まちへ、森へ。

旧東海道保土ヶ谷宿界隈から狩場の丘へ

2.古東海道から旧東海道、権太坂(新道)

 

1.天王町駅(旧帷子橋跡)から神明社、横浜ビジネスパークはこちら

 

 

古東海道と相州道(大門通り・だいもんどおり)の辻から、古東海道(古町)へ。

 

なお、ここにいう古東海道とはもちろん律令国家時代の古東海道ではない。そちらは鎌倉から横須賀の走水(はしりみず)を経て海(浦賀水道)を渡り上総(かずさ)へ至る道。

 

 

この細い道は、天正年間(1590年代)に徳川により近世の東海道が造成されてから、江戸時代初期(慶安元年・1648)に東海道の宿場町(現在に残る旧東海道保土ヶ谷宿の道筋。新町)が整備されるまでの東海道であった。さらに昔をいえば、中世までは鎌倉街道下の道(しものみち)古道の道筋だった。道沿いには寺院が立ち並ぶ。

 

なお、古東海道の江戸方面は辻から古町橋(ふるまちばし)を経て洪福寺松原商店街の先・追分(保土ケ谷区宮田町・西区浅間町(せんげんちょう)の区境)あたりで旧東海道と合流し、軽井沢、台町(だいまち)を経て神奈川(青木橋のあたり)へ至る

 

 

 

 

 

 

 

曹洞宗神戸山(ごうどさん)天徳院。天正元年(1573)建立。元は臨済宗であった。

 

 

 

本堂。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日蓮宗妙栄山西孝院大蓮寺。寛永2年(1625)建立。

 

門前には「日蓮上人帷子の里(かたびらのさと)御霊跡」の案内柱が立つ。鎌倉時代後期、若き日蓮が遊行のおり宿を得た帷子の里は、日蓮が最初に信者を得た所縁(ゆかり)の地、とされる。

 

 

 

山門。

 

 

 

本堂。

 

 

 

蟇股(かえるまた)には菊花の彫り物。

 

 

 

 

 

 

 

日蓮にまつわる故事。それによれば大蓮寺は日蓮上人民泊先の家主により建長5年(1253)に造られた法華堂が起源という。当初の民家は帷子橋(かたびらばし)そばにあったというが、度重なる水害を慮ってこの地に堂が建てられた、とされる。

 

 

 

古道へ戻り、先をゆく。

 

 

 

画面中央、横断歩道を渡ったところにも石柱の山門が。

 

 

 

高野山真言宗医王山延寿院遍照寺。貞観18年(876)の創建と伝わる。

 

 

 

本尊薬師如来坐像の解説板。

 

 

 

本堂。

 

 

 

木鼻(きばな)は獅子鼻、象鼻。

 

 

 

蟇股(かえるまた)には竜の彫刻。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに先へ行くと、保土ケ谷小学校跡。移転前の校地がここだった。

 

 

 

古東海道から狭い道を縫うように、旧東海道へ。

 

 

 

路地の先が旧東海道。

 

 

 

高札場(こうさつば)跡の案内柱。高札とは町のお知らせ掲示板みたいなもの。

 

 

 

金沢横町道標。

 

 

 

峯の灸(護念寺)で名高い円海山(えんかいざん)、金沢八景、古刹弘明寺(ぐみょうじ)、梅林の杉田、富岡の芋観音など、江戸時代に人気だった観光地へ向かう道は金沢道(かなさわみち。「いわな坂」から登っていく)から分岐していく道。金沢道の起点を金沢横丁(横町)といった。その道筋は鎌倉時代における「鎌倉街道下の道(しものみち)」古道の道筋にほぼ重なる。

 

 

 

東海道線・横須賀線踏切を渡って先を行くと、奥に本陣跡が見える。

 

東海道線は東西から起工され、東では明治5年(1872)開業の新橋(かつての汐留駅)〜横浜(現桜木町駅)の続きとして、明治20年(1887)に横浜〜国府津(こうづ。小田原市)間がまず開通。
なお、初代横浜駅移動の経緯についてはこちら(開港場の土木遺産)。国府津より先の旧東海道線(現御殿場線)についてはこちら(御殿場線複線時代の遺構めぐり)

 

駅は東海道の旧宿場に設けられ、保土ヶ谷にも程ヶ谷駅(昭和6・1931年保土ヶ谷駅に改称)が誕生した。なお、ここより先の東戸塚駅手前あたりには現役最古の鉄道トンネルである清水谷戸(しみずやと)トンネル(東海道線上り線に使用)がある。

 

一方、横須賀線は海軍の強い要請により明治22年(1889)に大船〜横須賀間が開通。現在は複々線のこの区間であるが、その第一歩としての複線化は明治31年(1898)、横浜〜大船間の完成を待つことになる。

 

 

明治24年(1891)の保土ヶ谷を描いた絵。奥が本陣。 画像出典・保土ヶ谷区郷土史・下(昭和13・1938発行) 

 

 

 

突き当りにある、本陣跡。右(西)への道は現東海道と旧東海道が重なっている。

 

 

 

左は旧東海道の時代には存在しなかった現在の東海道と保土ヶ谷橋。
保土ヶ谷橋の先を左へ曲がれば高島・横浜駅前を経て東京へ。右は保土ヶ谷駅西口ロータリーで途切れた環状1号の続きで井土ヶ谷(いどがや)切通しを経て鎌倉街道・南区通町(とおりちょう。大岡川流域・旧市街方面)へ。

 

 

 

本陣跡の案内板。

 

本陣は保土ヶ谷宿の名士である苅部(かるべ。明治初期に軽部と改称)家が務めた。苅部氏は、古くは小田原北条氏の家臣であった家柄。保土ヶ谷宿の本陣はここ一軒であった。

 

江戸を出発した行列は最初の宿を次の戸塚宿(江戸から十里。約40q)に取る場合が多く、上方(かみがた)からの行列は箱根越えをして小田原に宿泊したのちやはり戸塚宿(小田原から十里)に宿を取ったため、保土ヶ谷宿は休憩を取るために立ち寄られることが多かった。それでも年間に十件程度の宿泊があったという。

 

 

 

本陣の平面図。 画像出典・保土ヶ谷区郷土史(上)

 

宿場で唯一の本陣であった軽部本陣は、かなり広い。東海道でも十指に入る規模であったとされる。

 

 

 

今では通用門だけが残る。ちょうど修繕中だった。
もしも本陣が忠実に復元されたら素晴らしいだろうが、現実には敷地の大半が国道1号で削られてしまっているため隣地を買収、となるとかなり難しそうだ。

 

 

 

明治期の軽部本陣。 画像出典・保土ヶ谷区郷土史(上)

 

 

 

旧東海道でもある現東海道(国道1号)を西へ。この先、正月の箱根駅伝で有名な権太坂(ごんたざか)を経て狩場(かりば)の丘へ向かう。

 

 

 

往時を伝える案内板。

 

大名などが休憩を取るために立ち寄る茶屋のうち本陣の格式をもつ茶屋が茶屋本陣と呼ばれた。

 

 

 

道路に面した縦格子がいい雰囲気の明治初期の建物が現存する、旅籠(はたご)の本金子屋(ほんかねこや)跡。脇本陣の大金子屋とは別。

 

 

 

東海道が拡幅されて門の位置が現在の位置まで下がった、と記されている。玄関や門構(もんがまえ)は江戸時代には一般の旅籠では作ることを禁じられていたので、記述の門とは明治以降のことであろう。

 

 

 

 

 

 

 

復元された松並木。

 

 

 

一里塚跡。なお今回は訪れなかったがこの先、東戸塚の手前には往時の姿をほぼ留めている「品濃(しなの)一里塚」がある。

 

 

 

松並木についての解説板。

 

 

 

画面左手の橋を渡り、外川(とがわ)神社へ。

 

 

 

外川神社。先に訪れた神戸(ごうど)の神明社(しんめいしゃ)が所管している。

 

 

 

 

 

 

 

獅子鼻。

 

 

 

鷹の彫り物。

 

 

 

 

 

 

 

稲荷社。

 

 

 

外川神社の由緒。羽州(現在の山形県・秋田県)出羽三山(でわさんざん)の講に由来する。時期が前後しているが、出典に基づいた文面となっている。

 

 

 

復元された常夜灯も設置された、松並木プロムナードに戻る。幹線通り沿いという環境にめげず、すくすくと育ってほしい。

 

 

 

先を行くと、今井川の対岸に石碑が。

 

 

 

湯殿山の講にまつわる石碑。

 

 

 

旧道への案内。現在の国道1号権太坂は旧道の権太坂の勾配がきつかったために明治17年(1884)に新たに開削された。今回は狩場の丘が目的地のため旧道へは行かずにこのまま国道1号(現東海道)を行く。

 

 

 

横断歩道(保土ケ谷二丁目)の向こうが旧道(旧東海道)の続き。
保土ケ谷二丁目・東海道旧道から権太坂を経て境木地蔵尊へはこちらのページへ

 

このあたりから旧道沿いにしばらく進んだ先、元町ガード(元町橋)のあたりには、江戸時代のはじまる直前・天正年間(1590年代)に東海道が開かれてから慶安元年(1648)に新たな宿場町が造成されるまで、元々の集落(元町・もとまち)があった、とされる。街道が整備された当初の本陣はそのあたりにあったと考えられている。
のち、当時の人々が新たに造られた宿場町(新町・しんまち)に移転して現在に伝わる保土ヶ谷宿を構成した。

 

宿場町が新たに造成されるまで50年ほどの間使われた初期の旧東海道(あるいは古東海道というべきか)は、元町ガードのあたりから神奈川坂(神奈川方面に抜けるための坂道)と呼ばれる道を通っていたとされるが、その神奈川坂が現在のどのあたりを通っていたのか、高札場跡あるいは日蓮宗大蓮寺のあたりで古東海道に接続するまでどのような筋をたどっていたのかは明確な資料がなく、諸説ある。

 

ともあれ、仮に東海道に中世までの街道を利用するとなると、藤沢からは玉縄(たまなわ。大船のあたり)、永谷(ながや)、餅井坂(もちいざか)、弘明寺を経て石名坂(いわなざか)・金沢橋(金沢横丁)・神戸神明社・古町橋(ふるまちばし)あたりから神奈川(青木橋のあたり)に抜ける、いわゆる鎌倉街道下の道(しものみち)を通ることになる。
近世になって大名行列も行き交う街道として利用するには、尾根の山道が多かった鎌倉道は不都合であり、藤沢から戸塚を経由して保土ヶ谷に至る街道が当時の新道として造られた。これが旧東海道の成り立ちである。

 

なお、今井川の流れも新町の造成に伴って新町の外側を迂回するように掘り直され、現在の旧東海道・反則センター交差点あたり(中ノ橋の案内板がある)でグイッと曲がって再び元の流れに合流するように改修されている。
そのグイッと曲がった先の元の流れも今は埋められ、江戸時代の改修の続きが掘られて帷子川に合流している。

 

 

 

狩場インター。自動車専用道の保土ヶ谷バイパス(東名横浜町田インター方面)・横浜横須賀道路へ通じる。なお狩場インターというものの、ここからは首都高狩場線に入ることはできない。狩場線へは保土ヶ谷橋から環状1号(井土ヶ谷切通し)を上がり永田ランプから入る。

 

奥の煙突は保土ケ谷プールなどを併設する資源循環局保土ケ谷工場。狩場の丘の一角に建つ。

 

 

 

権太坂バス停。箱根駅伝で有名な権太坂はこちら。

 

 

 

権太坂上(ごんたざかうえ)信号。まだまだ坂は続く。新道が開削される前の字(あざ)にちなんでいるのだろうか。

 

 

 

蕎麦屋の先に見える緑が、狩場の丘に広がる三園(横浜市児童遊園地・横浜市こども植物園・英連邦戦死者墓地)のひとつ・横浜市児童遊園地の緑。三園合計で約24ヘクタール(100m四方×24)という、大きな緑地を形成する。

 

 

 

周辺の案内図。なお、旧道権太坂をたどると境木(さかいぎ)地蔵、品濃(しなの)一里塚がある。

 

 

 

トンネルを抜け、昭和4年(1929)以来の歴史を有する児童遊園地の入口へ。

 

 

3.横浜市児童遊園地・こども植物園、英連邦戦死者墓地へ

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