まちへ、森へ。

元町・山手、ノスタルジーの残像

「コクリコ坂から」の時代背景をひも解く

 

2020年(に開催されるはずだった)東京オリンピックを前にした平成31・令和元年(2019)。昭和39年(1964)の東京オリンピックを控えた昭和38年(1963)の横浜を舞台としたジブリ映画「コクリコ坂から」の筋を追いながら、そこに描かれたシーンの時代背景をひも解いてみる。

 

※「コクリコ坂から」の世界を1963年当時の横浜の「光(と影)」とするならば、その時代の「影(と光)」を感じるには、ハードボイルドな推理小説「横浜1963」(伊東潤著)の一読をお勧めしたい。
歴史小説の旗手として名を成されNHKラジオ第一・マイあさ!土曜さんぽ「城歩きのすすめ」で城郭マニアにも名の知られた氏であるが、横浜出身者ならではの緻密なディテールに徹底的にこだわったミステリー「横浜1963」からは当時の横浜のまた違った一面が見えてこよう。

 

 

 

「コクリコ坂から」妄想MAP 拡大版

 

※明治中期〜昭和前期(戦前期)までの横浜市域全図については「国際日本文化研究センター(日文研)・所蔵地図データベース」「横浜都市発展記念館・横浜地図データベース」で閲覧できる。
昭和30年代については横浜市公式サイト「横浜市三千分一地形図」が公開されている。

 

 

夜明け

 

 

映画は軽快なピアノソロによるスウィングジャズで始まる。スウィングジャズは当時の音楽シーンで流行っていた。この映画は物語の全編に渡って、とりわけカルチェラタン(部室棟)の絡むシーンではスウィングジャズが多用されている。またタンゴなどのラテンミュージックやロックンロールといった1950〜60年代テイストの、さらには坂本九の「上を向いて歩こう」といった楽曲が珠玉の如く散りばめられている。

 

 

敷布団の下から出てくる制服スカートの寝押しはスカートのプリーツの折り目をしっかり付けるため。これは昭和50年代(70年代後半〜80年代前半)ごろでもやっていた。今はどうだろうか?

 

 

庭先や遺影周りの赤いコクリコ(ポピー、ひなげし)の花

 

 

 

物語のヒロインである松崎海(メルというあだ名でよばれる高校二年生)の亡き父(澤村雄一郎)への想いと祈りを重ねており、この作品における重要な裏テーマとなる。

 

ちなみに英連邦諸国では第一次大戦の戦没者を追悼する「リメンバランス・デー」が定められており、そのシンボルは赤いポピー。これは従軍医師だったジョン・マクレーが戦場で目にした光景を元に作った詩に添えた一文に出てくる「戦争が終われば人々は祖国のため、愛する家族のためにここで息絶えた兵士のことなど忘れてしまうだろう。平和な時代に、そこで人々が目にするのは原野に群生する赤いポピーだけであろう」に由来する。この投稿文に対しては読者からの「とんでもない。私たちがどうして兵士たちを忘れましょうか。赤いポピーを目にするたび、むしろ私たちは兵士たちを思い出すでしょう」という返信を始め、たいへん大きな反響が巻き起こったという。
参考「赤いポピーは忘れない 横浜・もう一つの外人墓地」遠藤雅子著。
ちなみに、同書にいうもう一つの外人墓地とは英連邦戦死者墓地(保土ケ谷区狩場町)
「赤いポピーは忘れない〜」についてはこちらのページ(新港埠頭・ハンマーヘッドパーク「トール号殉難の地」)へ。

 

信号旗

 

 

船舶が掲げる旗であり、それぞれの旗にアルファベットをあててある。ポールにはためく二枚の信号旗はUW旗。この二枚の組み合わせでアルファベットとは別に「安全な航海を祈る」の意味が与えられる。もう一人の主役である風間俊(高校三年生)が通学時に便乗する親父さんのタグボートに揚げた回答旗はUW旗に対する返礼。このシーンには画面内に文字による注釈が欲しかった。

 

 

コクリコ荘の朝ごはん

 

 

ハムはおそらくこの時代に一般的なプレスハム。ロースハムは贈答用のぜいたく品の時代であり下宿人たちが支払う下宿代の範囲での賄いであろう。
米国留学中の母の席には陰膳(かげぜん)。不在者の膳を用意することで滞在先での無事を祈る習慣であり現在でも法事などの改まった席では見受けられることがある。松崎家の家長である祖母は身なりをきちんと整えて朝の挨拶に顔を出すが、朝食は若い人とは別メニューにしている模様。末っ子ではあるが長男の陸は次女の空よりも上座に座っている。
「ヒロコおじさん」の正体は「広小路さん」。素顔が素敵なヒロさん、その振る舞いや素でかますギャグのセンスがオヤジっぽい。他のシーンではおばあちゃんを除いて「ヒロさん」「ヒロちゃん」と呼ばれているので、これは狙ったな。

 

 

漁師町の船着き場

 

 

俊が通学時に上陸する漁港の白灯台は横浜港の旧内防波堤東水堤(山下町側の内防波堤。明治29年築)の白灯台をモデルとしている。防波堤は港の巨大化により埠頭に呑み込まれるかたちでその大半が姿を消しており、白灯台は現在は山下公園の氷川丸桟橋に移設されている。赤灯台・白灯台はこちらのページへ
なぜ俊が学校のある坂と逆方向に自転車を走らせたかは謎。エンディング近くのシーンでは俊とメルは陸に向かって左側から走ってきている。実写の映画やドラマでもシーン毎の方角の感覚が実際とは狂っていることは、ままある。

 

 

港南学園
モデルは県立の伝統校と思われるが、作品内の設定は私立。俊の風間家の経済事情では私立の学費負担は厳しそうだが、これは直談判の相手として学園理事長を登場させるための設定か。

 

 

学生食堂

 

 

ちなみに神奈川県内では県立でも定時制を併設している学校(旧制中学の流れを汲む伝統校に多い)にはある。

 

 

カルチェラタン(清涼荘。文化部の部室棟)

 

 

カルチェの住人達が模造紙の懸垂幕を下げるカルチェラタンの窓はクラシックな上げ下げ窓。窓枠や玄関ポーチ、ベランダなどに古典主義的な装飾を散りばめたヴィクトリアン様式をベースとした明治末期の洋館らしさを感じさせる。
俊が学校側への抗議の意思表示で飛び込んだ防火水槽は妖しい緑色で底が見えそうにない。うん、青春だなあ。

 

 

港南学園本校舎

 

 

カルチェラタンのインパクトの強さに隠れて目立たないが、本校舎の造りもなかなか味わい深い。正面玄関ポーチのロマネスク風アーチ、塔屋の軒や窓周りの段々に溝を切ったデザイン、丸窓に庇といったあたりには昭和初期に流行したアールデコ建築の特徴が顕著にみられる。

 

 

松崎家の和風建築

 

 

下宿屋のコクリコ荘を営む松崎家の住まいは洋館付き和風住宅。明治初期の頃より横浜の山手から西之谷、根岸あたりにかけて外国人貿易商などの洋館が建ち並ぶ一方で、明治後期から大正期には山手よりも南から根岸あたりまでに日本人貿易商などの邸宅として多くの洋館付き和風住宅が建てられた。洋館部分は応接などに利用する。根岸の旧柳下邸は一体となって現存する稀少な建物(こちらのページへ)。山手に建つ山手資料館(コクリコ荘の色合いはこちらの方が似ている。こちらのページへ)は本牧の洋館付き和風住宅の洋館部分が諏訪町、山手と二度にわたって移築された。コクリコ荘の場合は洋館部分が病院だったので和風住宅よりも大きな造りとなっている。

 

 

メルの祖母

 

 

下宿の切り盛りをするメルに対する「つらくない?」は、やめてもいいのよという気持ちの表れか。現に下宿屋をやらなくてもお手伝いの友子さんには来てもらうつもりだったと言っている。北斗の送別パーティでは下宿人に過ぎない研修医の北斗さんに「遠くまで行かなくてもお婿さんをとってここで開業すればいいのよ」と勧めている。下宿屋の収支はトントン。メルの母が不在の状況では下宿経営は友子さんがいないと成り立たないが、友子さんの給金は下宿代の収入からではなくおばあちゃんが出してあげている。メルの母の実家である松崎家は代々病院を経営していた家なので少しばかりのゆとりはあるということだろう。祖母のセリフには、メルにはもっと年頃の女の子らしく(空みたいに)気楽に生きて欲しいとの思いが感じられる。これに対するメルの反応は「皆がいてくれた方がさみしくなくていいわ」。

 

 

祖母としては自分たちが結婚に猛反対した船乗りの父を未だに深く想っているメルを気にかけている。生真面目な優等生のメルは水沼の「物理はゲタ?」に「鈴木先生です」ときっぱり言い返す性格。生真面目な子は思いつめたら反動が怖い。「素敵な人が出来て、あなたが旗を揚げなくて済むようになったらいいのにねえ」という祖母の言葉にメルは一瞬、眉を引きつらせる。そこには「おばあちゃんにはとても感謝しているけど、この一線だけはどうしても譲れない」というメルの強い意志が感じられる。
メルの母は大学の先生でアメリカに留学中。日本にいた頃も忙しいはずで、幼子を連れて実家に戻ってきたものの医師の父が亡くなってしまったという当時はともかくとして、現在ではおそらく下宿の経営に深くかかわってはいない。下宿の経営は経済的な理由というよりは、父を亡くしてから松崎家に引き取られたメルにとってさみしい気持ちを紛らわせ、自らを納得させるための何かがある。

 

 

コクリコ荘の晩ごはん

 

 

 

お手伝いの友子さんが安く手に入れたアジは神奈川県では東日本の他県に比べて消費は多く馴染み深い。ちなみに東海道線大船駅の名物駅弁は大船軒「鯵の押寿し」。 
メルの調理中に妹の空は下宿人の女性たちとともにおしゃべりしながら食堂で待機。みな配膳をすぐに手伝えるようにそれぞれの個室にこもってはいない。ただ思春期が始まったばかりの陸の姿はさすがに見られない。コクリコ荘の食堂はいわば当時の一般家庭における居間の代わり。ふた月前はまだ中学生だった空も配膳や片付けくらいは手伝っている。
下宿の切り盛りをする長女の海と空は実年齢以上に精神年齢に開きがありそう。下宿人たちも海のことは海ちゃんではなくメルと呼んで一目置いているが、空のことは弟の陸と同じく子ども扱い。ちなみにメルはフランス語のメール(mer 海)に由来するとされるが発音が同じメール(mere 母)もかけているかも知れない。
帰宅が遅くなって急遽メニュー変更したカレーは、既にインスタントのカレールウが出回りはじめていた。このときはヒロさんが怪しい手つきで野菜を切るのを手伝ってくれる。ブリキの米びつも昭和後期(50年代)の頃まで結構使われていたと記憶しており、ちょっと懐かしい。
下宿の賄いに子持ちガレイの煮魚くらいはまだしも煮物とかを出すのはさすがにメルには負担が大きいか。お手伝いの友子さんがときどき作り置きしてくれていたのかもしれない。

 

 

空が買った写真
空が買った俊の写真の30円という値段は学食のライスカレー30円、東京へ向かう朝の桜木町駅のシーンに見られる券売機の30円区間と同額。
カルチェ近くの掲示板に貼られた、メルが俊の手を取る写真などとの三枚組は80円。こちらはA定食と同額。原価がどのくらいかは分からないが写真部、結構商売している。ちなみに信子の好きなカレーうどんは25円。悠子の好きなあんぱんの値段は不明。カルチェ大掃除のときの先輩たちからの大量の差し入れには、きっと狂喜したことだろう。静止画像に大量のあんぱんを目の前にして興奮する悠子の姿が無いのが惜しい。

 

 

再びカルチェラタン

 

 

 

五月上旬らしくコジュケイのさえずり(チョットコイ、チョットコイ)が響く。映像のみならず効果音にもこだわって季節感を演出しているのが心地いい。

 

 

天文部の連中の反応

 

 

おそらくメルは全校でも結構有名なヒロインという設定であり、純情な男どもは言葉を交わすだけで顔を赤らめドキドキものだった。

 

 

清涼荘の時代

 

 

カルチェの玄関右脇の壁には未だに各階ごとの部屋割りの名札が掛けられており、明治末期に建てられた当初から終戦直後の頃までは旧制中学の寮だったことがうかがえる。

 

 

哲学研究会

 

 

哲研部長の化研部員たちに対する「曲学阿世の徒(きょくがくあせいのやから)どもめ」のセリフは高校生にしてはすごい。これは吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約の締結を巡り共産圏の国も含めた講和を主張した東大総長に対して言い放った言葉。まだ鮮度を保ったまま世間の記憶に残っていたとすれば高校生も使いそう。しかしこれを言い放つ当時の政治家もすごい。マスコミは面白おかしく「バカヤロー」ばかり取り上げたが、吉田は白洲次郎を登用したところにも見られるように彼自身もプリンシプル(原理原則)にこだわる政治家だった。

 

 

現代詩研究会

 

 

「下ノ畑ニ居リマス」に「上で寝てます」と書き足し。作中における宮沢賢治の引用の数々はウェブ上で語り尽くされている。ラスト近くで生徒たちが来訪した徳丸理事長の前で合唱する学園の校歌らしき「紺色のうねりが」は賢治の詩を元にしている。

 

 

アマチュア無線同好会

 

 

部員はジャパニーズイングリッシュ丸出し。しかし翻訳版では流暢な英語になってしまっていた。

 

 

港南山岳倶楽部

 

 

谷川岳のペナント。谷川岳の大岩壁である一ノ倉沢は戦後の登山ブームにおけるクライマーの聖地であり、滑落死亡事故も多く「魔の山」と呼ばれた。もっとも、高校生の彼らの山行はクライミングではなく主脈の縦走だったかもしれないが。

 

 

週刊カルチェラタン編集部

 

 

 

考古学研究会の部室に間借りする文芸部の、そのまたヤドカリ状態の週刊カルチェラタン編集部。
机の上には哲学とか生活の法律とか仏和辞典とか大学の一般教養課程なみの資料。「カルチェラタン」「メル」「コクリコ」に限らず昭和中期〜後期ごろはアベック、ランデブー、パンタロン、シュミーズ などなどフランス語由来の言葉も世間一般でよく使われていた。
生真面目なメルもクールな水沼殿の気の利いたジョークは嫌いではない。水沼の勢いに押されてその場の流れでガリ切り(ガリ版刷りの原紙に原稿を書き写す作業)を手伝ってしまう。
「長髪自由化」「高校生の60年安保闘争デモへの参加の是非」といった見出しが躍るOBの「港南新聞カルチェラタン」からは旧制中学からの伝統校らしさが感じられる。しかもかなり自由な気風。デモへの参加は県立ならまだしも校則の厳しい私立の場合は困難だったろう。

 

 

テレビ放送

 

 

お茶の間で正座してテレビを見ている。当時はティーンの見る番組は非常に限られており、ひとつの番組の娯楽としてのウェイトは大きい。松崎家では食堂にテレビは置いておらずテレビを見るのは祖母の居間。
空は当時における「今どきの子」。長女のメルはこの手の番組には興味がなさそうであり、決まった時間だけを楽しみにテレビを見ている妹たちが嫌がるのを無理強いする気はない。下宿の雑事はあくまでメルの一存で行われていることであり、メルがどうしてもと頼まない限り、祖母としても毎週の楽しみとして決まった時間にテレビを見に来た(おばあちゃんは人数分の湯呑みをわざわざ茶托に載せて用意している)妹たちに敢えてお手伝いしなさいとは言わない。
ちなみに舟木一夫が「高校三年生」でデビューするのはこのひと月先となる1963年6月。

 

 

コクリコ荘の内装1

 

 

ヒロさんの寝ている寝台はドラえもんの寝床である押入れとはちょっと違う。これは震災復興建築として京浜地区に建てられた同潤会アパートの独身住戸の造り。北八王子にあるUR都市機構の集合住宅歴史展示棟を参照。
「よく通る船だよ。メルが揚げると返事してるみたい」とヒロさんが言うように、ヒロさんが絵の大作に取り掛かる前からタグに旗を揚げていた俊は、抗議の飛び込みよりもずっと前からメルに片思いだった。週刊カルチェに載せた俊の詩は当然編集部の後輩たちに「何すか、これ?」と突っ込まれていたであろうから、親友の水沼のみならず後輩の山崎にも俊のメルへの片思いはバレていたはず。山崎でなくてもカルチェの編集部を訪ねてきたメルたちが何の用件で誰に会いに来たかを告げる前から「部長、珍しいお客さんですよ!」と冷やかしたくもなろう。水沼は咄嗟に、自称的中率83%の物理の山ハリを餌にしてメルにガリを切らせ、お邪魔な空をエスコートと称して外に連れ出す。せっかくの御膳立てなのだから俊はこの千載一遇のチャンスにぶっきらぼうに「ん」とか言っている場合ではない。カルチェの住人達も水沼と並んでカルチェの主とでもいうべき俊が思いを寄せる相手は誰か興味津々だった。数学部の吉野は「それは松崎のことであったか。海にボトルを流すようなやり方だな」とつぶやく。

 

 

全学討論会
俊の「少数者の意見に耳を貸さないものに民主主義を語る資格はない」。いかにも高校生らしい青い主張だが、そもそも民主主義などというものは国民に対する権力行使を正当化するためのエクスキューズ(言い訳)にすぎず、それ自体は崇高な理念でも何でもない。たとえ君主制であっても名君による素晴らしき執政がなされるのであれば、領民たちは不幸ではない。どのような政治体制であってもそこに権力の行使を伴う以上、その在り方次第では政治が低迷するリスクを孕んでいる。古代ギリシャの哲学者の時代から民主主義は衆愚政治というアンチテーゼに堕しがちな悩ましき政治システムであることが自覚されてきた。「コクリコ坂から」予告編の言葉を借りるならば「人間は絶望と信頼という矛盾の中に生きている」のである。
とはいえ、民主主義の醍醐味は少数派の意見が波打つように人々の共感を呼び起こすことで、オセロをひっくり返すように多数派となっていくところ。これは国政にも当てはまる。「少数派の意見を聞け、採決の強行は民主主義への冒涜だ」などとと叫ぶだけでは多数からの賛同は得られない。もっとも代議士さん方の場合は、その経歴を見るに確信犯的にではなく民主主義の本質を分かっていながらとぼけてそのように叫んでいるのであろうが。
話が逸れてしまったが、俊の「古いものをないがしろにする者に未来はない」という叫びはメルの心を激しく揺さぶった。新しいクラブハウスが欲しい運動部員たちから「ゴミため」と揶揄されたカルチェを、「古いけど素敵な魔窟だから」と言って女子を巻き込んだ掃除という手段により存続賛成の流れへともっていったメルこそ民主主義の具現者と言える。水沼はそれを感じ取っていたからこそメルのことを「幸運の女神」と呼んだ。言うなれば天秤ばかりを掲げたテミス(ジャスティス)といったところか。
ゴミための方が好きな文化部の男どもだったが、自分たちの価値観に拘泥せず妥協した(本当は掃除にやって来る女子たちにウキウキしていただけ。奴らは皆ウブ)。その結果としてカルチェの存続に向けた共感を得ることに成功した。女子は女子で学校当局への抗議の飛び込みの一件以来人気絶頂の俊や冴えわたる水沼殿のヤマ張りという餌に釣られた。

 

 

白い花の咲く頃

 

 

メル達が幼児だった時代の歌だが、生徒たちが一昔前にはやった歌を学校行事で合唱するのは昔も今もある。これがまた、先生たちに受けがいい。
当時は歌声喫茶を始めとして皆が集まれば合唱、というのが流行り。紛糾する討論会をとりあえず丸く収め「うまくやってますよ」と教師にアピールするにはこれくらい古い歌がいい。最後にしれっと独唱する水沼に教師たちもニヤリ。

 

 

食堂の北斗さんと空、牧さん

 

 

テーブルには雑誌「ジュニアそれいゆ(ソレイユはフランス語で太陽の意味)」。主宰者はイラストレーターの中原淳一。昭和29年に創刊し当時のティーンに人気があった。なお「ジュニアそれいゆ」は昭和35年に廃刊しており、世代としては戦前生まれの北斗さんのほうがどんぴしゃりかも知れない。
牧さんが「私のとっておきよ」と持ってきたウイスキーはスコッチウイスキーの「ジョニーウォーカー黒ラベル(ジョニ黒)」。当時は国産ウイスキーと比べてケタ違いに高額で贈答用の高級品だった。統計によるとその頃のサラリーマン月給が約25,000円なのに対しジョニ黒は10,000円を越えていたようだ。これは徴税目的で(その品質とは全く無関係に)酒類を特級〜二級と分け、特級にべらぼうな税金を課していたため。まして輸入品のジョニ黒にはここに関税が乗っかって来る。だからこそ等級制が廃止されるまでは海外旅行の際に免税店で買ってくる洋酒が土産として人気だった。ちなみに冒頭でちょこっと触れた「横浜1963」では洋酒の密輸を企てた外国船船員たちに対するソニー沢田(物語の主人公である日米ハーフの警察官)らによるおとり捜査のシーンが描かれている。当時の洋酒は幾らかの色を付けて売りさばくだけでもボロ儲けができた。
ともあれ、ジョニ黒は当時の若いOLが給料で買うようなウィスキーではない。牧さんもまた実家が裕福な御嬢さんか、あるいは「飲みかけだが飲めるなら君にやろう」と言ってくれるような役員のいる企業の重役秘書でもやっていたのかもしれない。そりゃ北斗さんも「飲もぅ、飲もぅ」と興奮するわけだ。しかし、すかさず気を利かせてウイスキーのつまみに「チーズ切るわね(切れていないチーズもちょっと懐かしい)」とは、メルはもはや女子高校生とは思えんな。あるいは日頃から冷蔵庫の瓶ビールで一杯飲っていそうな北斗さんや牧さんに教わったか。
(追記 「コクリコ坂からビジュアルガイド」を手に入れたのでパラパラとめくっていたところ、牧村さんは外国領事館勤め、とあった。なるほど、日本大通の英国総領事館(建物は現在では開港資料館となっている)か。ならばそっちの伝でジョニ黒を手に入れたという訳だ。ついでに言えば、北斗さんは浦舟町の市大病院か山下町の警友病院(病院の別館となった建物は旧露亜銀行)あたりで研修していたのだろう。)

 

空から母校のカルチェが存続の危機にあると聞かされた北斗さんは一計を案じる。
水沼の姉は北斗さんと同級生。自身の送別パーティーに姉と一緒に生徒会長の水沼を呼び、役に立ちそうな同級生の男どもに引き合わせる。水沼はずっと前からメルに思いを寄せている親友の俊もつれてくる。この頃には防火水槽に飛び込んだ俊に対して「バカみたい」と呟きカルチェ編集部を訪ねたときには素っ気ない表情だったメルも、キュンと来たコロッケの一件(「あれっ、そっちに行っちゃうの?」という表情の後で、わざわざ回り道をしてきた照れ屋の俊の自分に対する好意を薄々感じ取っている)や心を揺さぶられた全学討論会の一件を経て、気にし始めている。俊はHOKUTの信号旗を読めてラッキーだったな。

 

 

北斗さんの送別パーティー

 

 

 

小道具としてコカコーラのくびれたボトルのほかに柳原良平氏の「アンクルトリス」の爪楊枝入れが見られる。
注目すべきは水沼や先輩が着ているスタジャン(スタジアムジャンパー)。正式な英語ではバーシティジャケット。バーシティはイギリスではユニバーシティ、カレッジの古風な呼び方。オックスフォードとケンブリッジのラグビーチームの試合はバーシティマッチと呼ばれる。一方アメリカでは東部アイビーリーグにおける大学のチームそのものを表す。彼らの着用するジャケットがバーシティジャケットと呼ばれる。
日本ではVANを設立した石津謙介氏がアイビーファッションとして紹介。1964年に銀座の「みゆき族」による着崩したスタイルでトラッドブームが始まったとされる。「コクリコ坂から」の1963年はそれより前。ただ舟木一夫の歌番組と同様に時代の前後したミックスかといえば、そうとも言い切れない。
当時の横浜ならPX(基地内のスーパーマーケット)で働く日本人従業員を介してか、横浜の老舗高級洋品店である信濃屋あたりで輸入品を入手できる可能性がある。1ドル360円と円が弱かった時代に輸入もののスタジャンは高価。これを高校生でありながらさらりと着こなす水沼は、まさにいいところのボンボンだった。もう一人スタジャンを着ている先輩は景気のいい建設会社の御曹司。カルチェの修繕に期せずして資材提供で力を貸すことになる(親父には怒られちゃっただろう)。
なおアメリカ兵がテカテカ素材のスタジャンを持ち込んで横須賀界隈で和風の刺繍を入れてもらうことで誕生したのが「スカジャン」(ヨコスカジャンパー)。英語ではスーベニア(土産物)ジャケットと呼ばれる。
あとはリーダー格の先輩のスーツをブルックスブラザーズばりの「段返り三つボタン(中一つ掛け)スーツ」にでもしておけば、港南学園正統派トラッド軍団の完成だ。でもこの先輩は役人のようだから業者による若手官僚の青田買いを狙った付け届けでもない限り、そんなスーツは高くて手がでないだろう。パーティーの日も桜木町駅前の青いフォルクスワーゲンビートルのタクシーを使わずにコクリコ坂を歩いて登っていたし。とすると、脇を走り抜ける青いタクシーを使っていたのは御曹司だな。

 

 

コクリコ荘の内装2

 

 

メルのひいおじいちゃんは猫が好き♪

 

 

港南学園同窓生の皆で北斗さんに贈る合唱

 

 

当時は歌声喫茶が流行していた。人が集まれば歌、であり東京新橋のシーンにも歌声酒場の看板が見られる。「全員揃ったか?おい水沼、風間とメルはどこいった?」「あいつら、上で楽しそうに話し込んでますよ」「ヒュ〜」

 

 

メルの回想シーン

 

 

六郷(多摩川の対岸。東京都大田区)の稲村さん宅に間借りしていた頃の物干し台はこの後のメルの夢のシーンの伏線となる。

 

 

俊の住む長屋

 

 

隣りは材木店。大岡川を始めとした市街地の運河の川沿いによく見られる。俊の養父の晩酌は水色がかった透明な一升瓶の酒。この時代の日本酒は三増酒(さんぞうしゅ。三倍増醸酒)と呼ばれた安酒が多かった。
俊の部屋のカレンダーは東海道五十三次(保永堂版)の神奈川宿。風間家は裕福ではないので、お気に入りのものとかではなく年末にどこかの会社が配ったらしきものを使っている。

 

 

カルチェの大掃除

 

 

崩れ落ちた哲研の部室に酒ビン?どう見てもジュースではない。バンカラな気風の残る、おおらかな時代だった。

 

 

港にたなびくピンクや紫の煙

 

 

実際、京浜工業地帯(神奈川区〜鶴見区〜川崎区の運河沿い)の煙は凄かった。子どもの頃に首都高横羽線から見た煙の色もまだまだこんな感じで、冬晴れの青空に立ち上るカラフルな煙を子ども心に「わぁ、キレイw」と思ったものだ。その光景は「港の見えない丘」に住む、横浜を名乗る何者かの自分にとっては衝撃的だった。もっとも自分にとって身近だった帷子川(かたびらがわ)でも(そしてたぶん大岡川も)スカーフ捺染工場からの廃液で赤や紫色の流れが突如出現したりしたもので、こんな光景はちょっとした工場地帯であればどこでも似たり寄ったりだったのだろう。

 

 

タグボートでの俊と養父との会話

 

 

朝鮮戦争(1950)は西側陣営と共産圏陣営との代理戦争の様相があった。俊の戸籍上の父である澤村雄一郎(メルの父)はLST(戦車揚陸艦)に乗艦して機雷により事故死(戦死と言ってもよいか)したことになっている。
朝鮮戦争は日本人にとっては戦争特需が好景気をもたらしたという側面がある反面、アメリカ側の要請により派遣された特別掃海隊(海に仕掛けられた機雷を除去する部隊)の艦艇が機雷に接触して死者を出した事例もあった。
俊の養父にとって雄一郎は気の置けない船乗り仲間であったし、その雄一郎が連れてきた子がやはり船乗りである親友の子であるということもおそらく聞かされていたであろう。それでも「近頃あいつによく似てきたな」と言ったのは成長する俊の姿に血のつながりを超えた船乗り気質の片鱗を感じていたのかも知れない。そして「お前は俺たちの息子だ」という言葉に、細かいことはどうでもいい、お前は俺たちにとってかけがえのない存在なんだ、という心からの思いが詰まっている。

 

 

俊が自転車で登っていく学校前の坂

 

 

「コクリコ坂から」を何度か見返して「惜しいな」と感じたのは、コクリコ坂に沿って延々と続く石垣に山手を象徴する土木遺産である「ブラフ積み」が描かれていなかったこと。ブラフ積みとは長く切った石の長手(ながて)と小口(こぐち)の面を交互に見せるように積んでいく西洋式の石積みで、レンガの「フランス積み」に相当する。山手が幕末期のフランス・イギリス軍駐屯地から外国人居留地に変貌していった明治の初期頃から、彼方此方に築かれていった。
それでも「どこかに描かれているかもしれない」と改めて探してみたら、とうとう見つけました。石積みのごく一部ではあるがブラフ積みになっている個所を。これは横浜に精通するスタッフのどなたかが「山手が舞台なのにブラフ積みが全く無いのはちょっとまずいよね」と後から手を加えてくださったのだろうか。

 

 

メルの様子を気遣う牧さんとヒロさん

 

 

新聞に「全長五一五キロに」の見出しと東海道沿岸の地図が見える。物語の展開する翌年の10月、東京オリンピック(1964)開会式の直前になって遂に世界最速の高速列車である東海道新幹線が開業した。

 

 

メルの夢

 

 

写真の母の着物は紋付の黒留(黒紋付)すなわち喪服。そして、泣きじゃくる幼いメル。
メルがいつものような身支度をせずにぼんやりと階段を下りていく。食堂の外はいつもの庭ではなく六郷にいた頃に間借りした家の物干し台。そして「海、旗を揚げるよ」という父。食堂の花瓶にはいつも亡き父に供えているコクリコの花が活けられていない。
このシーンは「コクリコ坂から」をあまり評価しないコアなジブリファン向けにもう少しファンタジー色を出してもよかったかもしれない。

 

カルチェの修繕完了

 

 

ラグビー部を大きく描くあたりはいかにも伝統校らしい雰囲気がでている。ラグビーは「紳士がやる野蛮なスポーツ」などといわれた。
運動部員たちから「ごみ溜め」とバカにされていたカルチェは、ラグビー部員いわく「これを見たら壊そうとは言えんだろう」という姿に一変した。

 

 

理事長への直談判

 

 

終着駅時代の桜木町駅が描かれている。この駅舎は関東大震災(大正12・1923)で倒壊した初代駅舎(初代横浜駅時代からの建物)に代わって建てられた二代目。昭和38年(1963)であれば翌年開通の根岸線延伸工事はかなり進んでいるはずなので既に高架が出来上がっていたであろうが、そこは時代を少しばかり前後させている。なお地上ホームの終着駅だった時代の雰囲気は、現在でもJR横須賀線の横須賀駅で味わうことができる。

 

 

桜木町駅の改札口付近にはアールデコ建築でよく用いられた幾何学的なデザインの照明や窓枠が見られる。照明のデザインはインペリアルビル(山下町)のエントランスのそれと似ている。
ところでコクリコ荘の台所に掛けてあった「港銀行」の青いタオルを「横浜銀行をもじったんだね」なんて思って見ていたら、改札口の広告にちゃんと「横浜銀行」がありました。

 

 

チョコレート色の国電(京浜東北線大宮行)が東京へと向かう先、地平の彼方には333mの東京タワー(昭和33・1958年竣工)だけがポツンと見える。霞が関ビル(147m)が竣工し日本における超高層ビルが黎明期を迎えるのは昭和43年(1968)を待たねばならない。ちなみに横浜初の超高層ビルは横浜駅西口の天理ビル(102m。昭和47・1972年竣工)。

 

 

東京新橋・徳丸書店の社長である港南学園理事長は宮崎駿氏を支援した徳間書店の徳間康快(とくま やすよし)氏をモデルとしている。これもウェブ上で語り尽くされている。
理事長はおそらく学校側からごみため状態と聞かされていたであろう清涼荘を「好きだから皆でお掃除した」というメルに大和撫子の古風さを見た。そして父が朝鮮戦争に従軍し機雷により殉職したという不幸な過去にもめげずに力強くリーダーシップを発揮している(だからこそ下級生にもかかわらず生徒会長らと一緒にここにいる)というところに新しい時代の女性のあり方を見出した。
「LST?」と聞き返したそのとき、理事長の脳裏に浮かんだのは十数年前に世間を揺るがしたニュースであろう。理事長自身も大人として先の大戦を潜り抜けてきた世代であり、戦死した知人たちの遺児の悲哀もいやというほど見てきたに違いない。そうした自身の体験に、目の前にいるメルを重ね合わせざるを得なかった。そして、目の前のこの女の子はいいお嬢さんに成長している。この子らの一途な思いの成果を見てみようかと理事長に思わせるあたり、如才ない水沼が(むろんそこまで考えてはいなかったであろうが)理事長との直談判にメルを連れてきたのは大正解だった。どこまでもクールな水沼だが、さすがにこの時ばかりは顔を紅潮させてしまった。その帰り、新橋駅での「オレ、神田の叔父の所に寄っていくわ」はあまりにも分かりやすい気の利かせっぷり。

 

 

西の橋電停での別れのシーン

 

 

市電には元町に実在する宝田洋食器店の広告。
桜木町駅のすぐ近く(本町)に住む俊がメルを桜木町駅前の電停ではなくわざわざ西の橋(元町)電停まで送ったのは、俊ではなくメルがその決意を内に秘めつつ「風間さん、ちょっと歩かない?」と誘ったからではないだろうか。
桜木町駅から本町通り、山下公園、元町と歩けばその距離はかなりある。それでもメルはなかなかその決意を言葉にできないまま他愛のない話と沈黙をくり返し、とうとう西の橋まで来てしまった。

 

 

 

「クイーンの塔」(税関)や「キングの塔」(県庁本庁舎)が誇張して描かれている。でもイメージ映像として、そんなに違和感はない。

 

 

懐かしい、マリンタワーの初代塗装である赤白塗装。

 

 

ホテルニューグランド前。貨物線の高架(現在では撤去済み)とか、いらないものは当然に省略。

 

 

1963年当時の氷川丸だが、1970年代前期の写真を見ると実は後部デッキ(かつてビアガーデンだったあたり)の大規模改修はまだなされていない。また船体は緑だが煙突だけは黒だった。細かい話で恐縮ではあるが、これは船体・煙突が緑から青に塗り替えられる直前(昭和59・1984年以前)ころの資料画像を参考にしたのだろう。
横浜公園・日本大通りから山下公園、象の鼻波止場へ

 

そうだとしても、当時の横浜を代表する景観を万遍なく盛り込んだ作画の丁寧さは流石。

 

 

メルの母、前触れもなく帰宅か?

 

 

太平洋航路の女王であった氷川丸も引退し、時代は海路から空路へ移っていた。とはいえ当時の海外渡航は自由化される前で渡航は商用や留学、移民などに限られ、先のジョニ黒の話と前後するが観光目的での海外旅行はまだ認められていなかった。
メルの母はアメリカを出発する前に連絡を入れただろうが、KDDが独占していた当時の国際電話の料金は高額だったはずで用件は手短に済ませただろう。当時の航空機は航続距離が短かったためフライトはアラスカのアンカレッジを経由する。遅延も多く、いつ羽田に着くのか読めない。羽田に着いてから改めて連絡するにしても、メルが朝に家を出る時点では母の到着時間は分からなかった可能性が高い。
なお航空機の性能が向上した昭和50年代でも東西対立による航空路の制約もあって欧州路線のアンカレッジ経由は続き、朝のラジオでは鉄道情報に加えて箱崎の東京シティエアターミナルからの航空便到着情報を流していた。
母の靴は元町のミハマのパンプス。盾とライオンのエンブレムの刺繍が中敷に見える。ミハマの靴はハマトラ(ヨコハマトラッド)などという言葉が生まれるずっと前から横浜の女性たちの定番ブランドだった。なおミハマの靴、フクゾーの服、キタムラのバッグのコーディネートがハマトラと呼ばれたのは時代が下った70年代。東京の雑誌メディアがそう呼んだ。
ちなみに横浜スタジアムをいつのまにかハマスタと呼び始めたのも東京のメディアではないだろうか。現在ではすっかり定着したハマスタの呼び名だが98年日本シリーズ優勝の祝勝会ビールかけでは主力選手の佐伯が「ヨコハマサイコー、スタジアム(ハマスタではない)サイコー!」と叫んでいた。

 

 

もしも風間さんがお父さんの本当の子どもだったら、というメルの爆弾発言

 

 

一瞬戸惑いつつも「会いたいわ」という母の返しは、そうだとしたらメルにとっては血を分けた実兄となるし自分にとっても心底愛した雄一郎の面影を感じさせるかも知れない、雄一郎の忘れ形見となるから。
母にとっては雄一郎に限ってそんなことはあり得ないし、おそらく考えたこともなかった。「似てる?この写真と」の一言も軽い冗談のつもりでしかなかった。しかし一抹の不安を抱いていたメルの号泣でメルが俊を単なる兄さんとして気にしているのではなく好きなのだ、本当は否定して欲しかったのだということにハッと気付く。
そこで母は雄一郎が連れてきた子を預けた船乗り仲間の風間に電話で連絡を取る。風間に船乗り仲間の情報網を駆使して第三の男・小野寺の所在を探ってもらうために。澤村・立花が亡き今、雄一郎の話の真相を知り得るのは小野寺しかいなかった。

 

 

喫茶店前のEナンバー車

 

 

これは米軍関係者が利用する車両。当時の横浜は本牧や根岸に住む進駐軍の米兵とその家族が街に大勢いた。

 

店名の「Agape(アガペ)」は哲学の世界における「無償の愛」。そこは「絶望(アペルピシア)」と「信頼(エトス)」のはざまという「矛盾(アポリア)」の中に生きる人間を超越した世界(これ以上やるとボロが出そうなんで、やめとくw)。

 

 

理事長のカルチェ来訪

 

 

「樽に住んだ哲人(ディオゲネス)」の哲研部長に対して「それにしてもかわいらしい樽だなあ」と徳丸理事長が突っ込んだ花柄カーテン。大掃除の静止画像ではたとえ先輩であっても物怖じしない(それどころかタメ口をきいている)姉御肌の信子に哲研部長の伊藤が押し切られて花柄カーテンを付けさせられている。姉御肌の信子の趣味としてはちょっと意外な気もするが、当時の女子はいまどきの女子以上に花柄が大好き。もう少し時代が下ると魔法瓶や保温ジャーといった台所用品のデザインで花柄はたいへんなブームとなった。シニアの奥様方となった現在でも彼女らはフェイラーの小物が大好物(カーテンの赤いコクリコのような花柄はマリークワントっぽいけれど)。なお、週刊カルチェの俊の詩の隣りに部員募集で出ている伊藤という名がおそらく部長の名前。
かくして新しいクラブハウスは運動部のみが利用する前提で別の場所に建て、文化部は晴れてカルチェの部室を引き続き利用できることになる。

 

 

坂を下って港へ向かうシーン
エイトビートのロックンロールは当時の音楽シーンにおける流行り。

 

 

横浜港沖に停泊する航洋丸

 

 

出航を控え、タグボートで航路まで曳航される貨物船・航洋丸。海上輸送にコンテナが登場する前の時代はバラ積みの貨物を降ろすクレーンが船に装備されていた。ファンネルマーク(煙突の塗装)は日本郵船のもの。
航洋丸は昭和30年代に建造された貨物船(三菱重工横浜造船所の相模丸級、長崎造船所の讃岐丸級)がモデル。詳しくはペーパークラフトのページへ

 

 

船橋(ブリッジ)での三人の会話

 

 

 

第二次大戦の戦況が悪化の一途をたどっていたさなかの昭和18年12月、こうして会うのはこれが最後となるかもしれないとの思いで「貴様ら、俺より先に死ぬなよ」「貴様こそ」と誓い合った、深い絆の男たち。当時の写真というものには、これから直面するであろう死に対する覚悟が感じられる。だからこそ、三人とも無事に戦争を乗り切ったうえでの再会を心から喜び合ったであろう。それにもかかわらず、引揚船に乗務した立花、LSTに乗艦した澤村は思わぬ形で命を落としていった。小野寺にとって、二人の忘れ形見の成長した姿には、万感極まるものがあっただろう。
風間家の養子である俊は戸籍上の実父は澤村雄一郎であるが実際の実父は雄一郎がかつてメルの母に語った通り、立花洋だった。しかし戸籍上は俊とメルは父を同じくする兄妹となる。
野暮を承知で二人の将来のことを考えるなら、俊は民法上の身分関係に関する家庭裁判所での法的手続き、例えば親子関係不存在確認の訴え等により澤村雄一郎との父子関係を解消しておくことが必要となろう。でもこの二人、どうみても精神年齢はメルのほうが上であって一緒になったらおそらく俊はメルの尻に敷かれそうだな。

 

 

出航していく航洋丸の船尾の船名、船籍

 

 

個人的には汽笛の長く鳴り響く音とともに夕日のなかを進んでいく航洋丸の後ろ姿が一番ジーンときた。全ての人々の想いを背負い込んで大海原へ出ていくが如き姿だ。エンディングの「さよならの夏〜コクリコ坂から〜」も泣かせる。航洋丸はメル、俊、小野寺船長が会話を交わすブリッジともども、日本郵船氷川丸に乗船すればその気分を味わえるだろう。なお氷川丸の汽笛は正午に鳴らされる。
氷川丸内部見学のページはこちらへ

 

 

そして物語は冒頭のルフラン(リフレイン)へ・・・

 

 

 

以上のように「コクリコ坂から」は細かな背景に至るまで丁寧な作りが見られ、さすがジブリはアニメ界に金字塔を打ち立てただけのことはある、と感じられる作品だった。コアなジブリワールドのファンには派手なファンタジーが皆無なことで物足りなく感じられて評価が低いのかもしれないが、それは派手なハリウッドアクションが好きな映画ファンが小津安二郎作品の世界に興味を示さないのと同じことだ。現実にはそう頻繁には見られない美しい色合いの風景、心に染み渡る穏やかな世界もまたファンタジーの一つのあり方であろう。この作品は小さなお子さん連れで楽しむというよりはある程度年齢を重ねた人たちが楽しむ作品であろうし、むしろ普段アニメを見ないような層であっても繰り返し見ていくことできっと満足できるだろう。

 

 

※「コクリコ坂から」キャプチャー画像は著作権法第三十二条1項(引用)の解釈に基づいて掲載しております。

 

 

 

映画公開時に配っていた「コクリコ坂から」「風立ちぬ」のうちわが出てきた。
両作品ともに近現代の人文・社会・自然科学すべてにわたる文化芸術の膨大な要素を、先達へのオマージュを重ねつつマニア心をくすぐらんばかりに「これでもか」と詰め込んだ、大人も楽しめるアニメーション芸術の極みだ。

 

 

メル、俊の通学路を妄想する(まち歩き・西の橋から元町、山手へ)

「コクリコ坂から」ジブリ版、原作コミック

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