まちへ、森へ。

中世の鎌倉古道・湯坂道を歩く

平成28年(2016)の5月下旬、中世までの東海道であった湯坂路(ゆさかみち。鎌倉古道・京鎌倉往還)を歩く。主に箱根神社や元箱根石仏群をはじめとした中世以来の史跡を巡り、併せて近世以降の史跡も訪ねて歩く。

 

1.元箱根・箱根神社から旧街道権現坂へ

湯坂路(箱根峠越え)はそれまでの古東海道であった足柄峠(あしがらとうげ)越えの道(律令国家の時代の東海道。足柄路)が延暦21年(802)の富士山噴火により塞がれたため、もう一つの道として開かれた。

 

足柄峠越えが復旧すると両道は併用されるようになるが、平安時代の紀行文に登場するのは足柄路の方が多い。沼津から御殿場の高原を経て足柄平野の関本(せきもと。南足柄市)へと下る足柄峠越えは険阻ではないものの箱根山を大きく迂回するルートであるのに対して、箱根峠越えは距離を大幅に短縮するという利点があった。

 

建久三年(1192)に源頼朝により鎌倉幕府が成立すると、歴代将軍家による箱根権現、伊豆山権現への参詣(二所詣。あるいは三嶋明神を加えた三所詣)の道として、箱根越えの湯坂路は重要な意味を持つようになる。
二社に対する鎌倉将軍家の崇敬は篤く、湯坂路は東西二大政治都市を結ぶ政治・経済の大動脈であると同時に宗教的意義の深い信仰のみちでもあった。

参考・神奈川の東海道(上)

 

 

早朝7時前、小田急・箱根登山鉄道の小田原駅。小田原止まりの小田急から箱根登山鉄道・箱根湯本行(11番ホーム)に乗り換える。

 

乗り換えのホームは、終着駅に見られる端頭式ホームが箱根湯本方面、新宿方面で互い違いとなる変則型。相互直通の特急ロマンスカーは上下線がこのホームの外側を挟むように通っている。
このような形のホームは全国的にもかなり珍しいのではないだろうか。

 

 

 

箱根湯本駅のバス停2番のりば・箱根登山バス箱根町線(小田原駅東口発。小田急系列)。となりの1番のりばは伊豆箱根バス(西武系列)の箱根町行き。
「箱根フリーパス」(小田急系)や「箱根旅助け」「箱根バスフリー」(西武系)を使わないなら、どちらを利用しても同じ。いずれも早朝から元箱根港方面へ行くことができる。

 

湯本から元箱根まで湯坂路の尾根を登って歩くか、バスで元箱根まで登ってから湯坂路を下って歩くかは、当日のぎりぎり直前まで思案。

 

湯本までの電車の車中、新松田駅を過ぎてから小田原駅まで、足柄平野を走る区間で西側の車窓を注意して見ていたのだが予想に反し富士山が見えない。天気予報どおり晴れたのに富士山は見えないのか、と若干気落ち。それでも「芦ノ湖スタートにすれば朝早いので見えるかもしれない」と思い、今回は山登りではなく山下りのプランにする。

 

 

 

元箱根港バス停に到着。芦ノ湖畔、標高およそ730m。向かいにはどっしりした山容の箱根駒ケ岳(1356m)が見える。その山すそに見えるのは、箱根神社の大鳥居(第二鳥居)。

 

駒ケ岳はロープウェイが湖畔の箱根園(西武系)から山頂まで通じており、観光客でも富士山と芦ノ湖の大パノラマを山登りせずに手軽に満喫できる。

 

 

 

賽の河原の裏からの箱根神社・湖畔の鳥居(平和の鳥居)。やはり富士山は見えない。
「足柄平野あたりで駄目でも芦ノ湖ならば、と思ったがこちらでも駄目なのか。それなら事前に当たりを付けておいた美術館の裏あたりの高みへ上ってみるのは取りやめにして、早々に箱根神社へ向かうか」と気を取り直す。

 

(ところが事後的に調べてみると、富士山が見える位置はひとくちに元箱根港あたりといっても、賽の河原付近ではなくもっと恩賜公園・関所方面寄りだったようだ。なんてこった。もしかしたらこの日は見えていたかもしれない。どうも詰めが甘い。)

 

 

 

賽の河原(さいのかわら)は元箱根港(小田急・箱根登山鉄道系列、海賊船のりばの方)の隣り、箱根神社の大鳥居(第一鳥居)のすぐ横。

 

苔むした石塔の一つには江戸時代前期の「貞享二 乙丑(きのと うし) 年(1685)」と刻まれているのが読み取れる。

 

 

 

賽の河原は江戸時代には地蔵信仰の霊地であったといい、たいへん多くの石仏、石塔が並んでいたという。

 

 

 

江戸時代後期編纂の新編相模国風土記稿(巻之二十九 足柄下郡巻之八 早川庄元箱根 下)によると、中世箱根における賽の河原はこの日これから訪れる「元箱根石仏群」界隈(湯坂路沿い)であった。
近世になると東海道が現在の箱根旧街道となったことによりここに移ってきた、とされる。人の流れが変わったためであろう。相模国風土記稿において元箱根石仏群の方は「元賽ノ河原」と記されている。

 

賽の河原というならば、その先には地獄がある。ここ芦ノ湖畔の賽の河原については江戸時代における幾つかの紀行文が見られるが、最も詳しく書き残したのは、実は日本人ではなく外国人のケンペルであった。

 

ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルは長崎オランダ商館の医師として元禄三年(1690)に来日。商館長の江戸参府に随行して箱根を越えた。彼とその弟子の著「日本誌」には、彼の目には大変珍しく映ったであろう日本の風習について詳しく書かれている。それはおおむね以下の通り。

 

「芦ノ湖の湖底には地獄があり七歳以下で死んだ子が苦しみを受けていた。すでに五つの地蔵堂が建てられており僧侶が「なんまんだ」と唱えている。旅人は僧侶にいくらかのお金を渡して名前と経文が書かれたお札をもらい、石をのせて湖底に沈めた。その文字が薄まっていくにつれて、子どもたちの苦しみは軽くなっていった。」

 

参考・「箱根の石仏」(澤地弘著。平成元・1989年神奈川新聞社発行)「改定新版 箱根を歩く」(平成3・1991年神奈川新聞社発行)

 

 

 

明治以降は廃仏毀釈の世の中で、また後年の観光開発で規模が縮小し、現在の姿になったとされる。

 

 

 

幕末の絵師、五雲亭貞秀(ごうんてい さだひで)による「東海道箱根山中図」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。画像結合はサイト管理者。

 

湖畔は賽の河原。無数の石仏、石塔が描かれている。大名行列が下りてきた杉並木から二又に分かれる道を芦ノ湖沿いに少し進んだ奥には、当時の「一の鳥居」。その奥に駒ケ岳。山すそには権現社。駒ケ岳の右手に二子山が、左手に富士山が描かれている。

 

 

 

新編相模国風土記稿にみる賽ノ河原図
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

湖側から見ると、山すそに五つの地蔵堂が描かれているのが分かる。

 

 

 

湖畔の遊歩道を歩いて箱根神社へ。

 

 

 

境内の案内図。

 

 

 

箱根神社・第三鳥居。

 

 

 

杉の大木が聳える、鬱蒼とした杉並木。

 

 

 

かながわの名木に選ばれている、「矢立のスギ」。伝承による樹齢は1200年(昭和59・1984年選定時)。幹回り(胸高周囲)は6mある。

 

平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討のおり、この杉に表矢を献納したと伝わる。

 

 

 

冠木門(かぶきもん)の奥に建つ武道場。
「矢立てのスギの故事以来源氏を始めとした後世の武将がこの先例に倣ったという由縁に基づき、武道場を開設した」とある。

 

 

 

第四鳥居のそばに聳え立つ、堂々たる杉の大木。

 

 

 

第四鳥居の奥に延びる、参道石段。

 

 

 

荘厳な境内。

 

 

 

第五鳥居脇の石楠花(しゃくなげ)。下界では大型連休の前半頃までが見頃だが、ここでは五月下旬の今が満開。

 

 

 

箱根山は古代より主峰・神山(かみやま。箱根最高峰・1438m)を御神体とした修験者による山岳信仰の霊場であった。
奈良時代の天平宝字元年(757)、箱根山に巡錫(じゅんしゃく)した万巻上人(まんがんしょうにん)が駒ケ岳を始め山中にあった神仏を習合して祀ったのが箱根権現の始まりとされる。

 

源頼朝が箱根権現を篤く崇敬したのは、打倒平家の緒戦となった石橋山の合戦(治承四・1180)に敗れた頼朝を、箱根権現の第十九世別当行実(ぎょうじつ)が支援したことによる。
頼朝は幕府を開いたのち、箱根権現を鶴岡八幡宮に次ぐ準宗社として厚く保護した。以来、執権北条氏、小田原北条氏、徳川氏と関東における武門の篤い崇敬は続いた。

 

参考・「神奈川の東海道(上)」「かながわの神社」

 

 

 

龍神水。

 

 

 

奉納された菰樽(こもだる)。「箱根山」「曽我乃誉」「丹沢山」「松美酉」「酒田錦」といった足柄の地酒銘柄がずらりと並ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

九頭龍神社新宮は御鎮座1260年記念造営事業のさなか。

 

 

 

神門。

 

 

 

拝殿。

 

 

 

芦ノ湖畔へ。

 

 

 

曽我の兄弟杉。現在は根元の切株が残るのみ。

 

鎌倉時代初期(建久四・1193)の「曽我の仇討ち」で有名な曽我兄弟。弟の五郎は稚児(ちご。少年修行僧)として箱根権現に預けられ、杉並木を相手に武術の稽古に励んだとされる。
やがて元服した五郎(曽我時致。そが ときむね)は兄の十郎(曽我祐成。そが すけなり)とともに富士のすそ野にて父の仇である工藤祐経(くどう すけつね)を討ち、本懐を遂げる。しかし兄は討死、弟は捕われの身となり助命かなわず処刑された。

 

 

 

 

 

 

 

湖畔の「平和の鳥居」へ。

 

 

 

 

 

 

 

四脚の控柱を持つ両部鳥居。

 

 

 

朱塗りの鳥居は、湖水に映える。

 

 

 

湖畔の元箱根園地沿いに元箱根交差点まで戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

波が小さく打ち寄せる、湖畔の水際。

 

 

 

元箱根港(西武・伊豆箱根鉄道系列、双胴船のりばの方)から国道一号(現東海道)・元箱根交差点を見る。

 

ここから国道一号をたどってゆくと、中世の箱根路を色濃く残す元箱根石仏群、湯坂路へと続いていく。

 

中世の道筋は国道一号沿いに行く方がより当時の道筋に近いのだろうが、国道沿いに長い距離を歩いていくのはいま一つ興が乗ってこない。
そこで、元箱根から箱根旧街道(近世の東海道)権現坂へ回り、「箱根の森」「お玉ヶ池」を経由して石仏群・湯坂路へ向かうことにする(浅間山・湯坂山自然探勝歩道)。

 

 

 

元箱根交差点から第一鳥居へ向かう途中の、御殿公園。この何気ない小さな公園に、箱根にゆかりの深い英国人貿易商バーニーの別邸があった。

 

 

 

第一鳥居まで戻り、その少し先へ行く。

 

 

 

道標に従って左折。

 

 

 

この杉並木は旧街道のもの(ドンキン地区の杉並木)であり、舗装車道とはいえ道幅は狭い。

 

 

 

清々しい、朝の杉並木。

 

 

 

左へ行くと木造の杉並木歩道橋が架かっている。

 

 

 

バーニー造立の碑。

 

英国人貿易商であったシリル・モンタギュー・バーニー(1868〜1958)は、英訳されたケンペルの「日本誌」序文を引用し、その別邸に碑を建立した。現在の碑の位置は別邸から移設されたあとのもの。以下に碑文を引用する。

「西暦千七百二十七年中御門天皇享保12年四月二十七日倫敦に於て出版せられたるケンピア氏著日本歴史の序文に曰く

 

本書は隆盛にして強大なる帝国の歴史なり
本書は勇敢にして不屈なる国民の記録なり
其人民は謙譲、勤勉、敦厚にして其拠れる地は最も天恵に富めり

 

新旧両街道の会合する此地点に立つ人よ 此光栄ある祖国をば、更に美しく尊くして卿等の子孫に伝へられよ
大正十一年十月吉日 於扇港 無外居士書(印)」

 

参考・「改定新版 箱根を歩く」(平成3・1991年神奈川新聞社発行)

 

 

 

ケンペル・バーニー碑。

 

 

 

杉並木歩道橋を渡って旧街道石畳へ。

 

 

 

権現坂を登っていく。権現坂は、ここから箱根権現への道が分岐していたことからそのように呼ばれた。

 

 

 

振り返れば芦ノ湖。木々が葉を落とす冬場のほうが芦ノ湖の眺めはよいかもしれない。

 

 

 

立祥(二代広重)画「東海道五十三駅 箱根」 画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

 

 

旧街道を横切る車道。お玉ヶ池・精進池への道標が立っている。

 

 

2.お玉ヶ池から精進池、元箱根石仏群、東光庵旧跡へ

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