平成25年(2013)10月末、相鉄線天王町駅から大門通り(だいもんどおり)・古東海道・旧東海道を歩き、権太坂(ごんたざか。新道)から狩場(かりば)の丘三園(横浜市児童遊園地・こども植物園、英連邦戦死者墓地)を巡って回るウォーキングへ。
3.横浜市児童遊園地・こども植物園・英連邦戦死者墓地
このページでは権太坂新道から狩場の丘三園(横浜市児童遊園地・こども植物園・英連邦戦死者墓地)を巡る。
保土ケ谷プールへ至るトンネルを抜けて、児童遊園地へ。
横浜市児童遊園地。初代は学制頒布五十周年記念事業として大正11年(1922)に計画、昭和4年(1929)に完成。関東大震災(1923)で完成が危ぶまれたが全市内の児童による一人十銭の寄付金も寄せられ、震災復興事業の資金もあてられた。
当時の児童遊園地は現在の英連邦戦死者墓地の一帯であり、芝生広場・池・青少年の家・運動場・プール・大弓場などが設けられ子供たちの格好の遠足の場であったという。
現在の児童遊園地は英連邦墓地の代替地として、昭和32年(1957)以降に整備された。面積約8ヘクタール(100m四方×8)。隣接する環境活動支援センターを含めると約14ヘクタール。
広場の傍らにある石碑。明治丗七八年戦役陣亡軍人之碑・乃木希典(のぎまれすけ)題、と刻まれている。
明治三十七八年戦役とは日露戦争(1904〜5)のこと。乃木希典(1849〜1912)とは帝国陸軍の大将。
この碑には当時の保土ケ谷町にゆかりのある戦没者が合祀されている。破壊された跡のような傷跡が痛々しい。
自由広場(おべんとう広場)が広がる。
初代のそれを受け継いだ児童遊園地という名称ではあるが、狩場自然公園といった趣き。
案内図。
環境活動支援センター(旧緑化センター)前の広場へ。センターは市民のみどりの分野の活動を支援する。
イングリッシュガーデン。
試験圃場(ほじょう)。
ハーブガーデンの傍らを抜けていく。
竹林。巡らされた建仁寺垣が、いい雰囲気。
出口から、こども植物園へ。
横浜市こども植物園。
こども植物園は昭和54年(1979)、国際児童年を記念して開園した。広さ約3ヘクタール(100m四方×3)。このあたりが区界で植物園側は南区六ッ川になる。
菊花展が開催されていた。
展示研修館。
バラ園。
秋のバラ園はこちらのページへ。
キャラボクの生け垣。
ぶどう園。
メンデルのブドウ解説板。
くだもの園。何十種もの柿の木が植えられている。
青空に映える、熟した柿。
生垣園。
こども植物園というが、子どもよりはむしろ大人の方が散策を楽しめる。
こども植物園をあとに英連邦戦死者墓地へ、墓地の緑の敷地沿いを行く。
英連邦戦死者墓地の正門。
英連邦戦死者墓地。終戦ののち旧児童遊園地(戦時中は錬成場となっていた)が接収され、この地のほか全国に分散していた英連邦戦没者の墓がここに集められて造成された。
昭和27年(1952)の接収解除後は英連邦諸国と日本の政府との間で新たに墓地使用協定がむすばれた。これを受けて市は敷地を日英政府に売却することとし、英連邦戦死者墓地は恒久施設となった。
なお、アメリカ軍墓地も戦後の一時期、YC&AC(中区矢口台)が接収されて造成されていた。
左手に訪問者の記帳室。右奥に、墓地への門。
イギリス区。英国の要人が来日した際は必ずといっていいほどこの地を訪れる。
広大な敷地には、戦時中捕虜となって日本で生涯を終えた兵士たちが眠る。
オーストラリア区。
オーストラリア区から、さらに奥へ。
カナダ・ニュージーランド区。
再び、イギリス区へ。
秋の西日に照らされる中、静寂が漂う。
正面右奥の石段から、インド・パキスタン区へ。
インド・パキスタン区。
奥の区画へ。
戦後区。
英連邦軍墓地と彫られた、石碑。
墓地を後に、再び児童遊園地へ。
児童遊園地へ戻ってきた。
竹穂垣の門をくぐり、梅林へ。
梅林。
こちらは二月末、梅花のシーズン。
シーズンオフの、花畑。
池。
自由広場(おべんとう広場)まで戻ってきた。ここから来た道を戻り、権太坂上(ごんたざかうえ)バス停へ。帰りは保土ヶ谷駅東口行のバスで保土ヶ谷橋の手前まで戻り、そこから旧東海道をたどってゆく。
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