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山の鎌倉・五山寺院と七切通


3.臨済宗大本山建長寺、巨福呂坂

2.浄智寺はこちら。




浄智寺から建長寺へ向かう県道。この県道は中世の古道「山ノ内路」の道筋。
鎌倉に向かう「鎌倉街道中の道・なかのみち」は鎌倉近くで「山ノ内路」となり、「巨福呂坂」(こぶくろざか。鎌倉七口の一つとなる切通の道)を経て鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)に至る。

向かって左側は室町時代の前期、関東管領(かんとうかんれい。鎌倉公方の補佐役)の地位にあった山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)の管領屋敷が建ち並んでいた辺り(由来碑は明月院の辺りに建っている)。
巨福呂坂の外側となるこの辺りは、鎌倉時代には鎌倉中(鎌倉の市中)の外であった。




亀ヶ谷坂(かめがやつざか)への分岐の角に建つ、長寿寺(ちょうじゅじ)の山門。
亀ヶ谷坂も鎌倉七口の一つとなる切通の道。分岐した先は「武蔵大路」(鎌倉街道上の道・かみのみちに通じる道筋)の通る「扇谷」(おうぎがやつ)を経て八幡宮に通じている。


長寿寺の開基は鎌倉公方(かまくらくぼう。室町時代における鎌倉府の長官)の初代である足利基氏(あしかが もとうじ。尊氏の子、義詮・よしあきらの弟)。寺伝によれば基氏が父尊氏の菩提を弔うため、延文三年(1358)に尊氏の邸宅跡に建立した。長寿寺の名は尊氏の法名「長寿寺殿」に由来するとされる。
ただ、尊氏が長寿寺を五山十刹(ござんじっさつ。鎌倉五山、関東十刹)に次ぐ寺格に列するとした内容の建長寺文書(建武三年・1336)が存在することから、開基は尊氏自身であったとする説も有力である。その場合、この寺は尊氏が生前に持仏堂(じぶつどう。家の位牌を祀る堂)として建てたものが基氏により発展的に整えられたということになるのであろうか。


京・室町幕府の初代将軍として歴史で学ばれる尊氏であるが、鎌倉との所縁は深い。

源氏を祖に持つ足利氏は下野国足利(栃木県)を本拠とする鎌倉幕府の御家人。北条得宗家からはかなり高い序列で処遇されていた。
尊氏は初め鎌倉幕府の倒幕を企てた後醍醐天皇方の追討のため京に上洛するも、鎌倉幕府を見限って後醍醐天皇に忠誠を誓う。鎌倉幕府は御家人・新田義貞(こちらも源氏が祖)らに攻められ元弘二年(1333)、遂に滅亡。

その後の鎌倉には尊氏の弟・直義(ただよし)がいわば尊氏の名代として入った。しかし鎌倉奪還・幕府復興を企てた北条時行(最後の得宗・北条高時の子)が建武二年(1335)に中先代の乱を起こすと尊氏は鎌倉に戻り、これを討伐。後醍醐天皇の帰京命令を無視してそのまま若宮大路御所(鎌倉幕府後期の将軍御所。前期は大倉御所)跡に御所を建てて入っている。尊氏が頼朝に倣って「鎌倉殿(かまくらどの)」と呼ばれていたことがあるのは、このあたりに由来するのであろうか。
この頃にはすでに尊氏は後醍醐天皇の専制政治に不信感を持ち、新たな武家政権を立ち上げる意思をもっていたようだ。この時期の尊氏は長寿寺の他にも永福寺(ようふくじ)浄光明寺(じょうこうみょうじ)など鎌倉の至るところにその足跡を残している。

後醍醐天皇が尊氏討伐に差し向けた新田義貞らを返り討ちにするため、尊氏は再び西へ向かう。鎌倉には子の義詮(後の室町幕府二代将軍)が留まった。そして各地を転戦の末に追討軍を撃破すると京に入る。この時点でもなお尊氏は幕府を鎌倉と京のどちらに置くか、思い悩んでいた節がある。結局、後醍醐天皇は吉野に逃れ尊氏は光明天皇を擁立、幕府は京・室町に置かれた。
尊氏は天皇親政の復古にとらわれて専制君主と化した後醍醐天皇と何度も対立するも、最後まで敬意を払い決して一線を超えることは無かった。それが武人としての矜持であり天皇への忠義であろう。鎌倉時代、後鳥羽上皇と承久の乱を戦った北条政子・義時も「上皇とは敵対するとしても天皇には決して弓を引いてはならない」と総大将の泰時に命じている。

やがて京で尊氏と二頭政治を行っていた弟の直義が失脚すると子の義詮が代わって京に上洛し、鎌倉には基氏(義詮の弟)が入った。
鎌倉府はいわばミニ幕府。室町幕府により公方以下要職の任免の統制を受けたうえで鎌倉幕府とほぼ同様に侍所・政所・問注所・評定衆・引付衆・禅律奉行といった統治機構を整え、関東十国を管轄した。
初代基氏の頃は京の幕府との関係は良好であったが、二代目以降は正統な武家政権の後継者を自認する鎌倉公方と幕府将軍家との対立が次第に先鋭化、四代持氏(もちうじ)の頃には対立は頂点に達した(永享の乱)




長寿寺は通常非公開だが、このときは季節ごとの特別拝観で公開されていた。




亀ヶ谷坂分岐の信号。右手に入っていくと亀ヶ谷坂。




第六天。通常は非公開。
案内板によるとこの第六天は建長寺の四方鎮守の一つ。延宝六年(1678)の「建長寺境内図」には第六天が南の方位を守護する神として描かれ、他には八幡(東)、熊野(北)、子神(西)があった。建長寺の四方鎮守で位置と沿革が明らかなのは第六天だけであるという。




建長寺に到着。「天下禅林」と書かれた扁額を掲げた、外門(天下門)。




建長寺境内図。

臨済宗建長寺派大本山、巨福山建長寺(こふくさん けんちょうじ)。鎌倉五山第一位。ちなみに京都五山第一位は室町幕府初代将軍の足利尊氏が開基となった天龍寺(てんりゅうじ、臨済宗天龍寺派大本山。後醍醐天皇の冥福を祈って創建された)。
円覚寺のページでも触れたとおり、五山制度は執権北条氏の時代、後醍醐天皇の時代、足利尊氏・義満の時代ごとに変遷をたどってきた。尊氏が後醍醐天皇により改変された五山制度を武家本位に再整備するに当たり、尊氏は建長寺を「往代勅願と為て大刹の最頂也。今さら改め動す能わず」とした。

建長寺の開基は第五代執権、北条時頼(ほうじょう ときより)。時頼といえば諸国を回って民生を視察したという名君伝説を基にした能の曲目「鉢木(はちのき)」の伝説で知られる。開山は宋の高僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)。


北条時頼は三代執権泰時(やすとき)の孫にあたる。泰時は承久の乱(1221)において「尼将軍」政子・二代執権義時のもと総大将として京に進軍し、後鳥羽上皇に勝利。のちに律令から変容した公家法による国家体制とは別次元の、武家による初めての国法「御成敗式目(貞永式目)」を制定した。
そして時頼の代になると、北条氏は最大のライバルであった有力御家人の三浦氏を滅ぼして幕府内における覇権をほぼ確立する。さらには北条一族内の権力闘争に加担した摂家(藤原氏九条家)将軍を京に送還し、かねてからの念願であった親王将軍を京より迎えて朝廷に対する影響力をより一層強固なものにした。これにより執権北条氏の執政は絶頂期を迎える。

一方で時頼は仏門に深く帰依した。建長寺は天皇、将軍、一門の繁栄を願い、歴代将軍に北条政子、および一門、三浦氏ら幕府重臣の冥福を祈って建立された。
また時頼は荒天で倒壊した初代木造像に代わる金銅の鎌倉大仏造立に着手。聖武天皇による奈良の大仏(東大寺)、そして豊臣秀吉による京の大仏(方広寺、現存せず)など、古代から中世にかけて鎮護国家の願いが込められた大仏は時の政治権力の中枢を担う都におけるシンボルでもあった。中世鎌倉に大仏が存在すること自体が、鎌倉が「武家の都」であることを象徴しているといえよう。


建長五年(1253)の開山となる建長寺は鎌倉・京の五山寺院、あるいは日本で最初の禅宗専門道場とされる。
鎌倉時代末期の「建長寺指図(けんちょうじさしず)」に描かれているその壮大な伽藍は南宋五山の第一位・径山万寿禅寺(径山寺。浙江省杭州)をモデルとしたものであった。巨大な山門、そして両翼に大庫院と大僧堂。山門の奥にはこれまた巨大な仏殿、法堂、方丈が一直線に並ぶ(なお現在に伝わる建長寺指図は京・東福寺復興の参考にするため元弘元年(1331)に作成された図の写しとなる)。
質実剛健な武家の気風によく合う禅の教え。しかも開山は国内における旧仏教とのしがらみの全くない、宋から招かれた高僧。この時代の鎌倉には禅宗が大きく開花するのに相応しい素地があった。

一方で建長寺開山より遡ることおよそ半世紀、京の建仁寺(けんにんじ。臨済宗建仁寺派大本山)は建仁二年(1202)の創建。のちに京都五山第三位に列せられた建仁寺は開基が鎌倉二代将軍源頼家、開山は臨済宗の開祖である栄西。旧仏教の勢力が強い京ということもあって建仁寺は当初比叡山の圧力を受け、天台・真言・禅の三宗兼学であった。このような三宗兼学は嘉禎二年(1236)京にて引き続き創建された東福寺(開基は九条道家。京都五山第四位)にも見られる。

なお、初代将軍頼朝が開基となって日本に帰国したばかりの栄西を開山とし、建久六年(1195)博多(福岡県)にて日本で初の禅寺である聖福寺(しょうふくじ。現在は臨済宗妙心寺派)が開かれている。当時の博多は鎌倉幕府が掌握しており、寺地は博多百堂という「宋人、堂社を建立せしむ旧跡」であった。少なくとも鎌倉時代中期以降、聖福寺は住持(住職)の任命のあり方からみるに鎌倉幕府の禅宗寺院として運営されている。
聖福寺が兼学であったかは寡聞にして正確なところは分からない。ただ、栄西という僧は臨済宗の開祖であると同時に天台密教の権威者でもあった。栄西が開山となって鎌倉で最初に開いた禅寺である寿福寺(じゅふくじ。正治二・1200年創建。開基は北条政子。鎌倉五山第三位)は京から遠く離れた地であったにもかかわらず密教・禅の兼学であった。
当時文化的先進地であった博多で栄西は幕府の支援を強力に受けて最初の禅宗寺院を開いた。続いて鎌倉(寿福寺)、京(建仁寺)と開山されていくわけだが、栄西の宗風は最澄以来の伝統を踏まえた兼学禅であった。宋から日本に伝えられたばかりでまだ誰も知らない、幕府の権力者が本当に理解していたかも実のところ分からない禅の教えは当初は密教と兼学で学ばれたと考える方が自然ではないだろうか。

ところで元号が寺号となっている寺院は禅宗寺院では建長寺の他には京の建仁寺のみ。他宗を見ても比叡山延暦寺、京の仁和寺など、ごく限られている。こうしたところも執権時頼の権力の絶大さを感じさせる。尊氏の天龍寺は暦応二年・1339)の着工であるが暦応寺(りゃくおうじ)の寺号が延暦寺の反対に遭い天龍寺と改められた。
鎌倉時代の末期には地震で被災した伽藍の再建資金調達のため、幕府の手により元(げん)に建長寺船(貿易船)が派遣された。このような手法は足利尊氏にも踏襲され、尊氏は天龍寺の創建にあたり資金調達のため元に天龍寺船を派遣している。


なお建長寺の建つあたりは鎌倉時代初期、処刑場であった。当時は巨福呂坂の急坂を越えた外となるこの辺りが罪人を見せしめで処刑するに都合のよい、街道筋の町はずれということになる。処刑された者の菩提を弔うためか、このあたりには心平寺(しんぺいじ)が建てられ地蔵菩薩が祀られていた。地蔵菩薩は六道(ろくどう。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)を輪廻し苦しむ人々を救う仏。建長寺創建の頃は地蔵堂だけが残っていたとされる。心平寺は建長寺の建立にあたり巨福呂坂付近に移転。明治になって巨福呂坂(小袋坂)新道建設に伴い地蔵堂(江戸時代初期再建の堂)は解体され、横浜本牧の三溪園に天授院として移築されている。


参考
増補 鎌倉の古建築 関口欣也
中世鎌倉五山の建築 鈴木亘
中世都市鎌倉を歩く 松尾剛次
深く歩く鎌倉史跡散策(下)神谷道倫




駐車場を抜けると総門。「巨福山」の扁額が掛けられている。巨の字に点が一つ打たれているのは「百貫点」と呼ばれ、全体を引き締めて価値を高めたものとされる。




三門(三解脱門。山門)への参道。桜の樹が植えられ、杉木立の鬱蒼とした円覚寺と比べると明るく開けた印象。




「建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)」の扁額を掲げた三門。額は後深草天皇(ごふかくさてんのう。1243〜1304)の宸筆とされる。




堂々たる楼門(二重門)の山門は江戸時代の後期、安永四年(1775)の再建。建築年代としては円覚寺の山門とほぼ同時期。
ただ建長寺の山門は屋根に軒唐破風(のきからはふ)を設け、軒の垂木も放射状の扇垂木(おうぎだるき)ではなく平行垂木(へいこうたるき)。近世の折衷的な禅宗様の色合いが濃い。

軒唐破風が設けられたのは、大扁額を上層に掛けられるようにするため。安永再建前の山門上層にはこの大扁額を掛けることができなかった。そうしてみると、中世に遡る創建当時の巨大な山門は相当な威容を誇っていたのであろう。
参考「鎌倉の古建築」関口欣也著




虹梁(こうりょう)の渦文様。虹梁に立てられた円柱状の大瓶束(たいへいつか)。この辺りはきっちり禅宗様。




柱の下に礎盤(そばん)。基壇(きだん)の石敷きは斜め四十五度の四半敷(しはんじき)。




三門の隣に建つ鐘楼。




梵鐘は総高およそ2m、重さ2.7t。時頼の発願により建長七年(1255)に鋳造された。




ゆかりの俳句案内板。
明治の俳人である正岡子規の有名な句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、親友であった夏目漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句から発想して作られたともいわれる。たしかに韻の揃え方は似ている。

古刹にお参りし、静かに手を合わせつつゴーンと鐘を撞く。ふと境内に目をやると、はらはら舞い散るイチョウの黄葉。そんな秋の昼下がりの情景が漱石の句からは思い浮かぶ。
一方で子規の句から思い浮かぶのは、柿を頬張っていると何処からともなくゴーンと響く鐘の音、そして真っ赤な夕焼けに染まる西の空。カラスどももカー、カーと鳴きながらねぐらへと帰っていき、「いつまで遊んでるんだい、もうごはんだから帰っといで」と子供らを呼ぶおっ母さんの声。「俺は何でここにいるんだろうか」と、ふと我に返る(お前は寅さんか)。どこか時空を超えた情景が読み手の側でどんどん勝手に広がっていく。

漱石に俳句を指南したという子規の「金之助、俳句はこんな風に詠むんだよ」という、してやったりの表情が浮かぶようだ。では「今回はこれでお開きということに」。




柏槇(ビャクシン)の巨木。開山時に蘭渓道隆により手植えされたと伝わる。




本尊を祀る、仏殿(本堂)。江戸時代の初期、寛永五年(1628)の築。




屋根の垂木は放射状の扇垂木(おうぎだるき)。軒下には組物(くみもの)がびっしりと並ぶ(詰組・つめぐみ)。この辺りは禅宗様仏殿の典型。
しかしながら屋根の形状は入母屋造(いりもやづくり)ではなく大棟(おおむね)が短めの寄棟造(よせむねづくり)になっている。このような寄棟の仏殿は、同じく時代が近世に下った旧東慶寺仏殿(横浜本牧・三溪園に移築)にも見られる。




壁は縦にはめられた板壁。そして火灯窓(かとうまど)。この辺りも禅宗様の特徴。
ただ欄間は禅宗様で典型的な弓欄間(ゆみらんま。円覚寺舎利殿や再築された円覚寺仏殿に採用されている)ではない。七宝文様(しっぽうもんよう。円を四分の一ずつ重ね合わせた文様。輪違い)を用いた花狭間(はなざま)の格子を斜めに(見た目としては碁盤目に)組んだ華やかな欄間というのが、禅宗の仏殿としてはちょっと珍しい。




裳階(もこし。庇・ひさし)には三門と同様に軒唐破風がついている。そしてここまで見てきて気が付くように、この仏殿は飾り金具を外した跡や塗りを落とした跡が非常に目立つ。

実はこの仏殿、元は増上寺(東京・芝)に建てられていたお江の方(おごうのかた。徳川二代将軍秀忠の継室、崇源院。お市の方の娘である浅井三姉妹の末妹)の御霊屋(みたまや)であった。寛永五年(1628)に建てられたものが廟の建て替えに伴い正保四年(1647)に建長寺に移築されている。という訳で、元々は朱塗りに金の飾り金具をあしらった徳川家の壮麗な霊廟建築であった。

そう思って見ると、仏殿の内部は典型的な禅宗様建築とはかなり異なっている。




基壇の土間に敷かれた黒瓦は禅宗様の典型である「四半敷(しはんじき。斜め45度)」ではなく、壁に平行な「布敷(ぬのじき)」に敷かれている。




本体の柱と裳階の柱をつなぐ虹梁(こうりょう)は禅宗様仏殿に見られる「海老虹梁(えびこうりょう。湾曲した虹梁)」ではない。たとえば先に挙げた旧東慶寺仏殿(横浜本牧・三溪園に移築)や近代の木造建築である曹洞宗大本山總持寺(横浜鶴見)の仏殿(大雄宝殿)には海老虹梁がみられる。
そして虹梁にも朱塗りを落としたような跡が見られる。




欄間彫刻として羽衣をまとった天女が彫られている。このあたりは桃山建築に見られた華やかな装飾を受け継いでいる。
なお、天女の彫刻が見られる桃山建築としては秀吉が母(大政所)のために建てた天瑞寺寿塔覆堂(てんずいじ じゅとう おおいどう)が横浜本牧の三溪園に移築されている。




天井は禅宗寺院に典型的な鏡板(かがみいた。平滑な一枚板)を並べて張った「鏡天井(かがみてんじょう)」ではなく、和様寺院や御殿建築に見られる「格天井(ごうてんじょう。格子状の天井)」。本尊の上部(貴い座)は二重天井になっており、その部分は折上格天井(おりあげごうてんじょう。四辺を曲線で持ち上げた格天井)になっている。




本尊・地蔵菩薩坐像。台座を入れるとおよそ5mにもなる。
建長寺の御本尊は鎌倉では珍しく撮影を禁ずる張り紙がなされていない。

そして禅宗の大寺院の本尊が釈迦如来ではなく地蔵菩薩というのが、これまた珍しい。これは先に触れた、この地に元々建っていた心平寺に地蔵菩薩が祀られていたことと縁がある。初め蘭渓道隆は本尊に三尊仏を欲したというが、時頼はこの地が刑場であったこと、そして先に地蔵菩薩の祠があったことからよろしく地蔵菩薩を本尊と為すように、と説いたとされる。





仏殿に続いて、法堂(はっとう。講堂)。法堂は住持(じゅうじ。住職)の説法の場となった。

江戸時代後期の文化十一年(1814)築となるこの法堂は、近世以前の木造法堂建築としては関東で最大規模を誇る。禅宗様の古式を踏襲しつつも、屋根の垂木は平行垂木(へいこうたるき)になっている。また、軒下の詰組(つめぐみ)もやや疎らになっている。




欄間は伝統的な書院造でよく見られる筬欄間(おさらんま)が用いられた。正面の火灯窓は末広がり。壁は縦の板壁。




側面の壁では火灯窓が縦に真っ直ぐの、円覚寺舎利殿に見られるような初期の様式になっている。




本体の柱と裳階の柱をつなぐ、虹梁(こうりょう)。法堂も海老虹梁ではない。




床は黒瓦の四半敷(しはんじき)。




天井。こちらは禅宗寺院によく見られる「雲龍図」を描いた鏡天井(かがみてんじょう)になっている。この力強い雲龍図は建長寺創建七百五十年を記念して小泉淳作画伯により描かれた。




法堂にも須弥壇(しゅみだん)が設けられ、千手観音が祀られている。




仏殿、法堂の並び。
仏殿は初め仏殿兼法堂として移築されたというが、説法の場となる法堂は江戸時代後期になってより大きなものが再建された。


たしかに「鎌倉は武家政権発祥の地、そして禅宗寺院の伽藍はそのことを証明する大切な一要素」といってみたところで、現在の建長寺伽藍は江戸時代以降の鎌倉寺院復興期に建てられた堂で構成されている。現在において創建時の壮大な堂宇がこの地に残っている訳ではない。江戸時代の建物であるなら京都にも壮大な禅院は多数存在するし、その数はむしろ鎌倉よりも多い。
しかし奈良の都に唐の文化が移植された様に、鎌倉には日本の何処よりも先に南宋の禅宗文化が大がかりに移植された、というのは紛れもない事実。

そして、鎌倉時代にそれを可能にしたのは鎌倉の地が畿内の都から遠く離れた関東における日本初の武家の都だったからに他ならない。この地こそが、新興勢力であった武家政権が自分たちに相応しい新たな仏教文化として禅宗を積極的に取り入れ、京の都のそれまでの仏教文化とは異なる文化を大々的にスタートさせた地であるということに異論は無かろう。

室町時代の後期以降、一度は廃れていった鎌倉の寺院はそのまま打ち捨てられて過去の遺跡となってもおかしくはなかった。実際、源頼朝が創建した勝長寿院(しょうちょうじゅいん。大御堂)や永福寺(ようふくじ)といった壮麗な寺院は戦乱の世を経て、露と消えていった。しかし、鎌倉における全てがそうなったかといえば、そうはならなかった。江戸時代に入ってからは新たな権力者である徳川一門、大名家、上級武士らがこぞって数々の堂宇を再建。彼らの外護によって鎌倉の彼方此方に復興の槌音が響いていった。
近世以降の武家にとっても鎌倉がけっして忘れてはならない悠久の価値を持つからこそ、江戸時代の建築の粋を集めた新たな伽藍が誕生した。そのことこそが、鎌倉が武家政権発祥の地として武家社会における精神的な象徴としての揺るがぬ価値を有していたことを証明しているのではなかろうか。

「鎌倉にある禅院は京都にも同じようなものがあるし、むしろ質量ともに京都の方が優れている」というのは形として残っている文化遺産としての評価でありそれ自体は正当である。しかし、そのことが鎌倉において禅宗文化が花開いたことの意義を貶めるものでは、決してない。
これは形あるものの表面的な理解を超えるものであろう。鎌倉に現存する禅院は、他の東洋諸国には類例を見ず、かつ西洋社会のそれに類するといわれる、日本における武家社会による封建体制のスタートという政治史の歴史的転換点を間接的に証明する事実のひとつであるということは、異文化の学者諸氏にはなかなか理解できないことだったのだろうか。だからこそ「武家の古都であったことを証明する物的資産がない」となってしまったのだろう。




続いて方丈(ほうじょう)へ。




唐門(からもん)。唐破風(からはふ)の屋根を架ける。唐門は勅使(ちょくし。天皇の使者)を迎える勅使門。
唐門は仏殿と同時に増上寺・崇源院廟より移築された。




黒漆塗に金色の飾り金具。この建物もまた桃山建築の名残りを感じさせる。




大庫裏(だいくり)。




玄関から方丈(ほうじょう)へ上がり、方丈庭園を拝観する。

方丈は「龍王殿」と名付けられている。方丈とは元々は住持(じゅうじ。住職)の居所。
この建物は享保十七年(1732)、京・般舟三昧院(はんじゅさんまいいん)に建てられたもの。建長寺における先代建物は方丈庭園の築造に先立ち江戸前期の寛永18年(1641)に再建されたものだったが関東大震災(大正12・1923)により倒壊。昭和15年(1940)に現在の方丈が総門とともに移築された。




濡縁(ぬれえん)に上がる。




方丈の前庭。




庫裏、法堂、仏殿、三門が一直線に並ぶ。




方丈庭園。














池は「さん碧池(さんぺきち)」と名づけられている。建長寺では心字池が俗界と聖域の境界となる門前ではなく最奥に造られた。このような池は建長寺のモデルとなった南宋の禅院には見られず、建長寺に独特のものといわれる。

「建長寺指図(けんちょうじさしず。元弘三・1331)」にみる方丈と池は、あたかも寝殿造のような趣き。確かにこの庭は蘭渓道隆による作庭がルーツであるが、これは蘭渓道隆の積極的な意図というよりはむしろ建長寺を創建した北条時頼の指示によって造られたとみてよいのではないだろうか。
執権政治の絶頂期を迎えた強大な権力者・五代執権時頼は、鎌倉武士の精神的な拠り所とすべく旧来のしがらみにとらわれない新しい仏教を宋より大々的に導入、南宋禅刹の壮大な伽藍をこの地に移植した。他面で時頼は鎌倉幕府の偉大なる開祖・頼朝の建立による大寺院、例えば永福寺(ようふくじ)の寝殿造を思わせる浄土庭園をどこか意識していた、と想像してもあながち的外れではなかろう。




この方丈庭園は創建当時は後方の中腹に建つ華厳塔を借景に取り込む雄大な構成であったという。
なお、華厳塔については鎌倉末期の記録や「建長寺十境」を詠じた漢詩の表現から、八角三層・裳階(もこし)付きの塔ではなかったかと推測されている。そうだとすると、その姿は「信州の鎌倉」上田に建つ安楽寺三重塔(上田市別所温泉(塩田))のような姿だったのかもしれない。

現在の庭園は江戸中期・明和年間(1764〜1772)の大がかりな改修、さらには現代の改修を経ており、蘭渓道隆によるオリジナルの姿そのものという訳ではない。平成15年(2003)の大改修に先立つ平成12年(2000)の発掘調査では池の南岸を鎌倉石積で直線に護岸した遺構が検出されている。

参考
「建長寺方丈庭園の変遷について(論文)」石原彩子
「中世鎌倉五山の建築」鈴木亘
「鎌倉の古建築」関口欣也


今回の拝観はここまでにする。なお、境内を最奥まで登ると半僧坊を経て勝上献(しょうじょうけん。けんは正式には山かんむりが付く)・天園ハイキングコースに至る。




別の機会に捉えた、勝上献からの建長寺境内の眺め。堂宇が一直線に並ぶ。晩秋の天園ハイキングコース歩きはこちら

建長寺には開山(蘭渓道隆)750年遠忌(2028)の完成を目標にして華厳塔を再建する計画があるという。ここに三重塔(あるいは五重塔)の眺めが加わるその時は、いつ来るだろうか。




建長寺を後にして鎌倉七口(かまくらななくち。七切通)の一つ、巨福呂坂へ向かう。

新道として開削された県道・巨福呂坂(こぶくろざか)。現在は「小袋坂」と表記されている。明治19年(1886)に開通したこの道は平成五年(1993)にそれまでのトンネルから「巨福呂坂洞門」(落石防護シェルター)で覆った切通しに改修された。

この新道が開通するまでは、鎌倉に向かう人々はこの地点より少々手前となる円応寺を過ぎたあたりから山を越えて鎌倉市中に入っていた。




シェルターの出口付近まで進むと右手に金網で塞がれた小さなトンネルが口を開けている。これは横須賀市水道局の巨福呂坂送水管路ずい道。




中を覗くと、かなり奥に反対側出口が明るく見える。あちら側が旧道巨福呂坂の反対側登り口付近。ちょうどこのトンネルの上あたりを旧道が通っていたことになる。
「鎌倉市及近傍明細地図」(昭和16・1941年。日文研・所蔵地図データベースのサイト)を見ると、地図が発行された当時でも旧道のこちら側の登り口は残っている。新道沿いの山肌が大きく削られる前は、現在の大仏切通のように新道を逸れて旧道へ登っていく道を通しで歩くことができたことになる。




巨福呂坂洞門を通過。




県道を先に進み、「八幡宮裏」バス停(江ノ電バス)辺りから右手の旧道に入っていく。




旧道の巨福呂坂。巨福呂坂切通のこちら側は、古くは聖天坂(しょうてんざか)と呼ばれていたようだ。「鎌倉絵図」(日文研・所蔵地図データベースのサイト)には聖天坂の記載が見える。同図は発行年が不明であるが、筆書きの崩し文字の絵図なので江戸時代後期から明治初頭(新道開通前)の頃までのものであろうか。

巨福呂坂に切通が開削されたのは仁治元年(1240)。三代執権北条泰時(ほうじょうやすとき)によりそれまでの山道が整備されて切通が設けられる。先に整備されていたという亀ヶ谷坂(かめがやつざか)切通に次ぐ、山ノ内路・鎌倉街道中の道(なかのみち)への連絡口となった。




坂を上っていくと、先に見た巨福呂坂送水管路ずい道の出口が左手に見える。




さらに進むと、左手に小さな鳥居と急な石段。




石段の上は青梅聖天社(おうめしょうてんしゃ)。
案内板によると、三代将軍源実朝が病に伏した際この宮の前に実った青梅を食して治癒したとある(「新編鎌倉史 巻之三」)。本尊の双身歓喜天(そうしん かんきてん)は南北朝時代の作。




境内に登り、巨福呂坂を見下ろす。旧道が現在の深さまで切り下げられる(掘り下げられる)前は、巨福呂坂はこのお宮の建つあたりまで急坂を登っていたのだろう。

市街地への出入口であるにもかかわらず、馬一頭が通れるほどの幅に狭められ急勾配に造成された巨福呂坂切通もまた、武家の都・鎌倉を要塞化した要素の一つ。新田義貞の鎌倉攻めの際には極楽寺坂、化粧坂(けわいざか)と並んで激戦地となった。




坂に戻ってさらに進むと、道は私有地で行き止まりとなる。ここで引き返し、寿福寺へ向かう。




旧巨福呂坂の入口から八幡宮沿いに先へと進むと、角に「鉄の井」(くろがねのい。鎌倉十井・かまくらじっせいの一つ)がある。八幡宮前の角となるこのあたりは道行く観光客やクルマの数が大変多く、気ぜわしい。

ここで右折し、武蔵大路へ。




武蔵大路を寿福寺へと進んでいく。


4.寿福寺、亀ヶ谷坂へ  まち歩きトップに戻る。