まちへ、森へ。

開港場に見る土木遺産、記憶の遺産

旧横浜船渠第一号ドック(帆船日本丸係留ドック)

 

平成30年(2018)12月から平成31年(2019)3月にかけて、帆船日本丸の大修繕のために旧横浜船渠(せんきょ)第1号ドックの水が抜かれた。

 

外装の修繕をあらかた終えた3月半ば、工事のために船の周りに組まれていた足場が撤去される。そして、美しく塗装されて甦った日本丸と明治期の石造ドックがその全貌を現した。3月21日の再注水までは数日。その間にドックを訪れる。

 

 

ランドマークタワーの足元に復元されているドックヤードガーデン(旧横浜船渠第2号ドック)の側から、第1号ドックへ。

 

 

 

ドック内の人影は報道関係者だろうか。

 

工事の期間中には市民向けにドック内に下りるイベントが開催された。またとない機会に勇んで応募したものの、競争率六倍を超える抽選にあえなく落選。嗚呼・・・。

 

 

 

ドックの底に下りる石積の階段には仮設の足場が設けられている。

 

 

 

黄金色に化粧直しされた、日本丸のスクリュー。むろん、通常は見ることができない。

 

 

 

ドックゲート(扉船・とせん)。こちらも汚れが綺麗に落とされた。

 

 

 

船体の修理のために水が抜かれ、ドライドック(乾渠)となった。

 

ドックがドライアップ(水抜き)されたのは平成2年(1990)11月、平成11年(1999)1月に次いで三回目。
参考「帆船日本丸記念財団30年のあゆみ」

 

 

 

第一号ドックは明治31年(1898)の竣工、明治32年開渠。民間の商船用ドックとしては現存する日本最古の石造ドックとなる。なお官営では幕末の横須賀造船所(現在は米海軍横須賀基地)に造られたドックが日本最古の石造ドックとして残っている。

 

基本設計は明治中期の横浜にて上水道敷設や港湾拡張(第一次築港整備)などの土木事業に深く関わったヘンリー・スペンサー・パーマー。海軍技師の恒川柳作が実施設計を手掛けた。恒川は幕末期に幕府に招かれて横須賀製鉄所(造船所)の建設に携わったレオンス・ヴェルニーに土木を学んでいる。

 

開渠当時の全長はおよそ168mであったが、船の大型化に伴って大正年間に渠頭部を内陸側に延長、全長およそ204mとなった。幅はおよそ29m、深さはおよそ10m。
ちなみに明治29年(1896)竣工の第2号ドック(現ドックヤードガーデン)はこれより小さく、全長128m。

 

 

 

日本丸の横に見える石造の部分は明治期の築造。手前側は大正期に延長された部分でコンクリート造。

 

 

 

渠頭部(きょとうぶ)はレンガ造になっている。

 

 

 

半円形の渠頭部。

 

 

 

みなとみらい再開発で最初に手掛けられたエリアはヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルから横浜ベイホテル東急(旧パンパシフィックホテル)、クイーンズタワー、ランドマークタワーにかけての一帯。このエリアで最初に建ちあがった超高層ビルは横浜博覧会(平成元・1989)の終了後、平成三年(1991)に竣工したインターコンチネンタル。

 

日本丸はそれに先駆けて昭和60年(1985)3月、このドックに係留された。ドック周辺は「日本丸メモリアルパーク」として整備される。それ以来、かれこれ30年余りが経過した。

 

 

 

昭和58年(1983)当時の一号ドック。保存予定地の看板が立てられている。

 

 

 

昭和62年(1987)、公開が始まって二年目の日本丸。ドックに隣接する「横浜マリタイムミュージアム(現横浜みなと博物館)」は建設中。

 

画像出典「帆船日本丸記念財団30年のあゆみ」 公益財団法人帆船日本丸記念財団発行

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

煉瓦の積み方は、イギリス積(づみ)。長手(ながて。長辺)を並べた段と小口(こぐち。短辺)を並べた段を交互に積む。

 

 

 

レンガ造とコンクリート造の境目。

 

 

 

コンクリート造と石造の境目。

 

 

 

 

 

 

 

船を据え付ける支持台の列。

 

 

 

ビット(係船柱)。

 

 

 

ドックの底へ下りていく渠壁(きょへき)の階段。船底に見えるのは横向きに並んだ盤木(ばんぎ)。

 

 

 

 

 

 

 

日本丸の船体は鋼板をリベットで接合している。今回は腐食した部材の補強も行われた。

 

橋梁などの土木や造船における構造物は明治以降、リベットで構造物を接合する手法が用いられた。やがて溶接の技術が造船に用いられるようになり、その技術は土木にも波及していった。ちなみにわが国で最初の溶接鉄道橋は横浜港・瑞穂ふ頭の瑞穂橋梁(昭和9・1934年竣工)となる。

 

日本丸が全国に11あった公立商船学校で利用するための練習帆船として川崎造船所(神戸)で建造された昭和5年(1930)の頃は、ちょうど過渡期となる。
帆船日本丸の公式サイトによるとリベット構造の現存船は極めて少なく、日本丸に関しては建造時における外板の鋼材が七割残っているという。こうしたこともあって日本丸は我が国の造船史における史料価値が極めて高く、平成29年(2017)に国指定の重要文化財となった。

 

 

 

階段状の渠壁の石積。

 

ドック内の水をポンプで排水(ドライアップ)すると渠壁を内側から外に向けて押す圧力(水圧)はゼロになる。その際、急激に水を抜くとドックの外側からの圧力(地中の地下水の水圧)とのバランスが崩れてしまい壁や底の石積が破損するリスクがあるという。そのため、排水は一週間かけてゆっくりと行われる。

 

参考「1号ドック物語手帳」 横浜マリタイムミュージアム(現みなと博物館)発行

 

 

 

船の修理が終わるとドックゲート(扉船・とせん)の注水弁が開けられてドック内は再び海水で満たされる。

 

一般論として扉船が動かされるのは、海水で満たされたドック内に船舶を出し入れするとき。
扉船内部のバラスト(おもりとなる海水)を排水すると扉船は浮かび上がる。扉船が外されてドック内と港がつながった状態で船舶を出し入れし、扉船を再び移動させてバラストを注入し扉船を沈める。
浮かび上がった扉船やドックに入渠する船舶を押したり引いたりして移動させるのはタグボート(曳船)の役目。ちなみに商船が「タグボートを求む」という合図で揚げる信号旗(Z旗)は、東郷元帥が日本海海戦の際に三笠艦上で全軍を鼓舞するために流用したことにより有名になった。

 

 

 

浮上する扉船。平成3年(1991)2月の撮影。

 

画像出典「1号ドック物語手帳」 横浜マリタイムミュージアム(現横浜みなと博物館)発行

 

 

 

明治の中期から後期に築かれた横浜船渠(のちの三菱重工横浜造船所)の第1号〜第3号のドライドックは新船の建造ではなく修理のためのドックであった。画像の第3号ドック(現在は消滅)の左手には新船建造のための造船台が幾つも築かれていた。山下公園に係留されている氷川丸は昭和5年(1930)に横浜船渠で建造されており、修理のために第1号ドックに入渠したこともある。

 

みなとみらい地区は明治中期から昭和末期まで造船所と高島ふ頭、そして海だった。平成に入って劇的に姿を変えたこの地区は、往時の姿を残す第1号ドックと解体を経て復元された第2号ドックがその歴史を今に伝えている。

 

 

 

昭和62年(1987)頃の画像に見る、1号ドックに係留された日本丸。日本丸の入渠後、海面では「みなとみらい21」用地の埋立が進んだ。1号ドックから港内につながる水路は横浜博覧会(平成元・1989)の終了後に改めて開削された。
2号ドックは横浜博覧会の開催に際していったん埋められ、博覧会終了後の再開発がスタートしてから復元された。
埋め立てられて消滅した3号ドックは、かろうじてその一部が確認できる。

 

画像出典「1号ドック物語手帳」 横浜マリタイムミュージアム(現横浜みなと博物館)発行

 

 

 

大岡川河口・汽車道(きしゃみち)を挟んだ対岸の北仲通(きたなかどおり)地区に林立する超高層タワー。建設中の二つのタワーは左が三井不動産と丸紅による「ザ・タワー横浜北仲」。右は横浜市の新市庁舎。手前に低層の議会棟が見える。

 

造船所建設に先立つ明治の初期、北仲は幕末期から先行するイギリス波止場(象の鼻)、フランス波止場(山下公園の沈床花壇付近)に続いて日本波止場が築造され灯台寮(燈明台役所)が置かれたエリア。蚕糸などの倉庫群だった昭和の時代を経て、こちらも近年急速に姿を変えている。

 

 

 

日本丸の係留に併せて整備された、港内に通じる水路から眺める1号ドック。

 

現状では水路に橋が架かっているため、扉船を動かしたとしても橋を撤去しなければ日本丸を港に出すことはできない。とはいえ、船籍を残して保存したことの意義は、船を動かすためというよりはむしろ可能な限り現役の姿で船を残すところにある。

 

船籍を除籍して廃船にすれば日本丸は建造物扱いとなる。となると船内を一般公開するためには建築物に関する法令(建築基準法、消防法など)の規制を受けることになり、内部の大幅な改装は免れない。しかし、現役の姿を残したまま青少年の海事に関わる錬成・教育の場として日本丸を活用することは横浜が日本丸を誘致した際の主要な目的の一つとなっている。

 

船籍が残っていれば、たしかにドックから港に船を出すことはできる。しかし船を港に出したとしても、老いた帆船の日本丸は平水区域(横浜の場合は横浜港限定)を推進機関を有しない帆船として動かせるに過ぎない。この扱いは主務官庁(当時の運輸省関東海運局)との折衝の結果決まったこととなっている。推進機関を復活させるとしたら相当の費用をかけてディーゼルエンジンを修復しなければならない。
そうしてみると、「動かせる船」というのは誘致の際に「実際に船を動かすこと」に主眼に置いて誘致活動をしたというよりは、船籍を残した結果として船を動かすことも法令上は可能である、と言う程度の効果が生じているに過ぎないと見るべきであろう。推進機関を使えない大きな帆船を狭い港域で動かすことの難しさとして、例えばペリーの黒船は外洋では帆船として航行しつつ風任せでは動きが制約される江戸湾(内海)では蒸気機関(外輪)で航行している。江戸時代までの和船は浅瀬で座礁する事故を避けるため航行に適した風を待つという苦労があった。
日本丸誘致に名乗りを上げた各地域の誘致計画の骨子を眺めてみるに、「動かせる船」というキーワードはそれを前面に押し出してアピールしたというよりは、船籍を残した結果として各方面において「動かせること」が独り歩きしていたような状態だったのではないだろうか。仮に「動かしますよ」などとアピールしたとしても、誘致を目指す各地の案を中央の役人が法的な問題も含めて子細に検討していく段階でそれを鵜呑みにするとは思えない。候補地の絞り込みと最終決定にはもっと別の要因があったと考える方が素直であるとはいえまいか。

 

船舶が行き交う港内の安全に細心の注意を払いながらタグボートで曳航して僅かばかり動かすことのメリットとデメリットを秤にかければ、現状の保存状態は日本丸の活用方法に照らしてみた場合、最善であろう。
帆船日本丸は進水後、戦前まではここ横浜から各地の実習生を乗せて航海に出航していった。戦後は東京からの出航が殆どとなったものの、その前半生において日本丸と横浜との所縁は浅くはない。そして老朽化していく船体を現役さながらの姿を維持しつつ保存していく目安としては、同じくシンボルとして保存されている氷川丸と同様、建造後100年が目標とされている。残された時間は、そう長くはない。
日本屈指の人口集積地でより多くの人々に恒常的に利用してもらえるという土地柄もさることながら、文化財としての価値を維持するために相応の費用も負担していかなければ、老船は維持できない。近代日本における開港都市として、財源は決して豊かではないがその責任を背負っていく覚悟を横浜市は矜持をもって示したということだろう。

 

参考「帆船日本丸記念財団30年のあゆみ」

 

 

 

桜木町駅前の「コレットマーレ」(ヒューリックみなとみらい。旧TOCみなとみらい)。さほど高くは見えないこのビルでも高さ90mを超える。その手前に重なって見えるのは県民共済ビル。

 

 

 

マストの左手に見えるのは富士ソフト本社ビルと桜木町ワシントンホテル・クロスゲート。

 

 

象の鼻波止場から新港ふ頭、ドックヤード〜へ

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