まちへ、森へ。

台地を渡る、時代の風

平成27年(2015)のソメイヨシノ咲く季節、開港場の居留地・山手(やまて)の外縁に広がる根岸(ねぎし)の台地を、主に開港期の足跡をたどって歩く。
根岸の台地は山手居留地の外縁として、古くから外国人との関わりが続いてきた。

 

1.JR山手駅からYC&AC、根岸外国人墓地、地蔵王廟へ

 

 

JR根岸線・山手(やまて)駅。
山手駅は、旧市街に位置する石川町(いしかわちょう)駅から山手〜根岸の丘陵を貫くトンネルを抜けた先、谷戸の谷あいに位置する。

 

海岸線に埋立地が広がる前、昭和30年代以前の根岸・本牧(ほんもく)地区は、崖下の海岸線沿い及び丘陵の尾根から発する小河川の千代崎川とその支流の流域を、その範囲としていた。
ただ、現在の千代崎川は河口の小港町(こみなとちょう)あたりを除いて暗渠化、さらにはその大半が埋められてしまったため、谷戸の地形を意識しない限りかつての川の存在には気づきにくい。

 

なお、山手駅から本牧通りへ向けてまっすぐ一直線に延びる大和町(やまとちょう)の商店街は、谷戸の谷筋にあたる。その辺りは幕末期からイギリス駐屯軍付属施設の鉄砲場(ライフル試射場)が設けられていた。鉄砲場の中央を流れていた小川がかつての千代崎川であった、という。

 

 

 

国大付属横浜小学校へ向けて、右手の急坂を登っていく。このあたりで標高約15m。

 

 

 

国大付属小学校の正門前から「YC&AC通り」をゆく。標高約44m。左手にはベイブリッジ、鶴見つばさ橋の主塔が見える。

 

 

 

まっすぐ進むとすぐにYCACの正門だが、県立緑ヶ丘高校(旧制横浜三中)への分岐を左に入り、YCACの敷地を裏側からぐるっと一周することにする。

 

 

 

YC&AC(ワイシーエーシー。横浜カントリー&アスレチッククラブ)。開港初期、居留地の外国人のためのスポーツクラブとして始まった。

 

公式サイトによると、創立は明治元年(1868)。YCC(横浜クリケットクラブ)として発足する。
明治27年(1884)には居留地の幾つかのスポーツクラブを併合、YCAC(横浜クリケット&アスレチッククラブ)と改称。
大正元年(1912)に現在地(中区矢口台。旧根岸町の一部)へ移転、新生YCAC(横浜カントリー&アスレチッククラブ)となった。

 

YCACは日本における西洋スポーツの黎明期に、幾多の足跡を残してきた。
野球界で最初の日本人・外国人の交流試合は明治29年(1896)、YCAC対旧制一高(現東大教養学部)ベースボール部。
ラグビー界で最初の交流試合は明治34年(1901)、YCAC対慶応義塾蹴球部(ラグビー部)。
KR&AC(神戸レガッタ&アスレチッククラブ)との定期戦は、日本おいてクラブスポーツの対抗戦の在り方を示すこととなった。

 

 

広さ33,000m sq.(33,000平方メートル。3.3ヘクタール・100m四方×3.3)の敷地には数種のスポーツ施設、社交場が設けられている。

 

 

 

YCACには、その歴史において非常に興味深い出来事がある。

 

実はYCACの敷地は敗戦後の一時期、進駐軍に接収されていたことがあった。そして、その用途は驚いたことに「米軍戦死者墓地」であったという。

 

保土ケ谷区狩場の英連邦戦死者墓地が戦前の児童遊園地を接収し造成されたことは当サイトでも触れているが、YCACの場合は旧児童遊園地と違って、元の姿に戻った。
これは単純に、英連邦諸国(The Commonwealth)が戦死者を現地埋葬する方針であるのに対して、アメリカ合衆国はそうではなくいずれ本国に送還する、ということによるのだろう。ただ、米国がYCACに、英連邦が旧児童遊園地に、それぞれ墓地を造成した詳しい経緯は分からない。
なお、YCACの近隣にある緑ヶ丘高校の校地も接収され(建物は大空襲で焼失)、管理する部隊の駐屯地として利用されたという。

 

 

 

広がるサッカー・ラグビーのグラウンド。

 

米軍戦死者墓地については「ハマちゃんのがらくた箱」ウェブサイトを参考にさせていただいた。

 

 

 

正門の、出口。

 

 

正門の入口。

 

 

 

YCACをあとにして、根岸外国人墓地へ。
正門出口と入口のあいだから延びる細い道を下って、山手駅方面へ戻る。

 

 

 

左手に仲尾台中学校が見える。中学校の下に、目指す外国人墓地がある。

 

 

 

右に山手駅。左へ入り、坂を上る。

 

 

 

墓地の正門へ。右手に見える石積み擁壁は、ブラフ積(ブラフづみ。長方形に切った石の長辺と短辺を交互に積む洋式の積み方)。

 

 

 

案内板。

 

 

 

根岸外国人墓地。山手外国人墓地(文久元年・1861設置)が手狭になったことを受けてここに造られた。
政府により新設が認められたのは明治13年(1880)というが、本格的な利用が始まったのは、市に管理が移った明治35年(1902)頃と考えられている。案内板によると、管理問題に加えて立地が不便だったため、とある。

 

明治の当時であれば、山手公園あたりから千代崎川(現在の本牧通り)におりて川沿いを進み、鉄砲場の谷戸(現在の大和町商店街)に入って奥へ進んでいくのが最短距離、ということになろう。現在のように駅前すぐ、というわけにはいかないが、それでもそれほど不便とも思えない。

 

 

 

背後の高台には仲尾台中学校。

 

谷戸の崖地を背後に控えたこの立地は鎌倉時代であれば「やぐら」(横穴式の武士・僧侶などの墓)を造りそうな地形だ。山手の丘上に広がる外国人墓地と比べたら、当時の西洋人たちにはずいぶんと閉ざされた印象だったのかもしれない。

 

 

 

外国人墓地を後に、地蔵王廟をめざす。

 

 

 

墓地から駅前へ。

 

 

 

山手駅前の立野(たての)小学校敷地を回り込み、正門まできたら右折して急坂を登っていく。ここで標高約15m。

 

 

 

坂の上(標高およそ50m)で突き当りを左折。尾根上を道なりに進む。

 

 

 

山元町(やまもとちょう)五丁目に出た。正面は根岸森林公園。左へ行くと根岸競馬記念公苑。

 

地蔵王廟へは右へ行く。

 

 

 

根岸森林公園から山手の丘へ至るこの道筋は、幕末開港期に外国人遊歩道のルートの一部として造られた。

 

きっかけとなったのは生麦事件(文久2・1862)。
当時、東海道・生麦の辺りは外国人遊歩区域の範囲内にあった。自由に出歩くことのできるはずの生麦で起きた民間人殺傷事件に諸外国は激怒し、東海道に代わる新道を造り大名行列はそちらを通せ、という要求が幕府に突き付けられた。
窮地に立たされた幕府であったが、新たに着任して間もないアメリカ公使から「新たに山手を居留地として開放し、横浜(開港場)から本牧を往還する乗馬の道を造ってはどうか」という提案がなされた。東海道から外国人を遠ざけたかった幕府は渡りに船とばかりにこの提案に飛びつき、慶応元年(1865)外国人遊歩道が整備された。
参考「ヨコハマ公園物語」。

 

 

 

外国人遊歩道。画像出典・横浜中区史。
山下町の居留地から山手〜根岸〜本牧を経て居留地へ戻る、周遊路が造られている。なお、図中の射撃場の左下側あたりが現在のJR山手駅、射撃場敷地が現在の大和町商店街にほぼ重なる。

 

山元町(やまもとちょう)の辺りは、明治の初めごろから居留地となった山手のさらに奥にある競馬場への入口として、街並みが整い始めた。山元町を中心とした街が出来上がると、その奥に清国人の墓地が設置された。
もっとも明治も十年ごろにもなると、外国人遊歩道は遊歩道としての役割を次第に終えつつあった。幕末に遊歩道がつくられた経緯に照らせば、それは自然な成り行きと言えた。

 

 

 

横須賀米海軍施設横浜支所・根岸住宅地区の看板。根岸住宅地区は、逗子市・金沢区にまたがる池子(いけご)住宅地区(旧池子弾薬庫)の造成・整備が完了したのちに返還されることになっている。
横須賀基地により近い池子の接収地が役割を変えて存続する一方で、こうしてようやく役割を終える接収地もある。池子の豊かな谷戸の森も、より大規模に造成されればもう元の森に戻ることは無い。それでも、その時々の必要に応じてことが図られ進んでいくのが、世の中の大きな流れというもの。

 

 

 

看板の向こうに延びていく道は日米共同使用区域。根岸森林公園の旧競馬場スタンドがあるエリアへ出る。

 

 

 

簑沢(みのさわ)入口信号のひとつ先の道から左に入る。ゆるく下ってきたこのあたりで標高およそ28m。

 

 

 

坂を上り最初の横断歩道を左へ入っていくと、中華義荘(南京墓地)。

 

 

 

門をくぐって登っていった先に、廟がある。

 

 

 

門。屋根には鯱鉾(しゃちほこ)が載っている。

 

 

 

珍しい木鼻。これはおそらく鳳凰の木鼻。獅子や獏・象が圧倒的に多い日本の(市域、県域の)社寺では、いまだ見たことがない。

 

 

 

こちらはたぶん鯱(しゃち)の木鼻。こちらも初めて見た。

 

 

 

案内板。

 

 

 

地蔵王廟。
この墓地は明治6年(1873)、居留地の外国人のうち、特に清国人の利用する墓地として整備が始まった。地蔵王廟は明治25年(1892)の築。市域では多くはない、明治期の建物が震災、戦災を乗り越えて残っている。

 

訪れたこの時はちょうど清明節(せいめいせつ)も近い時期。日本におけるお彼岸に相当するこの時期、廟は開扉され墓参りをする方々が多く訪れていた。

 

 

 

建物が前後に並ぶその様式は、広東省や台湾など華南地方の廟建築に多く見られるという。
地蔵王廟の背後にそびえる六角堂は「黄鶴楼」と呼ばれているそうだ。

 

 

 

廟の向こうにはこれから訪れる根岸森林公園の旧競馬場スタンドが見える。

 

地蔵王廟を後に、根岸森林公園へ向かう。

 

 

 

坂道に戻って先へ進むと、奥は根岸住宅地区のゲート。

 

 

 

手前の角を左に折れて下っていく。

 

 

 

根岸森林公園に到着。

 

 

2.根岸森林公園、白瀧不動尊、根岸八幡神社、旧柳下邸へ

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