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野毛山界隈〜開港場の、もう一つの山の手〜


1.西区歴史街道・藤棚町から願成寺、神中跡、野毛山公園へ

相鉄(そうてつ)線西横浜駅から歩いて数分、西区藤棚町(ふじだなちょう)交差点。この界隈は江戸時代には久良岐郡(くらきぐん)戸部村(とべむら)であった。
戸部村は現在の京急戸部駅を中心とした町よりはかなり広範囲にわたっていた。




藤棚町交差点に立つ西区歴史街道の案内板。 案内図拡大版




前に延びる急坂は野毛山(のげやま)に向かう水道道(すいどうみち)、通称神中坂(じんちゅうざか)。
水道道は明治20年(1887)に敷設された日本最初の近代水道の上を通る道。丹沢北部の津久井郡三井村(みいむら)の水源地から横浜・老松町(おいまつちょう)の野毛山浄水場まで水道管が引かれた。




この案内板は旭区鶴ヶ峰・旧鎧橋そばのもの。トロッコを敷設して水道管を設置していったという。 案内図拡大版
なお表記の横浜村は厳密には開港(1859)と同時に横浜町に、さらに郡区町村制(1878)の横浜区を経て市制施行(1889)により横浜市となっていく。




横浜銀行前の藤棚。




藤棚の名の由来が記された案内板。町の潤いに、と私的に設けられた藤棚がいつしか評判を呼びやがて町名となった。
当初の藤棚は震災をくぐり抜けるも戦災で焼失してしまった。




右に神中坂、左にふじだな一番街。




ドラッグストア前にも藤棚がある。




ふじだな1番街。
この商店街は保土ケ谷道(ほどがやみち)の一部。保土ケ谷道とは江戸時代からの道で、東海道保土ケ谷宿から戸部村・野毛切通(のげきりどおし)を経て漁村の野毛浦に通じる道。保土ヶ谷宿についてはこちら

野毛切通あたりから野毛浦までは開港場(関内)と神奈川宿を結ぶ横浜道(よこはまみち)と重なるところとなり、横浜道が整備されると同時に道が広げられた。




この先に続く坂道はくらやみ坂(鞍止坂・暗闇坂)と呼ばれる。

名の由来は一説には、坂上からの眺めがよく源頼朝が馬を止め景色を眺めたという伝承によるものがある。
他説として昼なお暗き鬱蒼とした場所であったため、というものがある。くらやみ坂の先には開港(1859)以来から明治32年(1899)に移転されるまで戸部の牢屋敷・刑場があった。




信用金庫の脇に入る道が、願成寺坂(がんじょうじざか)。




願成寺。




地蔵堂。









山門へ向かう参道石段。




願成寺の由来碑。
高野山真言宗法亀山地福院願成寺。開基は新編武蔵風土記稿によれば天文(てんぶん)7年(1538)。寺伝によると天平(てんぴょう)年間、行基により草堂が造られたのが始まりという。
願成寺は横浜開港に際し安政5年(1858)に設けられた外国奉行(神奈川奉行を兼務)の役人が、神奈川奉行所(戸部役所)が完成(安政6年・1859)するまでの間、当面の宿舎として利用した。









ここは江戸後期の平沼新田(塩田)埋め立てで知られる平沼家(代々九兵衛を名乗った)の菩提寺でもある。




平沼家は戦後には平沼亮三市長を輩出した旧家。




明治末期の本堂。大正12年(1923)関東大震災で焼失。画像出典・ものがたり西区の今昔(昭和48年(1973)西区観光協会発行)。




現在の本堂は昭和5年(1930)築。入母屋造・唐破風(からはふ)の向拝(こうはい。せり出した屋根)。




向拝の下には、鳳凰。




蟇股(かえるまた)には龍の彫刻。




木鼻(きばな)は獅子鼻に獏鼻。




湾曲した海老虹梁(えびこうりょう)の上の手挟み(たばさみ)は、蓮と菊の彫り物。




延命の井戸。行基にちなんだ伝承がある。









清水清次、間宮一、鳶の小亀の墓への案内。指示に従って登っていく。




本堂の甍(いらか)の向こうに、ランドマークタワーがそびえる。




三者の墓。
幕末の外国人殺傷事件といえば薩英戦争の発端となった生麦事件(文久2年・1862)があまりにも有名であるが、そのほかにも数々の事件があった。
なお生麦事件碑についてはこちら。




鎌倉事件(元治元年・1864)の顛末。
鎌倉で起こった事件であったが外国人が被害者ということで開港場を管轄する神奈川奉行所の預かるところとなった。




戸部の刑場で刑に処される清水清次。画像出典・ものがたり西区の今昔(昭和48年(1973)西区観光協会発行)。
鎌倉事件に関しては強硬に犯人逮捕・厳罰を要求した英国公使オールコックの帰国直前に清水が捕捉されたということもあり、その真相につき諸説がある。




フランス人水兵殺害事件(慶応2年・1866)の顛末。
小亀は関取に罪を負わせるのは国辱と考え自ら進んで身代わりになった。その引き回しの日、横浜の芸者と鳶職が総出で繰り出し木遣(きやり)音頭を歌って小亀の冥土への花道を賑々しく飾った、という。




願成寺坂を登り、水道道へ。右手の石垣にはブラフ積(づみ)に似た石積みが見られる。
ブラフ積とは山手界隈にもっともよく見られる石積みで、長方形に切り出された石の長辺(長手。ながて)と短辺(小口。こぐち)を交互に並べる積み方。レンガのフランス積みに相当する。ここの石積みは長手と小口の並びがやや不規則になっているように見える。
横浜の開港に伴い開港場である関内を挟んだ東の山手・西の野毛山では土木工事が盛んに行われ、西洋式の石積み技術が多く導入された。




坂を上りきって水道道に出たところに、県営藤棚アパート。
水道道を左に進むと、野毛山公園へ。右に少し戻ると、神中(じんちゅう)跡の碑がある。




神中神高希望ケ丘高発祥の地の碑。
神中とは明治30年(1897)開校の、神奈川県尋常中学校。県内最古の旧制中学校。

開港場を挟んで外国人居留地の山手側にはいくつものミッションスクールが開校した。これに対しもう一方の山の手である野毛山の裏手にあたる戸部の丘のこの地には県下の中等教育を担うべく神中が開校した。他県に比べて開校時期が比較的遅れたのは私塾が多かったほか東京に近かったという事情にもよる。
神中はやがて明治34年(1901)神奈川県立一中(神奈川県立二中・現在の小田原高校開校による)、大正2年(1913)神奈川県立横浜一中(横浜二中・現在の翠嵐高校開校による)と名を変えていく。




開校当初の正門・校舎。関東大震災(1923)で焼失した。画像出典・グラフィック西・目で見る西区の今昔(昭和56年(1981)西区観光協会発行)。




震災後の正門・校舎。こちらは大空襲(1945)で焼失。画像出典・神中神高希望ケ丘高校百年史(平成10年(1998)発行)。

戦後にはこの地が手狭なこともあり、神中は金沢仮校舎を経たのち相模鉄道により提供された県立校屈指の広大な校地を新天地とする。新校地移転にあたりナンバースクールが廃止されたこともあって県立希望ケ丘高となった。
なお、市立金沢高は神中の金沢仮校舎からの移転後を引き継いだ。私立横浜中(高)は神中第5代校長黒土四郎が創設した。




隣の県教育会館の脇にひっそりと建つ同窓会館の桜蔭(おういん)会館と、落葉針葉樹の落羽松(らくうしょう。ヌマスギ)の大木。桜蔭の名の由来となった校地を囲む桜の木々は既に無い。




この木は長期間在職した神中第2代校長らの手により植えられたとされ、神中創生期を伝える唯一の証しといえる。




藤棚アパートの案内図。実はこの敷地が神中の校地であった。




神中校地。この形がそのままアパートの敷地になっている。画像出典・神中神高希望ケ丘高校百年史(平成10年(1998)発行)。




神中発祥の碑を後に野毛山へ向かう。水道道を先へ進むと、いったん急坂となって下りていく。




急な上り返し。




再び強烈な下り坂。「尻こすり坂」と呼ばれる。登り返した向こうの緑が、野毛山公園。

神中開校後、旧市街の少年たちは市電(藤棚町停留所)が開通するまでは野毛山を超えてこの急な起伏を上り下りしながら神中に通った。




野毛山公園に到着。


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