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経ヶ岳から北条・武田合戦の地をたどる


2.三増合戦場跡とその周辺

田代(たしろ)からは北条と武田との間で繰り広げられ戦国史上屈指の激戦となった山岳戦、三増合戦(みませ かっせん。永禄12・1569)の古戦場跡をめぐる。

1.煤ヶ谷より経ヶ岳を経て田代へ、はこちら。




愛川町(あいかわまち)田代・大矢孝(おおや たかし)酒造を後にして、田代城址(愛川中学校)へ向かう。標高およそ85m。時刻は12時50分ごろ。




田代の町をつらぬく県道を半原(はんばら)方面へ進む。




愛川中学校へと登っていく。




13時ごろ、中学校敷地角のバス停に到着。標高およそ115m。




案内板は見やすい位置に移っている。




田代城址の案内板。

田代城は三増合戦のおり落城したと伝わる。
田代城城主であった内藤秀勝・秀行は津久井城主であった内藤氏の一族。小田原城の支城が津久井城、津久井城の支城が田代城という関係になる。




田代散策コースの案内板。




学校敷地に沿って、正門側へ。




中学校の隣りの平地は田代城の曲輪(くるわ。城の一区画)だったのではないかと考えられている。




左手の上にある平場は後にして、右手から校地の裏側へお邪魔する。




大きなタブノキ。




冬でも青さを失わない、常緑の照葉樹。




タブノキの奥に、田代八幡社。八幡社は城内の鎮守であった。




祠の覆屋。




八幡社を後にして角まで戻り、高みに位置するもう一つの平場を確認しにいく。









墓地の脇をお邪魔する。









こちらの平場は富士居山(ふじいやま・藤山。253m)の中腹。この平場も曲輪のひとつであり富士居山は狼煙台だったのではないか、との見解もあるが詳細は不明。




ここから先、こちらの側からは富士居山の山頂への道は整備されていない。
なお富士居山から先は向山(むこうやま)、大峰を経て真名倉(まなぐら。日向橋の先)へ下りるハイキングコースが整備されている。

これ以上奥はお邪魔せずにここで引き返し、首塚へ向かう。

参考 「北丹沢ガイドブック(北丹沢山岳センター編)」「神奈川中世城郭図鑑」




先の田代城址案内板の先へと進み、「西坂」の標柱が立つ坂を上がっていく。




「西坂」は城址と関係ある呼び名かとも思うが、もし中学校あたりの曲輪が居館跡ならそちらを基準にして東坂となりそうな気もするので、関係ないかもしれない。
あるいは、西坂のヘアピンカーブを上った先も実は城の一角で、田代城はそちらを主郭とするもっと大きな山城だったのかもしれない。そちらは地形的には先ほど見た八幡社の上の平場と連なる。大きく抉れているのは中学校を建設するときに背後の崖を抉ったのだろう。
そうした見立てはたしかに現在に伝わる記録とは違うのかもしれないが、想像は膨らんでいく。




西坂のヘアピンカーブに上る手前で、近道となる階段へ。




山道を登る。




再び西坂に合流。




道路に出たら右へと上って行き、道が合わさってくるその先を左折。




実はこの土手も土塁跡で、道は空堀跡だった、という可能性はないのだろうか。

江戸時代後期の地誌「新編相模国風土記稿 巻之五十八 愛甲郡巻之五 毛利庄 田代村」には「東北は山に傍り陸田となりて城郭の遺形なし」とある。こうした資料などをもって城ではなかったという最終結論とするには、何か物足りない。




左手に富士居山。狼煙台と推定される富士居山がここからは良く見える。このあたりが先に見てきた八幡社の上の平場と同じ標高となる。

「新編相模」では「北方丘上にて三方に道を開き南の大手とす。今は其辺都て水田なり」と記されている。三方の道とは、現在山頂へのハイキングコースとなっている道と、先ほど登れなかった中津川側の急傾斜の道と見てよいのだろう。
城の南側となる大手の水田は、残草(ざるそう)の小山(大矢孝酒造の裏手の小山)北側に広がっていたのだろう。あの辺りは地形からして昔は中津川が大きく蛇行して流れていたとしても不自然ではない。




道なりに進む。




広めの通りに出た。




広い通りと交差する角のところが、首塚。




三増合戦の死者を供養するために、不動明王像と供養塔の石塔が祀られている。




案内板。




広い通りを丁字路の先へ少し進むと、胴塚の案内板が立つ。




案内板。

背後は塞がれており、塚そのものを見ることはできない。




丁字路まで戻り、合戦場碑へ。




上志田バス停を過ぎて上っていく。




合戦場碑に到着。時刻は13時50分ごろ。




三増(みませ)合戦場の碑。標高およそ163m。




合戦のあらましを記した案内板。

三増合戦(永禄12・1569)に先立ち、信玄は甲相駿三国同盟の破棄後、駿河へ進出するための計画を練っていた。
信玄としては駿河攻めの背後を北条に突かれることだけは避けたい。そこで小田原に対していつでも攻め込むとの示威行動に出て、北条の戦力を小田原周辺に貼り付かせておく必要があった。

信玄は甲斐を出発、上野(こうずけ。群馬県)の碓氷峠を越え、小田原を目指して南下。武蔵の鉢形城(埼玉県寄居町)、滝山城(八王子市)を囲み、一戦を交える。
相模に入ると厚木、平塚を経て小田原城下に到達した。有名な総構の構築前とはいえ堅牢な城郭を誇った小田原では信玄は無理な力攻めをせず城下の屋敷や民家、寺社までも火をかけ焼き払い早々に帰国の途に就く。その際、信玄は鎌倉・鶴岡八幡宮に向かうとの情報を流布させる。

小田原城の囲みを解いて帰国の途に就いた武田の軍勢が、鎌倉へ向かわずに平塚から相模川を北上しているとの知らせを聞くに及び、氏康の下知が下った。「信玄は必ず三増峠を越える。我が城下に火を放ち領国を蹂躙する輩、このまま打ち捨ておくことは罷り成らぬ。これより武田勢を追討する。信玄が首、討ち取れぃ」


帰国の途に就いた武田勢にとって、往路のように武蔵・北関東を経由して甲斐に帰国するには、降雪の季節を迎えつつあったこの時期には困難が予想された。
相模川を北上し厚木まで進んだ場合、甲斐方面(上野原)へ向かう当時のルートとしては中津川沿いに津久井から道志を経由するか、当麻(たいま。相模原市)を経て府中へ至る街道を進み横山(八王子市)を経由して小仏峠(こぼとけ とうげ)を越えるか、となる。その場合、足手まといとなりがちな小荷駄隊(こにだたい。兵糧を運ぶ隊)の荷物を捨てさせて身軽になるためには最短経路をたどる必要に迫られた。




経ヶ岳中腹の法華峰(ほっけみね)林道より俯瞰した三増古戦場。 拡大版。

三増峠(320m)は、尾根に挟まれた栗沢(中津川支流)沿いに延びる甲州道が津久井方面へと越えていく峠。三増峠が通る志田山の山々には三増峠、中峠、志田峠の三つの峠があった。それぞれの峠を越える道のうち三増峠越えの道は主たる街道であり、上宿、下宿、新宿という地名が示す通り古くから宿場の開けた街道であった。


武田勢を追討すべく集結した北条勢は滝山城(八王子市)の氏照(うじてる。三代氏康の子・四代氏政の弟)、鉢形城(埼玉県寄居町)の氏邦(うじくに。氏康の子)、玉縄城(鎌倉市)の「黄八幡(きはちまん)」綱成(つなしげ。二代氏綱の娘婿、三代氏康の義弟)、ほか小机城(横浜市港北区)、江戸城(千代田区)といった支城の衆(軍団)。三増の北方・東方から三増峠付近に集結し、相模川・中津川沿いに甲州道を北上し三増峠を抜けようとする武田勢を待ち構えるように着陣した。
そうであれば北条勢はおそらく三増峠の南東側となる山々(三栗山ハイキングコースの山々)から甲州道を見下ろすように布陣したと考えられる。三増峠の向こうは小田原の支城・津久井城(内藤氏)の津久井衆が控える。背後からは小田原を発った北条氏政の本隊が迫っている。百戦錬磨の信玄とて、敵地である三増峠の峠越えは非常に危険を伴うものであった。


信玄は栗沢を挟んで三栗山から牛松山あたりの山々に着陣した北条勢と対峙し、周囲を見下ろすように中峠への尾根上に旗を立てたとされる(信玄旗立松跡)。周囲を尾根に囲まれた栗沢沿いの低地を進む甲州道を素直に細長い隊列で三増峠へ向かうのはまさに袋の鼠であり、有り得ない。
そこで、山岳戦の手練れであった武田勢は地形を充分に吟味し、隊を分散。小幡信定の隊を津久井城に対する押さえとして長竹(ながたけ)へ、山県昌景(やまがたまさかげ。飯富虎昌の弟あるいは甥。武田四天王)の別動隊を三増峠の南西に位置する志田峠を越えさせて韮尾根(にろうね)へ布陣させる。山県隊は信玄本陣の背後となる志田沢沿いから三増峠の裏側に布陣し、信玄の本隊にも津久井城に対峙する小幡隊にも加勢できる位置にあったといえる。




こちらは半原高取山(はんばら たかとりやま)の山頂鉄塔から見た三増峠(320m)〜志田山(410m)〜志田峠(310m)の山なみ。三増峠の北に小田原城の支城・津久井城がある。 拡大版。

手前の中津川沿いは現在でこそ町が開け幹線道路(国道)が走っているが、そもそもの地形は志田峠へ突き上げる志田沢と志田口沢それぞれのへりとなる一直線の尾根(富士居山〜向山〜大峰)が中津川の側へすとんと落ちて、一直線の急峻な崖を形成している。
志田口沢は地形を素直に見れば扇状地の韮尾根(にろうね)を下り韮尾根沢(串川支流)へ合流しそうだが、おそらくは「河川争奪」により尾根の山すそを深くえぐるようにぐるっと回り込んで真名倉沢(中津川支流)へと流れ込んでいる。
そして往時の中津川はおそらくは川幅を保ったまま蛇行を繰り返しながら流れ下っており、中津川に流れ込む小さな沢とともに河岸段丘が形成された。日向橋の奥は韮尾根に向けて半原・日比良野の段丘とえぐれた沢でぐっと高度を上げるため、わざわざ街道を通すような地形ではなかったのだろう。




三増合戦陣立図。  拡大版。

この図は江戸時代後期の地誌「新編相模国風土記稿 巻之五十八愛甲郡 巻之五 毛利庄 三増村 古戦場」における陣立図を基に作成されていると思われる。
北条、武田の陣立は様々な資料毎に幾つか見られる。いずれにしても武田が北方へ撤退していくさなかで当初から北条が南側に着陣するのは不自然なので、これは合戦開始後の布陣をイメージして示したものであろう。

なお、甲陽軍鑑などの文献によれば北条勢の一部は当初、指揮系統が混乱するなか半原山(半原台地。日比良野あたりの段丘か)へ移動したとされているが、これは合戦の趨勢には無関係であろう。仮にそのまま半原台地に布陣すれば、先のパノラマ画像に見る通り長竹あるいは韮尾根あたりに布陣した武田勢はまさに半原台地の軍勢と津久井城の津久井衆との挟み撃ちにあって大損害は免れなかったはずである。北条勢はそこには長居せずに武田勢を三増の山懐に追い込むために速やかに三増峠に移動したのだろう。

武田勢としては出来れば北条勢が到着する前に早急に三増峠を抜けて津久井から甲斐へと撤退する必要があった。北条より先に三増峠などを全軍が抜け切れば津久井城の津久井衆のみを相手にすることとなるが、往路で鉢形城や滝山城を相手にしてきたことを思えばそう困難でもなかろう。津久井城にとって天然の堀である串川は、津久井衆が城から打って出るにはかえって邪魔になる。

あるいはもう一つの説がいうように、先に三増に到達したのは武田勢で、隊を分散して三増、中、志田の各峠から速やかに撤退しようとしたところ北条に追いつかれたため、そこから合戦になったということも有り得る。もっともその場合、規模的にも北条方の主力となったであろう滝山衆(八王子)が敢えて三増峠への街道を回避して着陣したことになり、滝山城からの移動の仕方が大回りで不自然なのは否めない。また、北条方は志田峠の山県隊と正面から激突する可能性が極めて高いように感じられる。


北条勢が着陣したであろう三栗山から牛松山あたりからの眼前を、武田の隊列が三増峠へと移動していく。小田原本隊は未だ到着の気配がないが、ここで武田勢を取り逃がすわけにはいかない。「勝ったぁ、勝ったぞぅ」の雄叫びとともに「黄八幡の闘将」北条綱成(ほうじょう つなしげ)の鉄砲隊が砲火を放ち、合戦の火ぶたは切って落とされた。
緒戦、綱成の鉄砲隊は武田家臣の侍大将・浅利信種(あさりのぶたね)を討ち取り、序盤は北条優勢で推移していく。

北条勢は武田四郎勝頼、馬場信房(ばば のぶふさ。武田四天王)らの隊を山懐まで追い詰めていった。
と、そのとき山県昌景(やまがた まさかげ)の別働隊五千が韮尾根から志田峠を越えて志田沢に沿って駆け下りて回り込み、北条勢の背後を突くことで情勢は一変した。

北条勢は総崩れとなり、三増から中津川河岸・田代あたりへ転げ落ちるように敗走。追い打ちをかける武田勢の猛攻にさらされて北条勢は甚大な死者を出し、合戦は終結した。
先の田代城も、北条軍が三増から田代へと敗走していくさなかで武田軍の猛攻に晒されたのだろう。北条勢が中津川を渡り逃れていった半原山というのは、先に経ヶ岳における伝承で見てきたとおり、仏果山〜半原越〜経ヶ岳の辺りを指すのだろう。
小田原を発った氏政の軍勢二万は三増峠まであとわずかの荻野(おぎの。厚木市)まで迫っていたが、時すでに遅かった。


両軍ともに二万ともいわれる軍勢のなか、僅か一日で北条方は三千余り、武田方は一千近い死者を数え戦国史上屈指の激戦となった山岳戦、三増合戦(永禄12・1569)。

氏照は上杉家臣・山吉豊守(やまよしとよもり。越相同盟締結に尽力した)に送った事後報告の書状で「小田原の氏政が間に合わず、信玄を討ちもらしてしまった。まことに無念千万である」(山吉文書)と述べている。
三増峠の先にある小田原の支城・津久井城の内藤が武田勢の小幡信定の知略によって抑えられていたのも誤算であった。


この合戦は北条の領国・相模で展開されたとはいえ、山岳戦を得意とし軍勢を素早く展開した武田勢に一日の長があった。山中での部隊間の連絡・統率も北条勢が各支城から急遽駆け付けた衆の連合だったのと比べて、迅速だったのだろう。さすがは武田、と唸らざるを得ない。
とはいえ、武田の動きを察知した小田原本隊の追撃が、あともう少し早かったら。

もしも氏康が三増合戦で信玄を討ち取っていたら、この戦は間違いなく戦国時代の一大転機となった。信玄、勝頼共々討ち取れば甲斐は存亡の危機となるのは間違いないが勝頼が討死せずに生き延びていたとして、勝頼は武田家の舵をどのように取るか。一方で氏康にしても先はそう長くはない。三増合戦の二年後に氏康は病によりその生涯を閉じる。
その後東国にはどのような激震が走るのだろうか。第四代氏政は未だ若輩であったが一門衆には氏康が絶大な信頼を寄せた同い年の「黄八幡」綱成がいる。一門の精神的支柱である長老・幻庵(げんあん。初代早雲の末子・二代氏綱の末弟。その縁者が歴代小机城主となった)もいまだ健在であった。他方、三河の家康にしても尾張の信長でさえも、この頃はまだ若い。史実では信玄上洛を前に風前の灯火であった信長。しかし信玄は上洛を目前に病で倒れてしまった。もしも信玄より長く生きた謙信が三増で討死していたかもしれない信玄に代わって上洛を目指していたら、その後の歴史はどう展開していったであろうか。

参考 
「郷土誌探究族 県北をいく 神奈川の陸の道・18の歴史風景」(財)横浜銀行産業文化財団より「三増峠の合戦」下山治久 
「三増合戦」愛川町教育委員会 
「神奈川中世城郭図鑑」
「神奈川の東海道(上)」
「津久井湖城山公園ガイドブック 津久井城ものがたり 過去から未来へ」神奈川県津久井土木事務所津久井治水センター
「戦国北条五代」黒田基樹




合戦場碑のそばに建つ、供養塔と慰霊碑。古戦場周辺からは遺物が未だに出土することが往々にしてある。




合戦場碑から武田信玄旗立松跡へ向かう。この道は志田峠に通じている。

旗立松跡は東名厚木カントリー倶楽部内にある。この先に幾つもの案内板が出ている。




右手にカントリー倶楽部入口。標高およそ195m。一方で、まっすぐに進めば志田峠に至る。




志田峠の案内板。かつては切通(きりどおし)の峠だった。戦国時代までは三増峠の脇街道だったのだろうが、この案内板によれば江戸時代中期には三増峠を凌ぐ街道となったようだ。




進入路を上がっていく。クラブハウス前への急カーブから先は関係者のみ通行可。旗立松跡への訪問者は案内に従って進む。




クラブハウスの駐車場を右手に見ながら、カート道を上がっていく。




旗立松跡への登り口。標高およそ255m。




木段を上る。




途中にある、旗立松の由来を記した案内板。信玄が旗を立てた地は、三増峠と志田峠の間となる中峠の近くであったとされる。

現在の地形は東名厚木カントリー倶楽部が造成されているため、中峠がどの辺りなのかは分かりにくい。しかし、手元に「山と高原地図」の非常に古い版(1973年版)があるので、旗立松の伝承を事後的に検証してみた。なお、ウェブでも「地形図 明治」などと検索すれば細部が閲覧可能な更に古い地形図を見られる。

当時はまだ東名厚木カントリーは造成されていない。中峠に通じる尾根へのとりつきは、現在の地形図(電子国土Web)でいうと三増古戦場碑の北、「中原」の173mの辺り。
そこから旗立松跡の碑がある309mの地点までは、なだらかな尾根が続き破線も引かれている。そして尾根と破線は旗立松跡の先に現在も若干残されている尾根からその先へとなだらかに伸びていき、志田峠と三増峠をつなぐ尾根の中間、417mピークをかすめる破線のやや東寄り、385mあたりで破線に突き当たっている。そしてそのまま雨乞山へとむかい、雨乞山の先あるいは手前の分岐から韮尾根へと降りていく。
以上からすると、中峠というのは三増峠や志田峠のような尾根の鞍部(あんぶ)の乗越(のっこし)ではなく、尾根同士が交差する辺りの若干の窪みである385m地点をいうのかもしれない。

そして、信玄旗立松の309m地点は北条勢が着陣したと推定される三栗山ハイキングコースの山々の辺りをいい具合に見下ろす地点であり、その尾根筋は志田峠に通じる志田沢沿いの道を目隠しする。やはり、信玄は自陣の背後を緩やかに上っていくこの尾根の309m地点に中峠へと向かう目印となる大将旗を立てたとみて間違いないのではないだろうか。

もしも三増の台地での戦いが劣勢になった場合、信玄は合戦場から中峠へ通じる緩い尾根を駆け上がって一気に韮尾根へと進み、山県の隊と合流して撤退を図るという青写真を描いていたのかもしれない。
まるで自国の領内であるかのように地形を熟知していた可能性がある信玄。それも、小田原の支城であった津久井城の領内が実は北条と武田それぞれの家臣の影響力が入り乱れた「半敵地」であったことが大きいのかもしれない。表向きは北条の家臣として行動しつつ、信玄に情報を提供していた協力者が存在した可能性はもちろんあっただろう。




中峠への緩い尾根が消えてしまった現在、信玄旗立松跡への最後の登りは、意外ときつい。この写真の右下を踏み跡の山道が下りていくが、幅が狭く路肩に余裕のないきつい傾斜がつづら折りになっている。ロープなども張られていない。しかも年末のこの時期は落葉が積もり、登りはともかく下りは非常に滑りやすい。ストックが無いと山慣れないシニアの方には下りはしんどいかもしれない。




最後は緩め。




旗立松跡に到着。標高309m。時刻は14時25分。カントリー倶楽部入口からここまで100m以上登ってきた。これだけでもちょっとした山登りだ。




旗立松跡の碑。




周囲を見下ろす。ここからは戦場となった平地が一望できる。昔は尾根が南に向かってなだらかに下りていく地形だった。




展望図。




南東方面。




見えるとついついズームでぐいっと引き寄せてしまう、ランドマークタワー。




南面。南西方面はもう逆光がきつい。

カントリー倶楽部を後にして志田峠へ向かう。




カントリー倶楽部入口からしばらく行くと、道は未舗装となる。

左手は志田沢。峠へ向かう古道然とした雰囲気の道。




再び舗装路になった。




峠に向けて登っていくと、ずいぶんと開けた感じになっていて盛土に草が吹き付けてある。




事前に抱いていた想像とは様子がまるで違う。




15時10分ごろ、志田峠(310m)に到着。えぇ、これが志田峠?切通ではなかったのか?




志田峠から志田沢下流、三増合戦場の方向を見る。

事後的に調べてみると、志田峠のあたりは近年になって残土埋立が行われるようになりつい最近まで通行止だったようだ。事前の下調べではそこまで気付かなかった。歩く時期が少し早かったら無駄足になったかもしれない。

普通、市町村の境界は峠で越える尾根伝いに引かれることが多い。しかし、志田峠の場合は愛川町と相模原市(旧津久井町)の境界が峠ではなく志田沢の下流側となっている。峠から志田沢の下流に向かって愛川町域かと思えば、実はこの残土処理場は峠の向こう側から続く相模原市域となる。
旧津久井町などとの合併により政令市となってその権限が県から大幅に委譲された相模原市。愛川町の側としては沢の源頭を埋め立てられてしまうことによる下流域(愛川町側)への影響への懸念もあって、一悶着もあっただろう。

山県昌景が軍勢を動かすことで三増合戦の帰趨を決したという、往時の姿はもはや想像の世界に委ねるのみになってしまった。これもまた時代の移り変わりといって片づけてしまうには、ちょっと淋しい。
とはいえ、山歩きをすればあちこちで見られるように「何々峠」「何々越」が舗装林道によって往時とは姿が変わって久しいことなどザラなので、無責任な立場でノスタルジーに浸ってしまう訳にもいかない。




志田峠を韮尾根(にろうね)へと下っていく。




志田山朝日寺(しださん ちょうにちじ。清正光・せいしょうこう)前を通過。




行く手には東京農工大の農場(フィールドミュージアム津久井)が広がる。




道標に従い右折して、韮尾根バス停方面へ。標高248m。




広々とした韮尾根は、小さな扇状地が広がっている。三増合戦のおり、山県昌景の隊が着陣したという地。




東京農工大の農場内、「関東ふれあいの道」の分岐道標に到着。時刻は15時30分。今回の目的地は、あとは三増峠周辺を残すのみ。




ここから韮尾根バス停までは割と近いが、三増峠に向かうとしても地形図を見る限り尾根に上がれば起伏はそうきつくなさそうだし、距離もさほど長くない。夕暮れ時が近づいていたが、当初の予定通りそのまま三増峠(道標では津久井湖方面)へと向かう。




はやる気持ちで急ぎ足に尾根へと向かっていくと、ふくらはぎにちょっとした違和感。ペースを落とし、大きく深呼吸しながら歩いていく。




山道へ。




地形図の等高線を見る限り、登りは疲れた足にはちょっときついかな、と思ったが実際にはとても緩やか。














木橋を渡る。




西日が傾いてきた。




脚に無理がかからないよう慎重に歩を進めるうちに、あれっ、もう着いたと拍子抜けするくらい、あっさりと分岐に到着。時刻は16時ごろ。これなら、先ほど歩いてきたゴルフ場内の信玄旗立松碑への最後の登りのほうがよっぽどきつい。

分岐には「関東ふれあいの道」のしっかりした道標が立っている。「雨乞山 0.4q」。雨乞山の先は津久井城下の根小屋地区に通じ、津久井湖へと向かう。
当初は時間があれば雨乞山にも寄ろうかと思っていたが、パスして先へ進む。




三増峠方面への道は国土地理院二万五千分一地形図を持たずに歩く人が入ってしまわないよう、指導標は何もない。ここからは地形図には破線がひかれているものの市販の登山地図やガイド等には記載のない、バリエーションルートに準じたルートとなる。




西日に照らされる山道を進んでいく。




随所に道しるべとなる色テープ。
尾根が広くなり迷いそうな最初の地点は地形図上の417mピーク手前。地形図を広げてにらめっこし、三増峠への道を確認する。




さらに先へと進むと踏み跡がはっきりした分岐。




地形図を確認しつつ辺りをよく見ると、立木に「志田峠→」という手書きの標識を発見。そうか、ここから志田峠に下りられるのか。地形図上は峠そのものではなく愛川町側のゴルフ場沿いに下りられるようだ。

(そして事後的に調べた結果、先に信玄旗立松跡碑で触れたようにこのあたりが中峠であった可能性がある。武田の陣地に通じるかつての尾根道はゴルフ場造成で削られて消滅している。信玄はここから韮尾根へ、今来た道を逆にたどっていって撤退する場合を想定していたのだろうか。これは手引きをする土地の者がいないと無理だ。)




この先は道も少々荒れ気味。




ルートを示す色テープとは別に、古びた道標が打ち捨てられている。昔はそれなりに歩かれていたのだろう。




路肩が崩れかかっているような踏み跡をいく。ひょー、こういう道を歩くといかにも山の中を歩き回っている、という感じだ。




境界杭を発見。地形図を参照し、あとはこの踏み跡をたどれば三増峠に着くはずと確認して、ずんずんと突き進む。









再び足元に境界杭。よし、順調だ。

日没間近、ぼやぼやしているとすぐにあたりは暗くなる。峠を下りたら予定通りに浅利明神(合戦で討死した浅利信種を祀る)に寄ろうか、それともそのころには暗くなるだろうし、くたびれてきたので終点の上三増(かみみませ)からバスに乗ってとっとと帰ろうかなど、あれこれ思い浮かべながら集中力が完全に散漫になっていた。
韮尾根から雨乞山〜三増峠の稜線に上がるまでの道が、地形図の等高線にみる印象と違って実際の傾斜が非常に緩かったこともあり、三増峠への最後の下りも緩いだろうと先入観で動いていたこともまずかった。




やれやれ、ようやく峠に着いた。意外としっかりした道標があるな、と見ると「雨乞山 0.4q」。
あれ、なんだこれは?いつのまにか、ふりだしに戻っている。狐につままれた、とはこのこと。あぁ、やられた。

もう一度地形図を見るが、どこで反転してしまったのかが全く分からない。どうしようか。
時刻は16時30分過ぎ。今から再び三増峠を目指せば、確実に日は暮れる。日中ならともかく、どこで道をぐるりと折り返してしまったのかが分からない以上、暗がりの中をごそごそと三増峠へ向かうのはちょっと危ない。仕方がない、「関東ふれあいの道」のコースに従って、韮尾根バス停へ出るか。そちらのバス便は確か非常に少なかったはず。最悪、半原まで長々と歩くか。




テンションだだ下がりの中で韮尾根バス停へ向かう。こんな堂々巡りの失態は山歩きを始めたころ、三浦半島の森戸川源流でやらかして以来だ。あの時は初心者だからと言い訳がましい思いが廻っていた。しかし生まれ持った「うっかり八兵衛」みたいな気質はそう簡単には変えられない。肝心なところでやらかしてしまい、それを補う理性が未だ足りていないことがはからずも露見してしまった。

帰宅後に改めていろいろ調べてみると、志田峠分岐を過ぎた後の410mのピーク(これが志田山のようだ)あたりは、ピークに上っていく道とピークを巻くようにトラバースする道があるらしい。地形図に付けられた破線の道と実際の道が若干異なっているのは、ままあること。自分が辿ったのは明らかにトラバースする道だったので、ピークから下りてくる道に合流した時にどうやら方向を誤ったらしい。道の交わる角度からすればそんなことありえない、としか思えないのだがそれ以外には正にありえない。
さらに事後的に地理院地図(電子国土Web)で410mピークの該当箇所を最大限拡大してみると、確かに道が尾根道と巻道(まきみち)に分かれている。事前の下調べをそこまで徹底しなかったのは不用意だった。

それでも、現地ではポイントごとにしつこいくらいに地形図を参照して、それまでの確認と予測をするのは初見のバリエーションルートを歩く基本中の基本。もう、油断以外のなにものでもない。道に迷うというのは、こういうこと。こうして書いていると「なんでそんなところで間違えたのか」という、まさかをやってしまう。もしこれが丹沢の山塊奥深くなら間違いなく遭難だ(もっともこんな軽率な行動は深山では怖くて取れないが)。
こんな顛末を書くのはちょっとみっともないが、自戒の念を込めて。


「韮尾根」バス停でダイヤを確認しようとしたら、年末のダイヤとなる休日の部分に紙が重なっていて見えない。ずらしてみようにもずらせない。なんだこれは、とイラつくが迷っていても仕方がないので半原方面へと次のバス停まで歩く。
途中、「丹沢あんぱん」のオギノパン前を通るがこの状況では立ち寄って買い物をしていく気力がない。横浜駅あたりでも買えるし、まあいいか、と虚ろな気分で歩くうちに目に付いた次のバス停は「清正光入口」。そこで確認すると、20分余りで次のバス。なんだ、すぐじゃないかと思ったが冬の日没後のバス停でじっと待つのは寒い。乗り継ぎも気になったので半原まで歩いてしまうことにする。




すっかり日が暮れた日向橋。

「清正光入口」から「石小屋入口」までは距離もあり、クルマしか走っていないような国道で日比良野の台地からかなりの標高差を下ってきた。眼下には半原の町の明かりが広がり、煌々と光る日向橋が小さく見える。乗らなかったバスに追いつかれやしないかと冷や冷やものだったが、「半原」への到着は結局そちらより早かった。
しかし、「厚木バスセンター」行のバスもタッチの差で逃してしまい、寒い中を結局30分近く待つはめに。いつも首尾よくいく訳ではない。

今回は距離にしておよそ24q、4万歩。最後に来て何かとくたびれる山納めとなった。


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