令和元年(2019)6月中旬の、アジサイを愛でるウォーキング。
スタートは相鉄線西谷(にしや)駅。西谷駅から新線開業間近の羽沢(はざわ)横浜国大駅へと歩く。その先は「滝ノ川あじさいロード」、「三ツ沢せせらぎ緑道」、豊顕寺(ぶげんじ)市民の森、三ツ沢公園を経て浅間下(せんげんした)へ向かう。
今回は分水嶺の尾根を超えながら三つの河川流域(帷子川水系菅田川、鶴見川水系鳥山川、滝ノ川水系反町川)を巡って歩く。
5.三ツ沢公園
総合運動公園としてその名を知られる三ツ沢公園は神奈川区を代表する公園。サッカーJリーグ・ラグビーリーグワンのクラブが本拠地とする「ニッパツ三ツ沢球技場」は全国区の知名度。その他にも市民には馴染み深い三ツ沢陸上競技場、知る人ぞ知る馬術練習場などの施設がある。マニアックなところでは「平沼さんの像」も。三ツ沢はまた、戦没者慰霊塔が建つ鎮魂の場、という顔も持つ。
豊顕寺(ぶげんじ)市民の森・八幡広場から三ツ沢公園の市戦没者慰霊塔に隣接する広場へ。
三ツ沢公園案内図(文字等の加工はサイト管理者)
案内図拡大版
三ツ沢公園は総面積およそ29ヘクタール(100m四方×29)の運動公園。開園は昭和24年(1949)。県道「新横浜通り」で二分され、北側のエリアは豊顕寺市民の森に隣接する。
神奈川区における公園は関東大震災(大正12・1923)からの復興事業として造成された神奈川公園(昭和5・1930年開園。まち歩き・本覚寺から青木橋〜神奈川公園のページへ。)が嚆矢であろうが、名実ともに神奈川区を代表する公園とくれば、この三ツ沢公園を置いて他にない、といっても異論はないだろう。
紫陽花の季節の今回は豊顕寺市民の森の側から戦没者慰霊塔、馬術練習場、あじさい園、桜山、陸上競技場、ニッパツ三ツ沢球技場と巡っていく。
戦没者慰霊塔の広場へ。
市戦没者慰霊塔。
この塔は昭和28年(1953)、市民からの募金などによって建てられた。「明治十年(1877)戦役(西南戦争)」から第二次大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置している。
この地は昭和11年(1936)頃、神奈川県が神奈川県護国神社の創建を企画し昭和17年(1942)頃から社殿の工事が始まった。時を同じくして防空緑地の造成事業として護国神社の区域に連なる丘陵地を総合運動施設として整備することとなった。
しかし不要土木工事の中止指令により総合運動施設は未整備のまま終戦を迎える。護国神社は昭和20年春にほぼ完成していたが同年5月の横浜大空襲により焼失。進駐軍の指令により護国神社については破棄されることとなる。
市は県の総合運動施設予定地の全域を無償譲渡されるよう県に請願。三ツ沢公園と合併し総合運動場として整備することを条件に無償譲渡を受けた。また予定地の一部に古河電線(株)の用地が存在していたが、協議のうえで市に寄付された。
こうして総合運動公園の整備造成工事が進められていった。
参考「横浜の公園史稿」
左の塔は先の大戦での犠牲と破壊、右の塔は将来に向かっての発展を象徴するとされる。
この広場も賑やかな運動公園の三ツ沢にあって利用が絶えないであろうが、この日ばかりは静謐な空気感の漂う別世界となっていた。
慰霊塔前広場に隣接する馬術練習場へ下りていく。
フェンスの手前を左手へと上がっていくと、案内板がある。
馬を驚かさないよう、至近距離での撮影は控える。
フェンスの門は解放厳禁。
馬場。
馬術練習場から第三レストハウスへ。
第三レストハウス前からあじさい園・桜山エリアへ下りる。
園路を下っていくと首都高速K2三ツ沢線。
首都高三ツ沢線の先は第三京浜、そして保土ヶ谷ICから横浜新道(有料自動車道区間)。
馬場の裏を抜けていく。
ここは充分に距離を取ってズームで。
首都高三ツ沢ランプ前の公園出口。
三ツ沢公園は新横浜通りを挟んで二つのエリアに分かれている。新横浜通りは幅が広く交通量も多いので横断歩道は設けられておらず、双方の行き来には歩道橋を利用する。
奥は桜山、陸上競技場・球技場エリアの入口。
新横浜通りの新横浜方面。
歩道橋を降りると「市民病院入口」バス停。
※現在は市民病院移転に伴い「三ツ沢公園自由広場」バス停と名称変更されている。
横断歩道を渡ると公園入口。
第三京浜、横浜新道(有料区間)方面の高速道路入口。
こちらのエリアには「トリムコース」(ランニングコース)が設定されている。
せせらぎの流れる、桜山。
アジサイ園を観に行く。
三ツ沢公園のアジサイ園は傾斜地一面にアジサイが植えられており、道路からフェンス越しに眺める。
色とりどりのアジサイ。
白く長い花房はカシワバアジサイ。
桜山エリアに戻り、陸上競技場へ。
桜山にも紫陽花はちらほら植わっている。
細やかな両性花が花開いたガクアジサイ。
三ツ沢公園陸上競技場。
三ツ沢公園は戦後間もない昭和24年(1949)の開園。
陸上競技場もその歴史は古く昭和26年(1951)の開場以降、第10回国民体育大会(1955)やインターハイ、五大市競技大会(都市間交流スポーツ大会)など様々な大会で利用されてきた。
この競技場は昭和の横浜のスポーツシーンを象徴する施設の一つといえる。
陸上競技場の隣りは球技場。
広場に設置された「平沼さんの像」
「平沼さん」とは日本陸上競技連盟初代会長・平沼亮三(1879〜1959)。
亮三は帷子川(かたびらがわ)河口・平沼新田の開発で知られる市域の旧家・平沼家の出身で、平沼家の菩提寺は戸部(とべ)の願成寺。昭和30年ごろまで「南京町(唐人街)」と呼ばれていた街を「中華街(ChinaTownの訳語)」と命名することに一役買ったのも亮三。まち歩き・中華街の陰陽五行のページへ。
平沼亮三は実業界に身を置いたのちに帝国議会議員を歴任、晩年には横浜市長を務めた。スポーツ振興にも力を尽くし、幻となった東京オリンピック(昭和15・1940)の招致にも携わっている。戦後には国民体育大会の創始を主導した。
亮三は1964年東京オリンピックの招致決定を見届けることなく、決定のわずか三か月前、市長在任中にこの世を去った。この像は、その有徳を偲んで関係者各位により建てられた。というわけなので、掲げているトーチはオリンピックの「聖火」ではなく国体の「炬火」か。
三ツ沢公園球技場(ニッパツ三ツ沢球技場)。ばねメーカーの「NHK・日本発条」が命名権(ネーミングライツ)を取得し「ニッパツ三ツ沢」と称するようになった。
こちらは昭和30年(1955)の開場。国体のほか東京オリンピック(昭和39・1964)のサッカー会場としても利用された。サッカーJリーグ・横浜FCのホーム、横浜F・マリノスの準ホームとして知られるほか、ラグビーリーグワン・横浜キヤノンイーグルスのホームゲーム、関東大学ラグビーなどの試合も開催される。
テニスコート。
ニッパツ三ツ沢球技場の隣りでは軟式野球場跡地などに市民病院の新病院建設が進んでいる。
フェンスには工事期間中、三ツ沢公園の歴史が展示されている。
横浜市の公式サイトによると球技場は初め国体に向けたラグビー場として開場し、オリンピックにあわせて再整備された。
奥に見える慰霊塔広場の南にはバレーボールコート、第三レストハウスのあたりには相撲場があった。
「三ツ沢公園前」交差点側の上空からの眺め。
オリンピック旗のはためく三ツ沢公園。
モニュメント。
三ツ沢公園球技場ではサッカーのグループ予選が数試合と準々決勝の一試合が行われた。スコアボードにはグループ予選の東西統一ドイツとメキシコが表示されている。
市民病院の新病院移転が決まり、古河の社宅だったあたりが更地になった。
建設が進む新病院。
平沼記念体育館。上層部は展望室。
「三ツ沢公園前」交差点。「三ツ沢総合グランド入口」バス停はこのすぐ近く。
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