていく道を進む。

 

 

 

しばらく進むと、登山口への案内板。

 

 

 

登山口手前の分岐にも道標が立つ。

 

 

 

左手の石段が登山口。

 

 

 

鐘ヶ嶽と七沢浅間神社(七沢神社)の案内板。

 

山名の由来には案内板の龍宮伝説もあるが、室町時代中期の鎌倉府における関東管領上杉氏一族の一つである扇谷(おうぎがやつ)上杉氏・上杉定正の居城となった七沢城(跡には七沢リハビリ病院)の見張りのための出城として合図の鐘が置かれた、というものが尤もらしい。

浅間神社は「新編相模国風土記稿巻之五十八愛甲郡巻之五毛利庄七沢村」浅間社の項によると、元禄二年(1689)に僧の宥映により記された縁起に「孝元天皇(神代に続く時代、紀元前に在位した第八代天皇)の御代に初めて姿を現した」といった内容が記されている。その遥か後に扇谷上杉定正により社が造営された。そして、その頃の鐘ヶ嶽は大応岳とも浅間山とも呼ばれていた、とある。

 

 

 

石段下で標高119m。ここから山頂まで標高差440m余り。山頂への標準コースタイムはおよそ1時間。

 

 

 

石段の上、一の鳥居。

 

 

 

二丁目。
鐘ヶ嶽の登山道には一丁目から二十八丁目まで、丁目石が奉納されている。そのうち九丁目までは頂部に石仏を戴いている。
二丁目の丁目石は風化による剥落や損傷が激しく、彫られていた仏様の名も判読できない。

 

20年ほど前の丹沢ガイドブックには二丁目付近から正面に鐘ヶ嶽の山容を大きく望むことができるとあったが現在ではスギの植林の若木がすっかり育っており、ここからは山の姿は望めない。

 

 

 

扉付きの獣除け電気柵。

 

 

 

ここは六丁目、石仏は勢至菩薩。

 

 

 

七丁目、大日如来。
2011年、鐘ヶ嶽の石仏は心無い者に荒らされてその多くが損傷してしまった。
参考「ヤマケイアルペンガイド5丹沢」(2012年発行の版)
ウェブに当時の記事が上がっており、この大日如来は修復されてその姿を取り戻している。

 

 

 

 

 

 

 

十丁目からはこのような丁目石に変わる。これらは富士講の人々により奉納されたものであって、刻まれている元号は幕末期の文久四年(1864)のものが多い。

 

江戸の町民が組織した富士講は町単位で富士塚をこさえるのが一般的というが、鐘ヶ嶽の場合は相模国一円から広く丁目石の奉納があり足元の厚木地域の講による奉納は一つしかない。鐘ヶ嶽浅間神社は富士浅間信仰と養蚕信仰を結び付け、相模一円の養蚕農家らで組織する富士講の人々の信仰を集めていたのではないかと考察されている。相州各地の富士講から信仰を集めた鐘ヶ嶽は、一種のミニ富士あるいは大型の富士塚と化した状況にあった。
参考「富士塚と富士講−鐘ヶ嶽と富士信仰をめぐって−」大野一郎(論文)

 

 

 

十三丁目の丁目石と「上杉公(上杉定正)内室の墓」への分岐道標。

 

 

 

十五丁目のすぐ下には「七沢自然ふれあいセンター」への分岐。

 

 

 

十五丁目。

 

 

 

十五丁目には富士講の丁目石の他に石仏(勢至菩薩)も奉納されている。

 

 

 

十七丁目。

 

十五丁目から十七丁目にかけては、これまでも平安期の布目瓦や須恵器が度々見つかっていた。
そして平成12年(2000)、十七丁目付近で大量の古代瓦(丸瓦、軒丸瓦、平瓦)が発見された。

神奈川県埋蔵文化財センターの調査により瓦は八世紀末ごろに南多摩の古窯で焼かれたものと判明。時代背景からすると屋根に瓦を葺いていた建築物は政治権力と結びつきのある寺院以外には考えられない。
こうして考古学的な見地から、鐘ヶ嶽十七丁目付近の平場は複数の堂宇から成る謎の古代山岳寺院「鐘ヶ嶽廃寺」跡であることが明らかとなった。
参考「丹沢の行者道を歩く」

 

 

 

「鐘ヶ嶽ハイキングコース0.7km」の道標。
平地なら歩いて10分程度のこの数字は、ここから浅間神社までの地図上の距離。現地を歩いているハイカーにとって、あまり意味はない。

 

 

 

道標の背後に十八丁目の丁目石。

 

 

 

十八丁目では展望が大きく開ける。
横浜ランドマークタワーがよく見える。その手前にはららぽーと海老名に隣接するタワー。左にはリコーテクノロジーセンターのビル。右手に海老名駅前再開発のタワークレーン。その背後の緑地が伊勢山自然公園。緑地の手前が相模国分寺跡となる。

 

古代寺院の伽藍が広がっていた当時、ここからは相模国分寺七重塔(推定高さ65m)が天を突くように聳えていた様が一望できたはず。

 

 

 

十九丁目を過ぎてゆく。

 

 

 

二十丁目の手前あたりから岩が目立ち始めてきた。

 

 

 

二十一丁目。

 

 

 

二十二丁目。行く手に巨岩が突き出ている。

 

 

 

二十二丁目石の手前には「覗きの松 二代目」の標柱と若い松。

 

 

 

巨岩の上には石碑。「小御嶽 石尊 大権現 大天狗 小天狗」の文字が刻まれている。
「小御嶽(こみたけ)大天狗 小天狗」は富士浅間信仰において五合目に祀られていた小御嶽大権現。「石尊(せきそん)」は大山に祀られていた石尊大権現。

 

古代寺院があったころの鐘ヶ嶽は行者の山だった。「丹沢の行者道を歩く」には「官寺である相模国分寺・・・の僧が修行エリアとして選択した山林はどこか。・・・海老名から見ても、最も美しくそびえているのは大山である。・・・古来、相模平野では大山が神の鎮まる山であった。鐘ヶ嶽は海老名市側から見ると大山の手前に見えるハヤマ(奥山に対する端山、里に近いこんもりとした山)である。山林修行拠点としての山岳寺院を建立するには絶好のロケーションなのである。」という解析が見られる。
そして近世には庶民による大山詣でが大流行。1800年代初頭には、大山と富士山の祭神が父娘の関係にあることから片方だけを詣でるのは「片参り」であるとして双方を詣でる両詣りが盛んとなった。
この地は山岳修験の古代、そして富士講の近世にも大山を遥拝する場所としての意味を持っていた。

 

 

 

へっぴり腰のくせに高いところに登りたがる自分がいる(笑)。これはちょっとした行場の覗き岩だ。
左の三角の山は見城台(みじょうだい。375m)、すぐ右手の双こぶの左側が日向山(ひなたやま。404m)。日向山の裏側が日向薬師となる。見城台もここ鐘ヶ嶽も室町期には七沢城の出城(砦)として機能していた。

 

 

 

見城台と日向山の間に伊豆大島が見える。見城台の左手には湘南平・高麗山のあたりのシルエット。
伊豆大島が見えたおかげで、事後の山座同定(見城台と日向山)が上手くいった。

 

 

 

ちなみに二十二丁目は「鐘ヶ嶽位置確認表示板マップ」No.7のあたり。

 

 

 

二十三丁目を過ぎたあたり。
この付近の進行方向左側にかすかな踏み跡があって、辿っていくと大岩を割ったノミの跡が残っているそうだ。「奥半谷(おくはんや)」と呼ばれているところで、江戸から明治にかけての七沢石の産出地だったという。
参考「地球の風2丹沢山塊」(日地出版、1997年発行)

 

 

 

二十六丁目で石段が現れた。
幾つかの古いガイドブックによると石段は「387段(!)」とある。

 

 

 

二十七丁目の長い石段。

 

 

 

 

 

 

 

巨岩が立ち塞がり、踊り場になっている。

 

 

 

さらに登っていくと再び巨岩。

 

 

 

石仏も奉安されている。

 

 

 

新しい石碑には「天台宗 鐘掛山 尊聚院 禅法寺跡」とある。

 

禅法寺は江戸時代に浅間社の別当(社務を管理する寺)を務めていた寺院。新編相模によると伊勢原市日向・浄発願寺の末寺で中興開山は江戸元禄期の木食(もくじき。木の実・草だけを食して修行した上人)空譽禅阿。尾張徳川家の信仰が厚かったが、明治初期に廃寺となった。

 

 

 

石段は大きく歪んでいる。この石段、下りに使うにはちょっと緊張する。

 

 

 

社殿の前、二の鳥居。「明治三十二年一月二十六日」の日付が刻まれている。

 

 

 

「小嶋勇」の名が刻まれた石像。その装いは明治期の陸軍軍服のようだ。おそらく明治三十七八年戦役(日露戦争)あるいは明治二十七八年戦役(日清戦争)で英霊となられた方の親族により建立されたのだろう。
やはり関心を寄せられた方もいらっしゃるようで、追跡調査を行いその詳細がまとめられたブログもみられる。

 

 

 

法一山大神宮社の名が碑に刻まれた祠。

 

 

 

浅間神社社殿。

 

 

 

 

 

 

 

車道も通わぬ山深き山頂直下に忽然と現れた、大きく立派な社殿。軒唐破風(のきからはふ)の下や蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)の彫り物の精巧さは近世後期の建築らしさを感じさせる。浅間社に寄せられてきた信心の深さを物語っているようだ。

 

社殿前の広場に設けられた見晴らしの良いベンチで、お昼の休憩をとる。

 

 

 

「浅間山七沢神社 子宝恵みの夫婦杉」と記された、双幹の大杉。

 

 

 

社殿の平場からもうひと登りすると、鐘ヶ嶽山頂(561m)。

 

 

 

山頂には二体の不動明王像が奉安されている。一体は風化が進んでおり、もう一体は明治十五年(1882)に再建されたという像。富士講の盛んなりし近世〜近代にも、中腹の出土品などによって修験者による山岳信仰の山であったことは意識されていたのだろう。

 

 

 

山頂はさして広くはなく、一組だけのテーブルとベンチは先客の方が利用されていた。

 

 

 

山神(やまのかみ)トンネルの側に向けて下山開始。時刻は午後1時10分過ぎ、広沢寺温泉までの標準コースタイムは1時間20分。

 

 

 

なだらかに延びる尾根は歩きやすい。

 

 

 

 

 

 

 

歩きやすそうな道ではない方に赤テープがある。「直進したら道迷い必至の下り枝道か」と地形図を見るが、そうでもない。真っすぐに進むと何のことはない、このすぐ先で合流していた。まあ、鐘ヶ嶽でそんな道があったら道標を立てるか。赤テープは山仕事の目印か何かだろう。

 

 

 

目にも鮮やかな紅葉。

 

 

 

分岐に到着。標高438m。

 

 

 

右への分岐は「らくらくコース」となっている。やや緩やかな斜面を下り、山神トンネルを抜けて広沢寺温泉へと向かう大廻りの道。

 

 

 

山ヤの端くれとして、ここは急傾斜に突撃、一気に下るしかあるまい。

 

 

 

鎖場(くさりば)の急傾斜を下っていく。

 

 

 

雨などで滑りやすかったりしたらウンザリするが、このところは好天続き。こういう道はワクワク感があって楽しい。鐘ヶ嶽が修験の山であったことを思い起こさせる。

 

 

 

林道に到着。標高338m。

 

 

 

山神トンネル。真っ暗で、結構長い。「らくらくコース」を下ると奥の出口を進んだ先へ下りることになる。

 

 

 

林道を下っていった先に、車止めのゲート。

 

水場の「七沢名水・澤泉(たくせん)」はゲートの先を少し下っていった左手にあるようだが、ちょっと急いでいたので気付かずに通過してしまった。更に下ると「石切場」と刻まれた、かつて七沢石を切り出した石切り場を示す石柱があるようだがこちらも見落としてしまった。
参考「ヤマケイYAMAPシリーズ7丹沢」

 

 

 

透過型の大きな砂防堰堤は「山の神沢3号えん堤」。近頃の堰堤は豪雨による流木や巨石を食い止めつつ、下流に細かな土砂が供給されるようにこのような工夫がなされている。

 

 

 

新大平橋を通過。

 

 

 

「七沢里山づくりの会」による棚田復元事業。

 

 

 

新型コロナ禍の2020年は手入れもままならなかったろう。棚田の奥にはアーチ橋の新大平橋が見える。

 

 

 

大釜弁財天道の道標。昔はこの辺りからの山道があったのだろうか。地理院地図では破線が途切れている。

 

大釜弁財天へはこの先で分岐する林道(獣除けゲートあり)を進む。大釜弁財天の先には二十二丁目の巨岩上から眺めた見城台、日向山への登り口がある。

 

 

 

茶畑。

 

 

 

みかん畑の向こうに広沢寺温泉玉翠楼が見えてきた。

 

玉翠楼は東丹沢の山歩き後に日帰り入浴で露天風呂を利用できる七沢温泉郷の一軒宿。夕方まで受け付けているので山帰りの利用者も少なくない。

 

 

 

川魚料理ますや。

 

 

 

玉翠楼への分岐に立つ、広沢寺の下向き地蔵。

 

 

 

今回の立ち寄り湯はかぶと湯温泉山水楼へ。
河鹿の沢バス停を過ぎて鐘ヶ嶽バス停の手前で狭い道を左折し、鐘ヶ嶽バス停から緩く下って来る道に出たら左折、鐘ヶ嶽登山口の案内看板まで進む。

 

 

 

登り始める前に見た案内看板の角を折り返すように右へ下る。

 

 

 

 

 

 

 

上河戸橋を右折。

 

 

 

右折して道なりに進んでいくと県道の下をくぐって七沢バス停に至るが、県道をくぐるかなり手前の狭い道をそのまま直進。

 

 

 

狭い道から車道に出る。そこを左折して進むと、かぶと湯温泉山水楼。

 

 

 

案内板が出ている。

 

 

 

かぶと湯温泉の一軒宿、山水楼に到着。時刻は午後2時半ごろ。秘湯の風情が漂うこちらは強アルカリ泉質の七沢温泉郷の中でも特にアルカリが強いとの評判。
ところが「本日の日帰り入湯は終了させていただきました」の案内が出ている。あー、残念。ちょっと遅かったか。温泉はまたの機会に持ち越し、とすることにした。

 

 

 

道を引き返して県道まで戻り、県道を渡った先が「七沢」バス停の折り返し場。

 

 

 

予定が変わって次の厚木バスセンター行きまで1時間以上空いてしまった。伊勢原駅北口行きも丁度良いのが無い。
ならば七沢温泉入口か、それがだめでもリハビリ入口まで行けば別の系統があったはずと思い、そちらまで移動する。すると七沢温泉入口で数少ない広沢寺温泉発の便が一足早くやって来る時間だったのでそちらに乗車し、本厚木駅へ。

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