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横須賀軍港と記念艦三笠


平成28年(2016)の大型連休のさなか、JR横須賀駅から京急横須賀中央駅まで、軍港周辺の歴史遺産を訪ねて歩く。

1.JR横須賀駅からヴェルニー公園




JR横須賀線・横須賀駅。明治22年(1889)開業。
横須賀線は海軍造船所や鎮守府が置かれ軍港都市となった横須賀への足として、軍部の強い要請により線路が敷かれた。

昭和15年(1940)築の三代目となる現在の駅舎は、そこはかとなくレトロな雰囲気を残す。

この駅舎も戦前のものであるが、横須賀は大規模な空襲を免れたため軍港などの施設が残った。おそらくは昭和20年ごろの工廠の稼働能力に対して打撃を与える必要性と、占領後の接収・利用の便宜とを天秤にかけてのことであろう。
同様のことは、大空襲で旧市街を焼き尽くした横浜で、港湾施設はきれいに残されていたところにも見て取れる。




明治19年(1886)、軍は陸海軍大臣の連名で「神奈川もしくは横浜から横須賀または観音崎への鉄道敷設」について閣議を開くことを要請。横須賀には海軍の軍港、観音崎には陸軍の砲台所があった。なお、その頃の京浜地区の鉄道は新橋(のちの汐留)・横浜(現桜木町)間のみ。

これに対して大蔵省は財源を理由に難色を示すも、当時建設中だった東海道線建設費の一時流用という措置で予算が付けられる。その上で鉄道局が調査した結果、「東海道線戸塚藤沢間より鎌倉に出て長浦港を経て横須賀に達する線」が相当とされた。
そして軍からの終着駅の提案については「横須賀を貫いて便利を図らんと欲すれば同所全体の市街に大改革を与えざるを得ず」予算が到底足りないので「暫く水兵営の東南端に止めても船渠の用品および軍港の需要品を運搬するに充分」と回答された。

後に鉄道局は終点を白浜(稲岡町。県歯科大学・三笠公園付近)とすることの可否を軍に照会。これに対して軍は「終点は容易に決定し難くなお審議を尽くして回答するので、それまで逸見(へみ)村に仮停車場を置いて開業して欲しい」と回答。こうして、現在の横須賀駅の地に横須賀停車場が開業した。

参考 「横須賀線百年(かなしん出版)」「新横須賀市史 通史編 近現代」




玄関から改札口・コンコース、ホームまで階段が全くない、平らな構造。




開業当初には終着駅だった横須賀駅は、現代のバリアフリー設計を先取りしたような構造。

なお、明治5年(1872)に開業した新橋停車場(元の汐留駅)、横浜停車場(現桜木町駅)も似たような構造であっただろうが、新橋停車場は駅舎玄関遺構が発掘されて玄関から改札へは数段の階段があったことが確認されている。

そうしてみると、横須賀駅は明治時代の関東近辺における終着駅の構造を現在に残す、貴重な鉄道遺産である。




右に旧一番ホーム(現在はトイレなどがある)、向こうに二番ホーム。




二番ホームと三番ホーム。列車の大多数は上り、下りとも三番ホームから発着する。

ホーム屋根の柱は、古い駅にときおり見られるレールを再利用した細い柱。




終着駅の車止めがある、二番ホームの線路。二番ホームの線路の隣りには、使われていなさそうな線路。そして、今は柵が設けられている旧一番ホームの名残り。




車止めのそばに、錆びついた古い水栓がいまだに残っている。蒸気機関車が運行した時代には機関車のボイラーを満たす大量の水が必要だった。




草ぼうぼうの旧一番ホームは長さも短く、わずかにその痕跡を残すのみ。




三番ホームの久里浜方面(昭和19・1944年に延伸)は、すぐそこにトンネルが見える。開業時当初にはなかった姿。




横須賀駅を出ると、横須賀港はすぐ。




ヴェルニー公園。

公園の始まりは終戦直後、帝国海軍の軍事機密保持の要請から解放されたこの地に新たに開園した「臨海公園」(第一臨海公園)。




ヴェルニー記念館。月曜休館。

このときは大型連休の谷間であったが、記念館の暦通りに休館していたので中は見学できず。館内には横須賀製鉄所(後述)で使用されたオランダ製スチームハンマーが展示されている。

建物にはヴェルニーにかかわりの深いフランス・ブルターニュ地方の住宅建築の特徴である、屋根窓(ドーマーウィンドウ)をのせた急傾斜の切妻屋根が取り入れられた。




公園から港を臨む。左手は海上自衛隊横須賀基地。横須賀には自衛艦隊司令部、横須賀地方隊(旧海軍横須賀鎮守府に相当)などが置かれている。




110という番号が記された護衛艦「たかなみ」。




右手は在日米軍横須賀基地(横須賀海軍施設)。
横須賀には在日アメリカ海軍司令部などが置かれ、アメリカ太平洋艦隊(ハワイ)の指揮下で西太平洋・インド洋に広く展開する第7艦隊が配置されている。

その巨大な戦力は、世界の海の半分近くを占める巨大な海洋域に展開するためのもの。当然ながら、日本だけを守っている訳ではない。

仮にこの巨大な海洋域におけるパクス・アメリカーナ(アメリカの覇権による平和)を放棄して安全保障条約に基づき日本の防衛のみにかかわるのであれば、専守防衛に重要な役割を持つのは潜水艦部隊やイージス艦であろう。少なくとも大がかりな空母機動部隊は必要ないことになってしまうだろう。




65という番号が記されたミサイル駆逐艦「ベンフォールド」。ミサイル攻撃に対する防衛システムである「イージスシステム」を搭載した「イージス艦」になっている。

なお、空母はこの奥。ヴェルニー公園からは見えないが、「田浦梅の里」の展望台、あるいはさらに崖を登って乳頭山(にゅうとうさん。205m)の山頂から遠景として望むことが出来る。




手前の潜水艦は自衛艦旗を掲げた海上自衛隊のもの。米軍基地エリアであるが、そこは日米共同利用となっている。潜水艦は番号が記されていないので、素人目には潜水艦としかわからない。

イージス艦の艦首あたりにも別の潜水艦が見える。




そちらの潜水艦の向こうには別のイージス艦、そしてずっと奥に小さく見えるのはおそらく、住友重機横須賀造船所(夏島)のゴライアスクレーン。




ドライドックを眺めるデッキへ。




旧横須賀製鉄所(横須賀造船所)のドライドック(船渠・せんきょ)。Bと記されたゲートの第1号ドックは幕末から明治初頭にかけて建造された、日本最古の石造ドック。

現在はドックを含めた広範囲が在日米軍横須賀基地の敷地となっている。




Aと記されたゲートのこちらは、第2号ドック。




幕末から昭和初期まで、横須賀造船所(のちの横須賀海軍工廠)は合計6つのドックが造られた。
最後に完成した第6号ドックでは大和級三番艦の空母「信濃」が建造された。


横浜の開港場もそうであるが、幕末になって忽然と現れる横須賀港もまた、鄙びた寒村に何の脈絡もなく突然出現した訳ではない。その近隣地域には既に中世以来の大いなる営みがあり、新たな適地が求められた結果そうなるべくしてその地は開かれていった。


ここ横須賀本港から広く横須賀市域に目を向けると、観音崎の南に位置する浦賀(浦賀湊)には幕末、幕府による大船建造の解禁にあわせて造船所(修復場)が設けられた。ペリー来航の翌年となる嘉永七年(1854)には、幕府にとって初めてとなる洋式軍艦(鳳凰丸)の建造が浦賀でなされている。

浦賀の地は水深のある深い入江。戦国時代には、浦賀は小田原北条氏水軍の拠点であった。

天正年間(1590年代)に家康が江戸に入府すると浦賀は長崎・平戸などとともにスペイン船との貿易港として重きを為す。その時代に家康の外交顧問として活躍したのがオランダ船リーフデ号の水先案内人であったイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)であった。アダムスは、江戸と浦賀に屋敷を構え、逸見(へみ)を知行地として与えられた。

家康の死去後、キリスト教禁教の流れのなかで平戸の商館以外の拠点は閉鎖される。こうして浦賀の近世初頭における貿易港としての役割は終焉を迎える。やがてアダムスも平戸にて死去。そののち平戸のイギリス商館も閉鎖され、スペインとの国交も断絶。貿易は長崎・出島に限定されていく。

貿易港としては終焉を迎えた浦賀ではあったが、江戸時代中期の享保五年(1720)には下田番所の廃止により新たに浦賀奉行所が置かれた。浦賀は江戸湾の入口として海防(海からの江戸防衛)や物流(廻船改め。積荷の検査・掌握)を奉行が取り仕切り、多数の廻船問屋が軒を連ねる三浦半島最大の街となった。
さらに時は流れて嘉永六年(1853)浦賀沖にペリーが来航、浦賀奉行所は応接の接点となる。

参考「新横須賀市史 通史編 近世」


浦賀の修復場は洋式艦船の造船所として活用するには小さかったので、幕府はその代替地を探すことになった。


まず幕府は長崎のオランダ人技師に協力を仰ぎ、当時幕府の長崎製鉄所(文久元・1861完成)に据え付けられていた機械を江戸周辺に移転することを考えた。しかしオランダ人技師は長崎の機械では小型船舶の修復程度しかできないと回答。また立地についても江戸周辺は水深が浅く適当ではないと教えられた。
そこで幕府は本牧から三浦半島までをくまなく調査し候補地を検討する。

当時イギリスは文久二年(1862)の生麦事件そして薩英戦争以来、幕府と距離を置き始めていた。そこで幕府は新たに着任したフランス公使レオン・ロッシュに対して、横浜沖でのフランス軍艦による幕府軍艦の修理依頼をきっかけとしてフランスの協力を要請。フランス側にしてもイギリス追随ではない外交を目論んでいたという事情があった。
ロッシュは横浜に来ている軍艦を引き合いにしつつ、そのような大型の軍艦が建造できる本格的な製鉄所・造船所の建設をすべきであると勧めた。

幕府側とフランス側は合同で幕府の蒸気船に乗船して、長浦と横須賀を調査。その結果、横須賀がフランスのツーロン港に似て水深の深い内海であることから最適という結論になった。
実はそれより以前にも、横須賀湾は横浜開港(安政六・1859)以来江戸湾内で頻発した外国船の海難事故の修理で外国船側が神奈川奉行と交渉、修理のための停泊に度々利用されていた。


そのうえでロッシュは、上海での任務を終えてフランスに帰国するところであった若き技師レオンス・ヴェルニーを適任者として推薦。来日したヴェルニーは幕府が所有していた佐賀藩献上の蒸気船修理機械や製鉄所・造船所建設予定地を視察。この仕事を引き受ける覚悟を決める。

こうして西洋諸国にもひけを取らない大型造船所の建設が始まった。




工事はまず幕府所有の機械を利用して小型船舶の修理工場(製鉄所)を横浜に設置。日本人技師の技術伝習の場ともなったその製鉄所は慶応元年(1865)から稼働が始まった。今では跡形もない横浜の製鉄所であるが、その様子は当サイトでも触れている「増補再刻 御開港横浜之全図」に見られる。
次いでヴェルニーは幕府からツーロンの視察・機械の買い付けに派遣された外国奉行に助言しつつ自らもフランス・イギリス・オランダから必要な機械を買い付け、建設事業に邁進する。

横須賀製鉄所は着々と整備され、機械類は横浜に頼らずとも自前で製作・調達できる体制が整っていく。そうして慶応三年(1867)にはいよいよ造船所の本体となる第1号ドック(船渠)の建設に着工。工事のさなか明治維新を迎えるが、事業は幕府から明治新政府に無事に引き継がれ、ドックは明治三年(1870)に完成した。


フランス人技師らの居留区内に設けられていた教会の宣教師フュレ神父は、幕府から新政府への横須賀製鉄所引き渡しの現場を目の当たりにした様子を次のように回想している。
「日本の革命は、フランスの革命に比べれば、ずいぶんと理性的かつ愛国的であった。というのは、フランスの革命とは、旧体制に由来するありとあらゆるものを破壊し、その体制のもとでの働き手を、礼儀も敬意も払わずに辱めたうえに、追い出そうとした革命であったからである。日本の革命の場合、新参者たちは旧体制によって着手された製鉄所の建設を全く放棄しようとも、もともとの働き手を屈辱しようともけん責しようともしなかった。
ある日、新たな日本人士官たちが横須賀に到着した。彼らは、ミカドの配下を自称していたが、むしろ諸大名の配下であり、もと士官たちにその座を明け渡すよう、丁重に述べた。もと士官たちは彼らの全権を認めていたために反対しなかった。彼らが求めたのは財産目録だけだった。・・・会食をしたあと、新旧の士官たちは決闘することも威しあうこともなく別れた。翌日以降、ヴェルニー氏は旧士官の時と同じように新士官と付き合うようになった。」

参考「新横須賀市史 通史編 近世」


製鉄所(造船所)が新政府に移った後、その所管は工部省に落ち着いていた。工部省の元で横須賀製鉄所は工場・修理用ドックが増設され大工場となる。名称も製鉄所から造船所に改称。生野鉱山(兵庫)からの鉱山用器材の大量発注、富岡製糸場(群馬)の工場建設工事を受注するなど、軍需よりは民需主体の大生産拠点となっていた。
一方、兵部省(海軍省の前身)は造船所の移管を政府に再三要求。造船所を手放す気など全くない工部省であったが、ついに明治五年(1872)政府は工部省から海軍省への造船所の移管を決定する。こうして横須賀造船所は海軍の一大拠点となった。

明治13年(1880)に現在の第2号ドックが完成したのち、明治17年(1884)には長崎の西海鎮守府と並ぶ鎮守府であった横浜の東海鎮守府が横須賀に移転してくる。
幕末から明治初期にかけての横浜は山手にイギリス・フランス軍が駐屯地を設け、各国の多数の軍艦が横浜沖に停泊していた。各国との交渉の都合上、指揮官や提督府といった部署は形式上はともかく実質的には横浜にある方が都合よかった。しかし明治8年(1875)、山手の駐屯軍は最後まで残っていたわずかな部隊も完全に撤収、日本を離れる。横浜は軍港色が薄れ商港・貿易港としての歩みが一層明確になっていた。
一方で横須賀は幕末から製鉄所(造船所)が建設されて以来、水兵営、兵学校、海軍病院、水雷練習所などが次々に置かれ、すでに海軍の一大拠点となっていた。

ただ、依然として横浜・東京との連絡は陸路が無く、湾内の連絡船航路に頼るという状況下にあった。こうしたなかで、先に見た横須賀駅が明治22年(1889)に開業する。




「横須賀弌覧図」(明治14・1881年発行)。

案内板によると「当時の横須賀製鉄所は観光地でありこの絵図は観光客のお土産で配られていた」とある。

鉄道が開通すると横須賀は海水浴や軍港見学、名所めぐりなどの観光地となっていった。なかでも軍港の見学は修学旅行の目的地ともなった。たとえば明治44年(1911)の記録として、長野県の女学校生徒による感想が残っている。それによると、生徒は鎮守府を訪れるとともに海軍工廠を見学。壮大な船台や空中高く往来する起重機などに驚きを隠さず、さらに軍艦「相模」の甲板に上がり水兵の案内で内部を見学。「我が小さき頭に宿されし海国精神、日本魂果して幾何なりしぞ」と感想を述べている。

参考「新横須賀市史 通史編 近現代」




横浜みなとみらいに残る石造ドックは明治中期の築であり民間の商船用ドックであるが、横須賀のこちらは幕末の、しかも幕府から明治新政府へと引き継がれた富国強兵の直球ど真ん中の遺構。その上、完全な状態で残っている。どこをどうみても「明治日本の産業革命遺産」に入りそうなもの。
世界遺産への申請にあたり九州・山口のほかに伊豆韮山(にらやま。旧江戸幕府天領・代官支配地)の反射炉や岩手釜石(旧盛岡藩)の高炉跡が加えられたのに横須賀のドックが項目に加わらなかったのは、ここが未だに在日米軍の管理の下で利用されていることから、日本政府の一存ではどうにもならないという政治的な理由でもあるのだろうか。




ヴェルニー公園の側にも、かなり古そうな石積みの護岸。明治期のものが残っているのか、あるいは横須賀を壊滅させた関東大震災(大正12・1923)後の復興工事があったのか。




大きなクスノキ。




バラ園。




小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ。1827〜1868)の胸像。

幕府にあって製鉄所建設に熱心であった小栗忠順は元治元年(1864)勘定奉行に再任。フランス語が話せる数少ない幕府役人として目付に抜擢された栗本瀬兵衛とともにフランス公使ロッシュとの交渉にあたり、その準備に奔走。製鉄所(造船所)建設に大きく貢献した。

しかし明治維新を迎えると新政府に対する徹底抗戦を主張。造船所完成を見ることなく官軍により斬首に処された。




フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837〜1908)の胸像。

明治維新による政権交代後もヴェルニーは製鉄所(造船所)建設の責任者として引き続き事業を遂行。製鉄に必要な水を確保するため走水(はしりみず)水源からの水道を建設した。
また幕末からの事業として、幕府の求めに応じて東京湾周辺に観音埼灯台(日本初の西洋式灯台。初代は現存せず)ほか四か所の灯台を築くなど近代化に大きく貢献。こうして多くの事業を成し遂げたのち、明治9年(1876)に帰国した。




ショッパーズプラザと、軍港めぐり遊覧船「シーフレンド7」。 運行会社は(株)トライアングル(公式ウェブサイト)




ヴェルニー公園に隣接するショッパーズプラザには、ヨコスカ軍港めぐり遊覧船の汐入(しおいり)ターミナルがある。




ショッパーズプラザの屋上に上がってみたが、ここからでもドックはあまりよく見えない。




ショッパーズプラザの右奥に見える超高層ビルは、京急・汐入駅前に建つメルキュールホテル横須賀(旧横須賀プリンスホテル)。隣接して横須賀芸術劇場。

そこには昭和の終わりごろまで、進駐軍下士官兵のクラブ「EMクラブ(Enlisted Men's Club)」(元は旧海軍下士官兵集会所)が建っていた。米兵のミュージシャンによる演奏のほか、元軍楽隊員であった原信夫(のちのシャープス&フラッツのリーダー)など日本人ミュージシャンも演奏した。

それより以前、戦前の大正期〜昭和初期にはモダニズムが日本の大都市部を席巻し、モダンボーイ・モダンガールの間でジャズが新しい心地よい音楽として流行。当時のジャズの雰囲気はグレン・ミラーやベニー・グッドマンのような大編成のスウィング・ジャズをイメージすればわかりやすいと思う。

戦時中には退廃的・煽情的(言うなれば「大人の色気ムンムン」)な敵性音楽として一時途絶えていたが、戦後の日本におけるジャズやブルース、そしてロックなどの洋楽シーンはここ横須賀などのベース周辺から再び広まっていった。




昭和62年(1987)当時のEMクラブ。 画像出典「新横須賀市史 通史編 近現代」。

昭和58年(1983)の返還後、平成2年(1990)の取り壊し前の姿。




ヴェルニー公園をあとにし、三笠公園へ向かう。




ここはヨコスカ。




キッチュな外観のホテル。
基地に赴任してきた在日米軍の面々にはいやでも目に入ってくるこの建物。何ともモヤモヤした、「何なんだこれは?」という印象を持たれそうだ。それとも、あちらさんはそういったことはあまり気にしないのだろうか。




案内に従って左折。




三笠公園へとむかう入口に架かるアーチ。




在日米軍基地の「三笠ゲート」前で右折。




三笠公園へと続く遊歩道。




三笠公園に到着。


2.記念艦三笠の艦内見学へ。  まち歩きトップへ戻る。