まちへ、森へ。

帷子川〜鶴見川〜滝ノ川水系流域、分水嶺を越えて

令和元年(2019)6月中旬、相鉄線西谷(そうてつせん にしや)駅からJR貨物・横浜羽沢(よこはま はざわ)駅に隣接する相鉄線の新駅「羽沢横浜国大駅」を経て「滝ノ川あじさいロード」へ、咲き始めた紫陽花を愛でるウォーキングに出向く。
「滝ノ川あじさいロード」から先は「三ツ沢せせらぎ緑道」から「豊顕寺(ぶげんじ)市民の森」、三ツ沢公園を経て浅間下(せんげんした)へ。

 

今回は分水嶺の尾根を超えながら三つの河川流域(帷子川水系菅田川、鶴見川水系鳥山川、滝ノ川水系反町川)を巡って歩く。

 

1.西谷駅から羽沢横浜国大駅、滝ノ川あじさいロード入口へ

 

 

西谷駅ホームから横浜方面を見る。外側の線路の先は羽沢方面へのトンネルとなり、新線へと続く。

 

 

 

こちらはJR直通線開業初日(令和元年11月30日)の西谷駅上り(3番・4番)ホーム。

 

 

 

4番ホーム(直通線)側の駅名標。直通線方面の本数はまだ少ない。こちらが本領を発揮するのは令和四年(2022)下期の「新横浜線」全線開業時。

 

 

 

改札の上の行先表示板。各停のみの停車駅だった西谷駅は、直通線の開業により横浜方面も含めた停車本数が文字通り倍増となった。

 

 

 

普段は利用客がそう多くはない駅だが、開業初日とあって週末の夕方の上り方面にもかかわらずホームは多くの乗客で溢れていた。

 

 

 

再び午前中のウォーキング。国道16号・相鉄線西谷(にしや)駅前の歩道橋裏手、東海道新幹線の高架脇にある野菜直売所「フレスコ」。営業は午後から。

 

 

 

西谷駅前は国道の北側が農専地区となっている。看板の「横浜農場」は横浜市の都市農業をPRするための統一ロゴマーク。

 

 

 

西谷駅前からしばらくの間は東海道新幹線に沿って進む。

 

 

 

 

 

 

 

県道(山崎通り)に出たら、左手に見えるローソンの角を入って先へ進む。

 

 

 

 

 

 

 

緩やかに上っていくと、フェンス越しに新幹線の線路が見えてくる。

 

 

 

保土ケ谷区・神奈川区の区界となる尾根を貫く新幹線の上菅田(かみすげた)トンネル。

 

 

 

トンネル横の突き当りを左折して尾根に上がる。

 

 

 

尾根に上がったら区界の道路に出る手前で折り返すように、並行する狭い尾根道へ。

 

 

 

たまたま更地となっていたところからは新幹線の線路、相鉄線鶴ヶ峰(つるがみね)駅前のタワーと二俣川(ふたまたがわ)駅前のタワーが見えた。

 

 

 

ドラッグストア「クリエイト」の角に出ると、区界の道。右へと進む。

 

 

 

「上星川小学校入口」交差点。交差点付近にあるバス停名は「七里堰(しちりせき)」。字(あざな)らしき小名(こな)がバス停名に残っている。

 

このあたりは地形図、水域図で見ると神奈川区の羽沢地区がくさびのように保土ヶ谷区に食い込んでいる。
くさびのヘリはちょうど分水嶺(分水界)になっており、くさびの内側である神奈川区の側(羽沢貨物駅周辺)は鶴見川水系・鳥山川(とりやまがわ)、保土ケ谷区域となるくさびの西側(川島町、西谷)は帷子川(かたびらがわ)水系・菅田川(すげたがわ)、くさびの東側(常盤台・横浜国大)は滝ノ川水系・反町川(たんまちがわ)の流域となる。
「七里堰」バス停の場所はくさびの西側のヘリとなる尾根筋上であり、七里堰の名はこの尾根筋全体があたかも水系を隔てる長大な堰であるかのように見立てられて付いた古称なのかもしれない。

 

 

 

交差点から右手斜めへ延びる通りは「池の谷戸(やと)通り」。市道環状2号線が開通する前からの旧道となる。かつては八王子街道(国道16号)の「羽沢(はざわ)入口」(現在は「東川島町東」)からこの交差点を経て羽沢、三枚町、八反橋、新横浜駅方面へと抜けていた(なおバス路線は上星川駅から七里堰、三枚町と進み、その先は市民病院入口、三ツ沢総合グランド入口、浅間下、横浜駅西口となる)。

 

環状2号線の国道16号から南側(陣ヶ下高架橋方面)の開通にあわせて、国道16号との交差点は立体交差となった。「羽沢入口」の平面交差は無くなり国道16号からの旧道「池の谷戸通り」は行き止まりとなったため旧道「羽沢入口」の名は消えて「東川島町東」となった。国道16号から環状2号線へは新設された接続ランプの「東川島町西」から環状2号外回りに接続。環状2号「池の谷戸入口」で旧道の生き残りが分岐し、この交差点に至る。

 

斜めに突っ切って奥へと続く狭い道が区界の道の続き。

 

 

 

区界の道を離れて左の脇道に入り、道なりに羽沢貨物駅を目指す。

 

 

 

新幹線の北側には広大な菅田・羽沢農専地区(横浜市域有数のキャベツ畑)が広がるが、南側のこちらにも農地は随分と残っている。

 

 

 

ランドマークタワーが見える。

 

 

 

ここだけ広げられた道を右手に下りていくと、羽沢貨物駅。

 

 

 

貨物線に平行する環状2号線の側道に出る。

 

 

 

側道を進み、人道橋の跨線橋入口へ。

 

 

 

跨線橋への入口。

 

 

 

手前側は環状2号線を跨ぐ歩道橋。

 

 

 

奥は貨物線の跨線橋。歩道橋の右手では羽沢新駅への通路の工事が進んでいる。

 

 

 

新駅の相鉄線「羽沢横浜国大(はざわ よこはまこくだい)駅」。西谷駅から分岐する新線が建設されており、第一期(JR直通線区間)は令和元年(2019)11月中に開業の運びとなった。

 

 

 

新駅から新横浜駅方面。新横浜プリンスホテルのタワーが見える。左手は環状2号線。

 

この新線は「都市鉄道の利便性を増すための整備方式のあり方を定めた法律」に基づいて長年の懸案であった「神奈川東部方面線」の実現を具体化した、相鉄線の東京都心方面直通プロジェクトにより誕生した。
第一期は羽沢新駅からJR貨物線に乗り入れてJR武蔵小杉駅、JR山手線大崎駅から渋谷・新宿方面へと繋がっていく。同時に進められている第二期では新駅から先も相鉄の新線(相鉄新横浜線)建設が続きJR新横浜駅へ。その先は東急の新線(東急新横浜線)が建設され東急線新綱島、日吉駅を経て東急へと乗り入れる。

 

第二期の完成により沿線の核となる新横浜駅の駅勢圏は大きく様変わりすることになる。

 

 

 

羽沢貨物駅のプラットホーム。

 

貨物駅の「横浜羽沢駅」が開業したのは昭和54(1979)年。鳥山川(とりやまがわ。鶴見川支流)源流の谷戸を造成して広大な貨物駅の敷地を確保した。大量の建設残土は土地改良区に運ばれて、現在の菅田・羽沢農専地区(広大なキャベツ畑)を形成している。

 

 

 

貨物線の南側。分水嶺の尾根を釜台(かまだい)トンネルで突き抜けた貨物線は相鉄線・上星川駅のすぐそばを高架で跨ぐ。

 

 

 

開業を待つ「羽沢横浜国大駅」。

 

 

 

貨物線の跨線橋へ。

 

 

 

駅構内にはコンテナが積み上げられている。

 

 

 

貨物を牽引する電気機関車はJR根岸線でもよく見かけるが、ディーゼル機関車は久しぶりに見た。

 

 

 

跨線橋を渡った反対側を新横浜方面へ進み、すぐ右手の旧道に入る。

 

 

 

旧道を登っていく。

 

 

 

尾根に出た。この尾根はくさびの東側のヘリとなり、羽沢貨物駅のある鳥山川・鶴見川流域と滝ノ川流域との分水嶺。神奈川区と保土ケ谷区の区界となる。

 

 

 

滝ノ川流域の側となる、保土ケ谷区峰沢町(みねざわちょう)。横浜国大のある常盤台の北隣りにあたる。

 

峰沢町・常盤台は風致地区に指定され、そのうち峰沢町には山林や農地が良く残っている。尾根からはみなとみらい・ランドマークタワーもよく見える。
峰沢の風致地区としての歴史は古い。風致地区の歴史は、都市内外の優れた自然景観を保存するための制度として大正八年(1919)に都市計画法で制度が定められたことから始まる。
横浜市では戦時下の昭和16年(1941)に初めて実施された。当時の風致地区は北から反時計回りに日吉台、三ツ池大倉山、小机、鶴ヶ峰、峰岡、保土ヶ谷弘明寺、磯子。これらは現在の環状2号線沿線に概ね重なっている。そしてその内側(海側)に總持寺、山手、本牧根岸。
峰沢町・常盤台は当時の峰岡の一部となる。その他の地区は都市化が進んで現在は風致地区では無くなっているところも多い。そして更なる郊外部に風致地区の広がりが見られる。
参考「目で見る都市横浜のあゆみ(横浜都市発展記念館発行)」「横浜市公園緑地配置図」

 

 

 

区界となるこの道路の左側は神奈川区羽沢町。

 

 

 

パラボラアンテナをいくつも取り付けた塔が建つ。これは国土交通省横浜国道事務所の羽沢無線中継所。

 

 

 

里山の景観が色濃く残る、峰沢地区。

 

 

 

第三京浜を跨ぐ峰羽橋。このまままっすぐに行くところだが、橋の下をちょっと覗いてみる。

 

 

 

橋から見下ろす第三京浜。奥は東京方面からの保土ヶ谷料金所。羽沢貨物駅のすぐ東隣りとなる。

 

 

 

カーブの急坂を下りていく。

 

 

 

大池道路に出た。

 

 

 

大池道路を相鉄線和田町(わだまち)、上星川(かみほしかわ)駅方面に少し引き返したところにある「三ツ沢池」バス停。かつてこの地に存在した溜池の名がバス停名に残っている。「大池道路」の名も、滝ノ川の水源近くに築かれた溜池に由来する。ウェブ上でも参照可能な明治後期〜昭和初期の市域全図や地形図では、溜池の姿が確認できる。
参考ウェブサイト
「国際日本文化研究センター(日文研)所蔵地図データベース」
Stanford Geospatial Center(スタンフォード大学地理空間情報センター)>Gallery>Japan 1:50,000」

 

谷戸の絞り水を集める滝ノ川は、その水量が多くはなかった。そこで渇水期に灌漑用水が不足しないようにと本流・支流の源流各所に溜池が造られた。江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」巻之七十橘樹郡之十三小机領神奈川町耕地・滝ノ川の項によると、滝ノ川の水源は近郷の溜井六ケ所とある。その内訳は六角橋(ろっかくばし)村、片倉村、神大寺(かんだいじ)村、帷子町(かたびらちょう)、青木町・字沢渡(あざ さわたり)の各所。三ツ沢池のあった保土ケ谷区峰沢町は江戸時代には東海道保土ヶ谷宿を構成する町の一つである帷子町の町域に属していた。

 

 

 

大池道路を三ツ沢方面に少し進むと、「滝ノ川あじさいロード」の入口がある。奥に見える高架は第三京浜。

 

 

 

歩道に立つ「滝ノ川あじさいロード」の標柱。

 

 

2.滝ノ川あじさいロードへ

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