まちへ、森へ。

帷子川〜鶴見川〜滝ノ川水系流域、分水嶺を越えて

6.三ツ沢公園から浅間下、旧東海道へ

 

5.三ツ沢公園はこちら。

 

 

「三ツ沢公園前」交差点から「新横浜通り」の手前を右手に入り、旧道へ。

 

 

 

平沼記念体育館前の旧道。

 

 

 

体育館前の旧道を「新横浜通り」に架かる歩道橋から見下ろす。

 

 

 

旧道の道筋は戦没者慰霊塔方面への歩道橋を渡った向こうへと続き、「豊顕寺(ぶげんじ)市民の森」へと延びている。

 

この旧道は「4.豊顕寺市民の森」で触れた、江戸時代の僧侶の学問所「三澤檀林(みつざわだんりん)」へと通じる「檀林道」であった。

 

 

 

1945年〜1950年の空中写真。赤青の加筆はサイト管理者。 拡大版
画像出典「国土地理院 地理院地図ベースマップ上の情報ボタンから空中写真・衛星画像」

 

画像上の道筋は大正十一年測図昭和六年修正測図の二万五千分一地形図に示された情報を空中写真に重ね合わせた。
Stanford Geospatial Center(スタンフォード大学地理空間情報センター)>Gallery>Japan 1:25,000」

 

 

檀林道については「神奈川区誌」では東海道・芝生村(しぼうむら)との境となる浅間下(せんげんした)あたりから北へ上る道、神奈川宿の飯田道から分岐して本覚寺裏を経て檀林に至る道があった、と紹介されている。
一方で「横浜西区史」では神奈川区では浄瀧寺(じょうりゅうじ)前から現在の反町(たんまち)駅北端、松ヶ丘を通って至る道、西区では勧行寺裏山から関東自動車学校横手を通る道と「けかち川」で東海道と分かれ宮谷(みやがや)小学校裏手から山へ登る道があり両道は宮ヶ谷で合流し三ツ沢慰霊塔横を通って豊顕寺へ至る、と紹介されている。

 

「飯田道〜本覚寺裏の道」と「浄瀧寺前〜反町駅北端〜松ヶ丘の道」は同じ道のことで、神奈川宿の東側・神奈川町から反町川(滝ノ川)沿いに豊顕寺へ至る道となる。これは江戸方から来た学僧たちが辿った道であろう。幕末期に神奈川宿の寺院を宿舎とした外国人たちが豊顕寺を訪れたときの道もこちらであろう。こちらの道は上の空中写真では表示の域外となる。

 

「浅間下からの道」は「けかち川(の石橋)から宮谷小学校裏山へ登る道」と同じであり、東海道を上方方面の保土ヶ谷宿からやって来た学僧たちが通った道であろう。「勧行寺裏山〜関東自動車学校の横手を通る道」は神奈川宿の西側・青木町から檀林への道となる。

 

 

 

三ツ沢公園案内図(文字等の加工はサイト管理者)
案内図拡大版

 

 

 

平沼記念体育館前から旧道を登っていく。

 

 

 

下り始めて最初の右への分岐を入ったところにあるお地蔵さんと、欠けた道標の残り部分。

 

この道標残欠は西区史で紹介されている檀林道の道標となる。ここは「けかち川石橋から登って来た道」と「勧行寺裏山からの道」の合流点。
けかち川石橋へ下る道は区画の造成によりここから先は消滅しており、宮谷小学校裏山の階段から先が残存する道の続きとなる。
西区史によると檀林道の道標は三基確認されている。あとの二基は勧行寺墓地に残る道標、ホーリネス教会に残る道標残欠(こちらはおそらく東海道との分岐点に置かれたものが移設されたものではないか、とされている)。

 

お地蔵さんは「原のいぼ取り地蔵」と呼ばれる。横浜市ウェブサイト「西区そぞろ歩き」のページによると、このお地蔵さんは「いぼ」を取ることにかけては霊験あらたかだったという。病を治癒するためには神仏への信心が拠り所であった近世以前、こうした信仰は近在でいえば神奈川宿の笠のぎ稲荷、富岡のいも観音(保土ヶ谷宿・金沢横丁には芋観音への道標が残っている)などにも見られた。

 

 

 

分岐に戻って歩道橋へと下っていく坂道は「観行寺裏山からの檀林道」の残存部分。

 

 

 

歩道橋から新横浜通りを見下ろす。左手に軽井沢中学校、奥の青い建物は関東自動車学校(KANTOモータースクール)。

 

 

 

軽井沢中学校まえ。

 

 

 

KANTOモータースクールへの道から見下ろす新横浜通り。

 

 

 

カーブの先、奥に見える階段を上がり、軽井沢古墳跡を観に行く。

 

 

 

 

 

 

 

階段を登りきったところにある、軽井沢古墳跡。石碑が建てられており、案内板がある。

 

 

 

横浜市域においては、古墳は鶴見川流域の台地に数多く存在した。そして、帷子川(かたびらがわ)流域の台地にもこうして古墳が存在していた。

 

 

 

浅間下へ。

 

 

 

「宮谷(みやがや)小学校入口」。

 

 

 

「宮谷小学校入口」の交差点から旧東海道の旧道(正面の狭い道)へ入り、保土ヶ谷宿方面(上方方面)の相鉄線・天王町(てんのうちょう)駅へ。反対方向(江戸方)の神奈川宿方面はこちらのページへ(浅間下から台町、高島山へ)。

 

地図上ではすぐ先の浅間下交差点を通る広い車道(環状1号線)が旧東海道と表示されることも多いが、江戸時代の東海道の道筋は旧道の方。

 

 

 

浅間神社(せんげんじんじゃ)参道入口。

 

 

 

旧東海道をゆく。岡野新田や平沼新田の開発が始まる前、江戸時代前期までは東海道のすぐ脇(画面の左手)に海岸が迫っていた。

 

 

 

沿道には蔵も残っている。

 

 

 

浅間神社の例大祭でお目見えする山車(だし)の格納所。

 

 

 

芝生追分(しぼうおいわけ)。旧東海道と旧八王子道の分岐となる。

 

 

 

洪福寺(こうふくじ)松原商店街。平素もさることながら歳末ともなれば松原商店街の風物詩ともいえる正月用品を求める大勢の買い物客で大変な賑いとなり、「ハマのアメ横」とも呼ばれる。

 

 

 

国道16号(八王子街道)を渡る。

 

 

 

国道16号・洪福寺交差点方面。

 

 

 

ここまでくれば、保土ヶ谷宿はもうすぐ。

 

 

 

橘樹(たちばな)神社。

 

社伝によると文治二年(1186)、源頼朝が京都祇園社の分霊を勧請したのが始まりという。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の本地仏(仮の姿となってこの世に現れる前の本来の姿)とされる牛頭天王(ごずてんのう。インド・祇園精舎の守護神)。万治三年(1660)に現在地に遷座するまでは宮田町にあった。

 

 

 

現代の帷子橋を渡ると、相鉄線天王町駅はすぐそこ。天王町駅前・旧帷子橋跡から保土ヶ谷宿方面はこちらへ

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